奮闘に心から感謝!
生き生きと友のもとへ
飛び込んでいけ!
広布勝利の要たれ!
光日上人御返事 P934
『松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり』
◇希望の明日へ
鏡はくもったり、よごれていては映らない。磨かねばならない。自己の生命の"鏡"を磨く作業は御本尊への信行の題目である。どこまでも自身の鏡を磨き、胸中の御本尊を力強く涌現するために大聖人は御本尊を建立されたのである。「観心の本尊」と大聖人は仰せである。"観心"すなわち己心の仏界を観じ、覚知するための御本尊である。『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』(P1244)と大聖人は断言している。信心があれば、そこに御本尊が顕現される。信心なくば、どんなに御本尊を持っていても功徳はない。
▽外交の極意は誠心誠意にあるー勝海舟。学会は皆が全権大使。信頼広げよ
▽きょう立春。厳しき冬を越えて生命は芽吹く。我らも勝利の春へ前進!
★質問:御書の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」とは、どのようなことでしょうか。
これは日蓮正宗(昭和30年当時)の根本的な、重大問題であります。頭で思索してもつかめぬし、私自身もわからない、しかし一応、理のうえから述べます。
凡夫の生活は煩悩だけであり、煩悩のみにあらずと考えるのは空想、観念であります。聖人や君子のごとくありたいと願っても、実際問題として不可能であります。うそをつかぬという者こそ大うそつきです。
自分の煩悩に生きながら、煩悩のままに、安心しきった幸福境涯をつかむ生活を「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのです。
漁師が漁をする姿は煩悩だけの世界であり、釣師が釣のなかに楽しみを感じている姿は、煩悩即菩提であります。
煩悩がなかったならば悟りはないのです。かりに、お腹がへって食べたいという心は、煩悩です。食べて満足する、満足することが菩提です。幸福なのです。人生に悩みというものがなかったら、人生ではないのです。その悩みが悩みでなくなってくるところが菩提です。
なにも菩提だ、悟りだといってたいして変わったものではないのです。煩悩があればこそ満足があるので、満足があるからこそ幸せを感ずるのであって、毎日朝起きて、からだの具合がよくて、食べるご飯がおいしくて、毎日自分のすることがうれしくて、これで困らない生活ができる、この生活が菩提です。
変わったものではないのです。煩悩即菩提というと、とても変わった人間になるというような、考え違いをしないほうがよい。