新聞長・無冠の友をはじめ
聖教拡大に奮闘する
全ての方々に心から感謝。
今こそ人間主義の哲学を
地域・社会の隅々へ!
日興遺誡置文 P1618
『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』
【通解】
時の法主であっても仏法に相違して勝手な主張を唱えるようなことがあれば、それを用いてはならない。
名字の言 「負けないこと」の真の意味 2022年9月4日
「はい、逃げます」。どんなに強い格闘家も、「もしも最強の敵が現れたら、どう戦うか」と聞かれたとき、こう答えることがある。逃げる? なぜ? 「負けないために」——本紙が10代、20代をターゲットに、先月から配信しているラジオCMの一節である▼夏休みの終了前後は、子どもにとって「つらい気持ちのピーク」(認定NPOチャイルドライン支援センター)といわれ、残念ながら毎年、いのちを落とす子が多い。しかし本来、学校に行くことだけが正解ではない。悩みから避難してみることが最善のときもある▼ノンフィクション作家の石井光太さんは「子どもに答えを一つ提示することではなくて、さまざまな選択肢を用意してあげること」と、大人の役割を語る(本紙1日付)。何より大切なことは「生きること」。それが真の意味での「負けないこと」だからだ▼もう一つのラジオCMのタイトルは「悲しいことがあった日の夜に」。心ない言葉も飛び交うSNSを閉じて、遠いどこかで涙を流す誰かのことを思う。ナレーションは実際に中学1年の女子生徒が務めている▼これからも本紙の発信する「言葉」が、つらい思いを抱える方々の心に届き、明日への一歩を支えることを信じたい。
寸鉄 2022年9月4日
「一人を手本として一切衆生平等」御書。皆に尊き使命。さあ励ましの風を(新714・全564)
真面目に真実を語る事が学会発展の原動力—戸田先生。体験は最高の雄弁
東京・青梅青年部の日。人材錬磨の伝統は脈々。正義の対話の波ここから
顎関節症が急増。スマホ使用時の俯き姿勢も要因と。小まめに休憩し体操
近所付き合い少ない人程詐欺に遭いやすく—識者 孤立化防ぐ声掛けを益々
☆輝きの瞬間 9月の広布史
◇1981年9月 民音 スカラ座の"引っ越し公演"
感動の拍手が会場に鳴り響いた。1981年9月1日、イタリア・ミラノ「スカラ座」の舞台。場所はミラノではない。東京の上野である。
民主音楽協会(民音)の招聘によって、アジア初の本格的なスカラ座の来日公演が実現した。歌手やオーケストラ、スタッフはもとより、衣装、小道具、舞台装置に至るまで、"建物以外、全てを持ってきた"と称される「引っ越し公演」が現実のものとなった。
"音楽の力で人々の心を結び、世界平和の礎を築く"との理念のもと、63年10月に創立された民音。65年、スカラ座と来日公演について交渉を開始した。
スカラ座は"世界の至宝"ともいわれる。だが、誰もがミラノまで足を運び、その舞台を見られるわけではない。
池田先生が民音を創立した目的の一つは、最高の芸術を庶民が楽しむためである。スカラ座の日本公演は、「実現すれば奇跡」と揶揄され、何度も困難に直面した。関係者は民音の創立理念を実現しようと、粘り強く交渉を続けた。
先生もまた、公演の実現に向けて、あらゆる手を尽くした。81年6月には、イタリア・ミラノのスカラ座を訪ね、日本公演に向けて、当時の総裁であるカルロ・マリア・バディーニ氏と具体的な調整を行った。総裁は当時を振り返り、こう語っている。
「池田会長と初めてお会いした時、確信しました。『この方が受け入れてくださるなら、日本公演は成功する』と」
初めての交渉から16星霜——。81年9月1日からの公演は、東京、大阪、横浜と各地を巡り、26回にわたった。日本が誇るソプラノ歌手の東敦子氏は、「わが国の音楽史を飾る快挙」と評した。
日本公演の期間中、「ラ・ボエーム」を鑑賞した先生は、後にその感動をつづっている。
「一流の〈美〉に触れるとき、だれもが素のままの〈人間〉に立ち戻るのだ。そこに、『文化の交流で、平和を』と、私たちが世界を駆けてきた理由もある」
◇1990年9月21日 韓国を初訪問
あの9月の歓喜は、韓国の友の胸に今も鮮やかだ。
1990年9月21日、午後4時過ぎ、池田先生ご夫妻が韓国に第一歩をしるした。ここに至るまで、韓国の同志は幾多の困難を耐え、勝ち越えてきた。
60年代、信心に励むメンバーが韓国の各地に広がっていた。ところが、64年、「反国家的、反民族的な団体」として、布教が禁止された。日本の軍国主義に蹂躙された韓国では、反日感情は大変に強く、誤解も強かった。
創価学会への批判的な見方が社会に広がる中、韓国の同志は誤解を誤解のままにせず、自分たちの姿を通し、学会の正しさを伝えようと行動を重ねていった。
仏法の人間主義に基づき、環境問題や教育など、社会貢献の活動に励んだ。「良き市民」としての振る舞いは、次第に信頼を集め、国や行政機関から顕彰が相次ぐようになっていく。
