2022年9月22日木曜日

2022.09.22 わが友に贈る

寒暖差に注意。
季節の変わり目は
今一重の体調管理を。
夏の疲れを取りながら
健康第一で進もう!

盂蘭盆御書 P1430
『悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代下七代上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息夫妻所従檀那無量の衆生三悪道をはなるるのみならず皆初住妙覚の仏となりぬ』

【通解】
悪の中の大悪は、その報いの苦しみを、わが身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのである。善の中の大善もまた同じである。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのである。また上七代、下七代、上無量生、下無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである。さらには、子息、夫妻、従者、檀那、無量の衆生が三悪道を離れただけでなく、皆、ことごとく(菩薩の修行の中で最初の不退の位である)初住の位に昇り、また(極果である)妙覚の仏となったのである。

【先生の指導から】
なかには、ご家族が信心されていない場合もある。ご家族を、早くに亡くされる場合もあるかもしれない。しかし、大聖人は断言されている。
(中略)
一人が成仏すれば、皆を成仏させることができる。一人が幸福になれば、皆を幸福にしていくことができる。嵐の暗夜にあっても、一本の灯台が燦然と輝きわたっていれば、多くの船を安全に導いていけるようなものである。自身が根本である。
仏意仏勅の学会は、究極の「幸福の安全地帯」である。この学会とともに自分自身が生きぬいていくならば、一家眷属も皆、必ず幸福へとリードしていくことができる。この大確信を忘れないでいただきたい。

名字の言 鹿児島で話題の"90歳の現役美容師" 2022年9月22日
日本をはじめ、世界各国の教育思想に大きな影響を与えた米国の教育哲学者ジョン・デューイ。90歳の誕生日の祝賀会が開かれた時、感謝のあいさつに立った彼は「これからの将来に横たわっている仕事に自分が専念する」(石田理訳)と述べた。90歳を過ぎても、青年のごとく、学問に情熱を注いでいた▼鹿児島に"県内最高齢の現役美容師"として話題の女性部員がいる。20歳で美容師免許を取得し、28歳で独立。経営の浮き沈みや自身の病など、さまざまな苦労を乗り越えてきた。この道70年、90歳の支部副女性部長である▼彼女がカットとカラーを行い、同居する86歳の妹が接客を担当する。仲良し姉妹がもてなす美容室は、常連客も同世代が多い。無理はせず、予約は1日3人まで。「お客さまがいる限りは、店を続けていきたい」と、ますます元気だ▼加齢によって体が衰えるのは誰しも避けられない。しかし、心は違う。自分で希望を生み、挑戦を続ける人には、前進の息吹がみなぎっている。そんな人に接すると、こちらも元気になってくる▼池田先生は「『若さ』とは、年齢では決まらない。生命の力、生命の勢いで決まる」と教える。不屈の信仰でわが心を磨き、充実人生の一日一日を刻もう。

寸鉄 2022年9月22日
「ほむればいよいよ功徳まさる」御書。体験語り互いに讃え合う座談会に(新1713・全1242)
東京・青梅総区の日。わが地域を広布の理想郷に!誓願の祈り強く対話拡大
いかなる苦悩もやがては大きな実りに—戸田先生 多宝の友が厳然と証明!
未来の創造の為に今、何かを準備せねば—哲学者ベルグソン 青年は勇んで試練に挑め
今冬、流感と新型の同時流行に懸念—医師。基本的な感染対策を緩みなく

〈社説〉 2022・9・22 あす「手話言語の国際デー」
◇"違い"を"個性"と理解し合う社会へ
本年3月、ろう者の俳優が主な登場人物を演じた映画「コーダ あいのうた」が米アカデミー賞に輝いたのは記憶に新しい。同作はコーダ(ろう者の親を持つ聴者)の高校生とその家族が共に成長していく物語で、手話の豊かな表現力が多くの人を魅了した。
あす23日は「手話言語の国際デー」。手話言語を音声言語と対等であると認め、ろう者の人権が保障されるよう、社会全体での意識向上を促進するために2017年、国連で定められた。
既に06年には、手話を言語と位置付けた「障害者権利条約」が国連で採択。世界的にも、ニュージーランドや韓国など手話を公用語と定めた国は広がりつつある。
日本では、11年の東日本大震災が大きな転機となった。この時、避難の呼びかけや防災無線が聞こえず、逃げ遅れたろう者らが少なくなかった。手話による情報提供を求める声が高まったことなどから、同年改正の障害者基本法では「言語(手話を含む。)」と明記され、日本の法律として初めて手話を独自の文法を持つ言語として規定したのだ。以後、手話言語条例を制定し、住民の手話への理解を深める活動に取り組む自治体も増加。また、聴者が言語科目として手話を学べる大学も複数ある。
ろう者の活躍の舞台も広がっている。日本の手話とは表現などの異なる海外の手話を学び、留学を目指す学生がいる。筆談やスマートフォンの音声変換アプリ等を活用して、白ゆり長として広布に駆けるメンバーもいる。
池田先生は「桜梅桃李」という仏法の知見について、「それぞれの差異を認め合ったうえで、皆が平等に、自分自身を光輝あらしめ、麗しい人間共和の世界を築いていく、人間や文化の多様性を最大に尊重し、生かし、また調和させゆく哲理」と語った。これは、ろう者と共に生きる社会を考える上でも大切な英知だと思える。
このほど、ろう者など聴覚に障がいのあるアスリートが実力を競う、4年に1度の国際スポーツ大会「デフリンピック」が、25年に東京で行われることが決まった。"ろう者の五輪"とも呼ばれ、日本では初の開催となる。
同大会を機に、"聴者の「普通」にろう者が合わせるのではなく、互いに歩み寄る社会"を、そして"「違い」を「個性」として理解し合える社会"を築いていきたい。

☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第23回 アルバート・アインシュタイン
〈アルバート・アインシュタイン〉
他の人の喜びを喜び、他の人とともに苦しむこと——
これが人間にとって一番の指針です。

「笑ってください」とのカメラマンの要望に、舌を出してユーモアたっぷりにほほ笑む。
飾らないユニークな人柄で知られるアルバート・アインシュタインの有名な写真は、72歳の誕生日パーティーの帰り際に撮影されたものだった。
"現代物理学の父"アインシュタインは1879年3月、ドイツ南部の都市ウルムで暮らすユダヤ人の両親の元に生まれた。
科学に興味を抱くきっかけとなったのは、幼少期に手にした方位磁石。どの方角に向けても北を指し続ける磁針——物体に作用する"目に見えない不思議な力"の存在を知り、科学のとりこになった。
磁針に据えられた少年の眼は、やがて宇宙の謎の解明へと向けられ、科学者になるという夢をもつように。しかし、そこへ至る道は決して平たんではなかった。
父が営む工場の経営不振を機に学校を中退。その後、受験の失敗を経て大学進学を果たすも、今度は就職でつまずいた。
やむなく臨時の教師をしながら研究を続ける中、友人の助けもあり、スイスの特許局に就職。そこは安定した職場ではあったが、夢をかなえられる場所とは言いがたかった。
それでも、アインシュタインの科学への情熱が消えることはなかった。「私には特別な才能などありません。ただ好奇心が激しく強いだけです」
1905年、26歳の時に「特殊相対性理論」をはじめとする三つの科学論文を発表。それは200年以上、物理現象の常識とされた「ニュートン力学」に基づく「時間」と「空間」の概念を覆す内容であった。
支持を表明する著名な物理学者はいたものの、無名の青年の論文は容赦なく誹謗された。ユダヤ人という理由で中傷されもした。
「人間としての真の偉大さにいたる道はひとつしかない。何度もひどい目にあうという試練の道だ」——彼の信念はその11年後、「一般相対性理論」の完成として結実する。精密な天体観測の結果、この理論は証明され、科学の発展に尽くした功績によって21年度のノーベル物理学賞が贈られた。
アインシュタインは後年、次のように記している。
「他人のために生きる人生だけが生きがいのある人生だ」「他の人の喜びを喜び、他の人とともに苦しむこと——これが人間にとっていちばんの指針です」と。
"何のための科学か"——波瀾万丈の人生の中でそれを問い続けた姿こそ、「20世紀最大」と称される物理学者の実像であった。

〈アルバート・アインシュタイン〉
我々は自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ、他者の心を変えることができる。

