2022年9月15日木曜日

2022.09.15 わが友に贈る

苦難と戦う友の元へ
真っ先に駆け付ける。
それが仏法者だ。
確信と真心の励ましで
共に宿命転換の劇を!

別当御房御返事 P901
『但し当時日蓮心ざす事は生処なり日本国よりも大切にをもひ候、例せば漢王の沛郡ををもくをぼしめししがごとしかれ生処なるゆへなり』

【通解】
ただし、いま日蓮が心に願うことは生まれた土地のことである。日本の国よりも大切に思っている。たとえば漢の高祖劉邦が沛郡を重くみられたようなものである。

名字の言 入会2年目の壮年の"勝利宣言" 2022年9月15日
新婚旅行から帰ってきた男子部の友に土産話を聞いた。胸を躍らせて出かけたものの、飛行機の遅れによって行程が狂い、天候にも恵まれず……と、目的地に着くまでハプニング続きの珍道中だったという▼ただ、楽観主義の妻に「いろいろあった方が思い出になるよ」と元気づけられ、心持ちが変わったそうだ。彼は笑顔で語っていた。「2人で『何のこれしき!』と励まし合って、とても楽しかった」「行く先々で親切な人たちと出会い、新たな友好を結んだ」と▼先月の座談会では、入会2年目の壮年からうれしい報告があった。壮年は失業して悩んでいた昨年、「この信心で必ず、苦難を乗り越え、勝利の人生が開けるよ」と温かく励まされ、入会していた▼以来、唱題を重ね、就職活動に奮闘するも不採用が続き、落胆した。それでも事情を知る同志の激励も支えにして、ついに再就職を勝ち取った。「振り返れば、思い通りにいかないことは数々ありました。でも、皆さんと一緒に信心して、後悔した日は1日もなかった」。壮年の"勝利宣言"に参加者は喝采を送った▼目的地だけでなく、道中にも楽しみがあるのは旅行に限らない。広布の旅路は、前へ進む一歩一歩に真の幸福を見いだせる。

寸鉄 2022年9月15日
青年は高く大いなる理想に生きよ!—戸田先生。広布即平和の大道を歩め
命の守り手・ドクター部の日。尊き献身に感謝。「健康の世紀」の旗手たれ
東北女性部の日。周囲に希望送る"福光の太陽"。自他共の幸築く連帯拡大
「一文一句なれども耳にふるる者は既に仏」御書。共々に勇気の対話に邁進(新1213・全936)
竜巻発生数は9月が最も多い—調査。最新情報を常に。安全確保を最優先

〈社説〉 2022・9・15 きょう「ドクター部の日」
◇"命の守り手"の奮闘にエールを
コロナ禍との戦いが続く中、今月から一部地域で、感染者の全数把握の見直しが開始された。医療機関や保健所の負担軽減のためだ。また政府は、人々の生活を守り、支えるために重要な社会経済活動と、感染防止の両立を図る「ウィズコロナ」へ、感染者の療養期間短縮などの施策を実施。国内は"新たな日常"の構築へ、動き始めている。
そこで不可欠なのは、一人一人の基本的な感染対策はもちろんのこと、懸命の対応・治療に当たる医療従事者の方々の存在だ。コロナ禍の約3年もの間、苦しむ人々を救うため献身を貫く姿に感謝は尽きない。
きょう15日は「ドクター部の日」。淵源は、1975年9月15日に行われた部の総会に、初めて池田大作先生が出席したことにある。以来、池田先生は折あるごとに記念の集いに出席するなど、友の奮闘を称賛し、激励を重ねてきた。2008年の研修会で先生は語った。「医学の根本は、人間への慈愛であるといえよう。病気と闘う患者に安心を与え、希望を贈っていく。皆様は、そうした人間性の光る『名医』であっていただきたい」
都内でクリニックを営む壮年の友は、コロナ後遺症に苦しむ患者の治療に全力を挙げている。倦怠感など、さまざまな症状に悩む患者に接する際、彼が最も大切にしてきたことは、師の指針のままに、希望となる言葉をかけることだという。彼は"日本で一番、後遺症患者を診ている医師"と呼ばれ、各種メディアで後遺症の実態を伝える活動にも励んでいる。昨年、感染症で著名な大学の研究員にも就任した。
仏教には、医学を尊重してきた歴史がある。釈尊の直弟子には、分け隔てなく平等に多くの人の命を救い、「医王(医学の王者)」と称された耆婆がいた。日蓮大聖人は耆婆などの名医を「その時代の宝であり、後世の医師の師」(新1962・全1479、通解)とたたえている。
感染症だけでなく、心の病の増加、また社会の高齢化の進行等、多くの課題を抱える現代。その中にあって、"命の守り手"として人々に安心を広げるドクター部の使命はますます深い。混迷の時代に皆を支え、信頼の灯台と輝く同部のメンバーのさらなる奮闘にエールを送っていきたい。