そんな中、ソウルで東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」の開催が決定した。その開幕式に出席するため、同美術館の創立者である先生の訪韓が実現した。
到着の翌22日に行われた式典で先生は、「貴国は日本の文化の大恩人であります」「貴国を訪問させていただくことは、少年の日からの私の夢でありました」「感無量の日であります」とあいさつ。この模様は韓国国内で大きく報道され、韓国における"日本観"そのものを改める契機ともなった。
98年5月、先生は2度目の訪韓を果たす。名門・慶熙大学から招かれ、名誉哲学博士号が授与された。18日には、韓国SGI本部を初訪問。先生は「皆様方がおられれば、いっさいを勝利に導いていけるということが、厳然と証明されました。皆様は勝ちました!」と、韓国の友を最大にたたえた。
2020年9月、先生の初訪韓30周年を祝賀する、韓国SGIの本部幹部会が行われた。"世界が試練に直面する今こそ、創価の大連帯を"との師のメッセージに、韓国の友は、世界平和への決意をますます燃え上がらせた。
◇1973年9月16日 山陰郷土まつり
「来年、この島根と、今回はお会いできなかった鳥取の皆さんで、一緒に文化祭を開催してはどうでしょうか!」——池田先生の提案に、同志は賛同の拍手で応えた。
1972年9月17日、島根・松江での一こまである。先生は、豪雨災害で被害を受けた同志のため、記念撮影会を行い、さらに"明年に文化の祭典を!"と、希望の指針を示した。この日は「島根の日」と定められた。
鳥取、島根の同志は、"1年後、全員が勝利した姿で師匠をお迎えしよう!"と誓い、信心根本に、愛する地域の復興に尽力する。同時に、自他共の幸福を願い、対話の拡大に励んでいった。
翌73年9月16日、島根県民会館で、「山陰郷土まつり」が開催された。地元の豊かな伝統芸能を継承し、発展させようとの気概に燃える青年たちの姿が、来賓をはじめ、参加者の胸を打った。
フィナーレを迎え、最後にマイクを取った先生は、「各人が自身に打ち勝った生命の歓喜が脈動し、人間の凱歌と讃歌が響いておりました」と感想を述べ、友の不屈の努力を心からたたえた。
17日、先生は午前中に、出雲の日御碕を視察。御書にも言及されている地である。陽光がまばゆく光る日本海の雄大な景観に、先生は"島根、鳥取は、本来、「山陰」というよりも、「山光」というべき天地ではないか"との感慨を抱いた。この着想が、後の「山光提言」につながることになる。
同日夜、先生は、米子市民体育館での鳥取県幹部総会に出席した。「鳥取の日」の淵源である。
先生が特に強調したのは、"地域の繁栄は「一念の変革」から。ゆえに、題目という生命変革の根源に還れ!"との一点だった。鳥取には、全国の模範となる力がある。だからこそ、"一念を転換し、「自分たちには無理だ」という心の壁を打ち破ろう!"と、期待を寄せた。
「一念の変革」との信念は今、鳥取創価学会の伝統となり、不滅の輝きを放っている。
◇9月15日 ドクター部の日
ドクター部が結成されたのは、1971年9月12日。
当時、医療保険の改正を巡って厚生省(当時)と日本医師会が対立。患者の負担が増大する結果を招き、受診を控える人や治療を断念せざるを得ない人が出た。
また、利潤追求に走る医師や、乱診乱療の病院など、医療に関わる人のモラルや生き方も問われていた。
池田先生は、仏法の抜苦与楽の精神に立脚した医療従事者の重要性を痛感し、ドクター部の結成を提案。同部の結成後、折に触れて「慈悲の医学の体現者たれ」と大きな期待を寄せた。
75年9月15日、先生は第3回ドクター部総会に出席。「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(新1596・全1173)を拝し、勇気や希望、生きがいなど、「心の財」を積み上げることが、健康を維持・増進する上で力になると強調。
さらに、「『病気の医師』ではなく『人間の医師』であっていただきたい」と呼び掛けた。後に、総会が開催された「9月15日」が「ドクター部の日」となった。
その後も、先生は同部の友に励ましを送り続ける。83年9月15日、ドクター部の代表メンバーと懇談。医療現場で活躍する友をたたえた。84年9月16日には、同部のメンバーと記念のカメラに。85年9月15日、代表メンバーと語らい、日頃の労をねぎらった。
ドクター部の友は師の期待に応えようと、さまざまな取り組みを進めてきた。72年4月、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに派遣した。また、被災地での医療支援や、各地で健康セミナーなどを開催してきた。
2021年、部の結成50周年を記念して指導集が発刊された。先生は発刊の辞を寄せ、ドクター部は「負けじ魂の善医」「常楽我浄の宝塔」「仏法勝負の世雄」である、との指針を贈った。