アインシュタインは戦争を憎んだ平和主義者でもあった。
彼が生きたのは、日進月歩の科学技術が、2度の世界大戦で武力として使用された時代。科学はあくまで手段であり、それを用いる人間次第で「希望」にも「恐怖」にもなり得る、というのが彼の考えであった。
本格的に反戦・平和運動へと身を投じるようになったのは、1914年の第1次大戦勃発以降。欧州の文化を支持し、人々に分断ではなく連帯を呼びかける声明書に署名したほか、戦争の早期終結を目指してフランスの文豪ロマン・ロランらと意見を交わした。
また、国際連盟の知的協力委員会にも所属。「人々の間の語らいは、魂のふれ合いを進めうる」との思いで、物理学者マリー・キュリー、詩聖タゴール、心理学者フロイトら知識人と親交を結ぶ。
そうした中、祖国ドイツではナチスが政権を掌握(33年)。ユダヤ人は総じて迫害の対象となり、アインシュタインは一家でアメリカへと亡命する。
遠い異国の地にまで届く同胞の悲痛な叫び。胸をえぐられるような毎日を過ごしていたある日、一人の物理学者から相談が持ちかけられる。それは、ドイツが原子力を利用した新型爆弾をつくっている可能性と、対応が必要だと米国のルーズベルト大統領に伝えるべきであるとの趣旨であった。
アインシュタインは、大統領宛ての書簡に署名。ドイツが製造間近ではないと分かるのは後の話だが、これが米国による原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を急がせることになった。
彼自身、実際の開発には携わっていない。しかし、新型爆弾の原理には、相対性理論で示した質量とエネルギーの関係を表す公式が応用されたのである。
45年8月6日、世界初の原爆が広島に投下。3日後には長崎にも落とされ、無数の尊い命が一度に奪われた。人類最悪の悲劇が起きた事実を知り、アインシュタインは絶句した。そして、その後悔を背負い、残りの人生を対話による核兵器の廃絶に捧げていく。
「恒久の平和は脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」「我々は、自らの心を変え、勇敢に声を発することによってのみ、他者の心を変えることができる」と。第2次大戦が終結したこの年、彼は65歳になっていた。
アインシュタインが生涯を閉じたのは、10年後の55年4月のことである。最後まで科学の探究と平和の創造に生き抜き、亡くなる7日前には全ての国に核兵器と戦争の根絶を訴える共同声明への署名を承諾。この声明は「ラッセル=アインシュタイン宣言」として、科学者など11人の連名で世界に発信され、平和の誓いとして次代に継承されていった。

〈アインシュタインを語る池田先生〉
「私の永遠は、今、この瞬間なんだ」
清新な決意の一念に立ち返るならば、わが生命に元朝の旭日が赫々と昇る。
人生は戦いである。充実と歓喜の峰へ、新たな一歩を踏み出すのだ。

今から100年前の1922年秋。アインシュタインは日本を訪れ、各地で講演活動を行った。
最初の講演会の場所は、東京・慶應義塾大学。会場には、創価の父・牧口常三郎先生と22歳の戸田城聖先生の姿があった。
戸田先生は5時間にわたる相対性理論の講義を受講した思い出を"人生の誉れ"として、折々に愛弟子の池田先生に語った。
池田先生は恩師の会社で少年雑誌の編集長をしていた21歳の時、「少年日本」の第1号(49年10月号)でアインシュタインを取り上げ、その魅力を伝えている。
そして「ラッセル=アインシュタイン宣言」から2年がたち、同宣言に基づく世界の科学者の連帯「パグウォッシュ会議」が発足されて2カ月後の57年9月8日。
戸田先生は青年部の「若人の祭典」で、核兵器を絶対悪と断ずる「原水爆禁止宣言」を発表した。
民衆の生存の権利を脅かす魔物を断じて許してはならぬ! この思想を広めることこそ、青年の使命である——烈々たる師子吼が、横浜・三ツ沢の競技場に集った5万人の胸に刻まれた。
恩師が「青年への遺訓の第一」とした宣言は学会の平和運動の原点となり、その精神は池田先生に継承された。先生は毎年の「SGIの日」記念提言や各国の首脳・識者との対話を行うとともに、青年を軸にした草の根の運動を提案するなど、核兵器廃絶を目指す連帯を世界に広げてきた。
「ラッセル=アインシュタイン宣言」の署名者の中では、ライナス・ポーリング博士(ノーベル化学賞・平和賞受賞者)、ジョセフ・ロートブラット博士(パグウォッシュ会議名誉会長、ノーベル平和賞受賞者)と深い交友を結び、それぞれ対談集を発刊している。
さらには、随筆やエッセー、スピーチなどでアインシュタインの珠玉の言葉を紹介し、社会の繁栄と平和の建設に尽くす友に指針を贈ってきた。
「大科学者アインシュタイン博士は、『私の永遠は、今、この瞬間なんだ』と言った。
仏法は一念三千と説く。『今、この瞬間』の一念に、『永遠の勝利』も『三世の功徳』も納まっている。いついかなる時も、清新な決意の一念に立ち返るならば、わが生命には、元朝の旭日が赫々と昇りゆくのだ。(中略)
人生は戦いである。ならば今、悔いなく、不滅の戦いを起こすのだ。自身の充実と歓喜の峰へ、新たな一歩を踏み出すのだ」(2007年12月29日付「随筆 人間世紀の光」)
「博士は、こんな言葉も残している。『高貴な思想と行為に導きうるのは、偉大でかつ純粋な個性の実例のみである』と。
率先垂範の『実例』がありてこそ、新たな価値創造の波動も広がる。我らの掲げる『青年の拡大』も、先駆の『一人』から始まるのだ」(17年1月25日付「随筆 永遠なれ創価の大城」)
今月8日、「原水爆禁止宣言」の発表から65周年を迎えた。広宣流布即世界平和の大誓願へ——弟子が立ち、弟子が戦い、弟子が勝つ時は常に「今」である。