☆輝きの瞬間 8月の広布史
◇1983年8月14日 第3回世界平和文化祭
北海道の友と8月——そこには、決して色あせない師弟のドラマが幾重にも刻まれる。その一つが、1983年8月14日の「第3回世界平和文化祭」だ。それは、北海道広布開拓30周年を慶祝し、21世紀へ新たな出発を開始する祭典であった。
その4年前の79年4月24日、池田先生が第3代会長を辞任。邪宗門が「(池田先生を)先生と呼んではならない」と強いる中、北海道の友は広布拡大に奔走した。
81年9月、第9回「北海道青年部総会」に新会員5000人を含む4万5000人の青年が結集。82年2月には、全道で青年主張大会を開催した。北海道は青年が先頭に立って、創価の正義を宣揚したのである。
翌83年5月末、北海道での「世界平和文化祭」の開催が発表された。会場は札幌の真駒内屋外競技場(当時)。練習期間はわずか1カ月半。急ピッチで準備が進められ、一人一人が限界突破に挑んだ。
迎えた当日。36カ国2000人の世界の友が集い、計6万人の参加者が競技場を埋めた。
12時59分——大きな拍手と歓声に会場が揺れた。炎天下のグラウンドに先生の姿があった。
先生はあいさつした後、ゆっくりとグラウンドを歩き始める。帽子を高く振りながら、何度も立ち止まって、友に声を掛け続けた。
祭典は熱演に次ぐ熱演だった。演目の全体練習は、たった2回。にもかかわらず、見事な団結で、8000人の来賓を魅了する演技を披露した。
クライマックスを飾ったのは、5段円塔。先生は、最上段に上った青年に、その日、身に着けていた自身の胸章を贈った。
文化祭の終了後、先生は一首の和歌を認めた。「六万の 歓喜のうねりは 北海の 天地に舞いたり 歴史綴りて」
「六万」には、祭典を陰で支えた役員も含まれる。当時のほとんどの青年部が携わり、師弟の共戦譜をつづった栄光のあの夏。青春の輝きは、今も友の胸中に燦然と光を放っている。

◇1984年8月26日 第1回北陸平和文化祭
"北陸で5万人の文化祭を!"——開催が発表されたのは1982年の9月、池田先生を迎えて行われた、北陸広布開拓25周年を記念する勤行会の席上である。石川、富山の同志は、かつてない弘教に励んでいった。
84年8月の開催に向け、同年5月、先生から北陸に伝言が届いた。"しっかり祈って、盛大にやろう!"。その後、このような激励は7度に及んだ。
8月23日、先生は富山空港に降り立ち、富山文化会館へ。車中、北陸青年部の活躍を聞いた先生は、「明日は、北陸の青年たちと会おう!」と。「8・24」は先生の入信記念日。「大事な日だから」と、恩師の故郷・北陸の青年たちとの勤行会を開催することになった。
後に先生はつづっている。「急な呼びかけであったが、翌日、優秀な三百人の男女青年部の代表たちが、颯爽として、我らの牙城の富山文化会館に集ってくれた」
席上、先生は青年たちに、"苦難に負けてはいけない。地道に、賢明に、伸び伸びと進もう!"と訴えた。この勤行会は8・24「北陸青年部の日」の淵源となった。
翌25日は五箇山の富山研修道場(当時)へ。地元の功労者らと勤行し、懇談した。
26日、文化祭の当日。先生は開始40分前に、会場の金沢市・石川県西部緑地公園陸上競技場に到着。"北陸の全同志を讃えたい"と、フィールドを1周し、両手を大きく振り、友の歓声に応えた。
午後2時、「第1回北陸平和文化祭」が開幕。1万1千人の来賓を含む、5万人の一大イベントである。一つ一つの演目に、平和を願う民衆の心が躍動していた。8月26日は後に「北陸の日」に。
翌27日、先生は石川文化会館で、人材育成グループや少年少女部の合唱団の代表との集いに出席。28日には、小松空港から帰京する直前に小松会館へ。200人ほどの参加者と共に、同志の幸福と、さらなる広布伸展を祈念した。
6日間の間断なき激励行は、北陸の友の師弟共戦の原点である。

◇1967年8月13日 福井訪問、15日 岐阜訪問
1967年8月13日、池田先生は第3代会長の就任後、初となる福井訪問へ向かった。
福井の友は"広布拡大の証しで師をお迎えしよう!"と、弘教に励んだ。前日も、各地で新来者を招いての座談会を一斉に開き、対話の花を咲かせた。
迎えた当日、先生は福井会館(当時)で、リーダーと勤行し、「仏道修行は、一生涯のものです。粘り強く、信心をしきっていくことが大事です」と語った。
その後、福井県民会館(当時)で、福井本部幹部会が盛大に開催された。先生は"何があっても御本尊を疑わず、迷いの心に打ち勝つ題目を"と呼び掛け、「学会活動が一番楽しい、御本尊を信ずるのが一番楽しい、生活、仕事が楽しいという人生を」と強調。その生き方こそが"信心の達人"であることを示した。
最後に、先生の提案で「春が来た」を合唱。福井の春が来た——皆が歓喜の前進を誓い合った。
14日、先生は富山・高岡市を訪れ、北陸の班長・班担当員ら4000人との記念撮影に臨んだ。翌15日には岐阜・高山市へ。前年10月に誕生した高山会館(当時)を初めて訪れた。
高山のある飛騨地方は当時、交通の便が良いとはいえず、メンバーの多くは、経済的にも大変な状況だった。その中で、地元の繁栄を願い、黙々と奮闘を重ねていた。
求道の同志が会場を埋め尽くした。先生は「信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるということではありません」「いかなる苦難に直面しようが、いかに宿命の嵐が吹き荒れようが、それらを全部、打開し、転換していく力の源泉が信仰なんです」と語り、崩れざる幸福境涯を築いていくことを心から願った。
話が一段落すると、先生は場外にあふれたメンバーと入れ替えを提案。2度目の勤行をし、渾身の激励を送った。
その後、飛騨高山は観光地として飛躍的に発展。創価の友も、愛する郷土のため、地域貢献に誠実に、率先して取り組んでいる。

◇8月12日 教育本部原点の日
「私の人生における最終の事業は教育と決めております」
1975年8月12日、池田先生は、教育部の夏季講習会で自身の思いを語った。この日が「教育部の日」となり、教育部が「教育本部」へ拡充された現在、「教育本部原点の日」となっている。
教育部の設置が発表されたのは、61年5月3日の本部総会の席上のこと。翌62年の8月1日に、第1回の全国大会が開かれた。先生は創価教育学の研究、教育体験を発表する雑誌の出版を提案。この1カ月後、機関誌「灯台」が創刊され、先生は「世界を照らす灯台たれ」と題して巻頭言を執筆。教育部に励ましを送った。
第1回に続いて、先生は63年8月1日の第2回の大会、64年8月1日の第3回の大会にも出席。この64年には、同部の代表のメンバーに御書講義も行っている。65年7月30日の第4回「教育部総会」では、創価大学の設立審議会が発足することを発表した。
池田先生は、教育部に最大の期待を寄せた。先師・牧口先生の教育思想を継ぎ、自らと同じ思いで教育現場で奮闘を重ねる友に、全精魂を注いで激励した。
75年8月の教育部夏季講習会では、パリ大学ソルボンヌ校の総長との会談で、総長が教育にとって大切なのは"よく聞くこと"であると語っていたことを述懐し、「言葉による表現から、その奥にある精神の心音を、よく聞いていく」ことの重要性を強調。「"よく聞く"ためには、教育する側に、それだけのキャパシティー(容量)がなければならない。それは、大海のような慈愛の深みがあってこそ、可能となる」と訴えた。
以来、教育本部の友は「8・12」を原点として、自らの教育現場で知恵を発揮してきた。その実践記録は、今や15万事例を超える。一つ一つに"子どもの幸福のため"との心が光る。
「教師こそ最大の教育環境」との指針を胸に、自身の人間的成長と教育力の向上に力を注ぐ教育本部の友。池田先生は「人間教育の不二の盟友」とたたえている。