コロナ禍が続く今、ドクター部の友は、命を守る最前線で奮闘を続けている。
☆池田先生とゴルバチョフ元ソ連大統領 世紀を超えて30年の友情
◇「核なき世界」「対話の文明」へ共闘
ソ連元大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏が8月30日、91歳で死去した。東西冷戦を終結に導いた指導者であり、10度会見した池田先生とは、ライサ夫人ら家族と共に、深い友情で結ばれていた。氏の功績をしのび、世紀を超えた30年余の先生との交流の足跡をたどる。
◇"哲学の樹の枝"
「きょうは、大統領と"けんか"をしにきました。火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう」
「池田会長のご活動は、よく存じ上げていますが、こんなに"情熱的"な方だとは知りませんでした。私も率直な対話が好きです」
30年を超える二人の友情は、こんな語らいから始まった。
1990年7月27日、場所はモスクワのクレムリン。ゴルバチョフ氏は85年に政権を掌握して以来、閉塞した社会を立て直す「ペレストロイカ」、東西冷戦に終止符を打ち、核軍拡競争に歯止めをかける「新思考外交」を展開し、まさに世界史の渦の中心にいた。
池田先生が、対話による平和と「人間の顔をした社会主義」を志向する歩みに最大の称賛を送ると、氏はこう応じた。
「池田会長はヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる」「ペレストロイカの『新思考』も、池田会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」
当時の日本での関心は、ソ連の国家元首として初の「ゴルバチョフ来日」に集まっていた。
先生が「来年の春に日本を訪れたい」との発言を引き出すと、日本のメディアは大々的に会見の模様を報じた。
翌91年4月、氏は約束通り来日を果たし、過密スケジュールの合間を縫って、池田先生と再会した。
◇人生はこれから
ところが、その4カ月後、氏の運命は暗転する。クーデターによる軟禁事件である。
企みは失敗に終わり、氏とライサ夫人は生還するが、同年12月に氏が大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。氏が覚悟の上で動かした巨大な歴史の波は、氏自身をも押し流してしまったのである。
辞任の報に接すると、先生はただちに書簡を送った。
「これからです。これから、あなたの本当の人生が始まります。21世紀、22世紀の人たちのために、ともに働きましょう!」
ソ連の崩壊後、社会が混乱を極める中で、氏への評価も二転三転した。書記長や大統領の時代に群がった人々も、潮が引くように去った。毀誉褒貶は指導者の常ではあるが、信頼していた人間の裏切りや「うそ」の横行は、氏の心にこたえた。
冷戦終結も、「西側の勝利」「東側の敗北」という単純な図式で語られ、「文明の衝突」という新たな難題が持ち上がってくると、抑圧された社会に「人間の顔」を取り戻そうとした氏の挑戦は「過去の出来事」とされ、その「精神的遺産」に光が当てられる局面も少なくなった。
ライサ夫人は語っている。「かつての私は『事実と歴史は不変のもので、反駁できない』と思っていました。しかし実際は、歴史家が見たいと思う歴史だけが書かれ、事実さえも歪められることが、今は、わかりました」
そんな激動と転換の時代に、池田先生とゴルバチョフ氏は出会いを重ね、未来のため、青年のために行動し、語り残す"共同作業"に取り組んでいった。
93年4月に氏は創価大学を訪れ、「人類の未来と新思考の哲学」をテーマに記念講演。池田先生と語らう前に、ライサ夫人と二人で「ゴルバチョフ夫婦桜」を構内に植樹したのも、この時である。
その後、氏と先生は対談の開始で合意。対談集は『20世紀の精神の教訓』のタイトルで発刊され、ドイツ語、フランス語、イタリア語など海外11言語で刊行されてきた。
97年11月、ゴルバチョフ氏夫妻は関西を訪問。19日に大阪市中央公会堂で氏の講演が開かれ、翌20日には関西創価学園で、学園生との交流がもたれた。
池田先生は学園生を前に訴えた。「この青年たちとともに、私はご夫妻に、改めて『民衆からの喝采』を贈りたい。また『全世界からの感謝』を捧げたい。そして、『21世紀の人類からの連帯の大拍手』で、ご夫妻を包みたいのであります」
99年9月、氏を支えた最愛の伴侶であるライサ夫人が白血病のため死去した。闘病中からお見舞いの伝言を届けていた池田先生は、すぐさま弔電を打ち、心からの哀悼の意を表した。
夫人亡き後、令嬢のイリーナさんらを交えた語らい(2001年11月、東京)で、先生は氏に強く語った。
「あなたは獅子です。私も獅子と思って戦っています。平和のために戦う獅子に、困難、苦難、迫害など小さいものです。あなたは勝ちました!」
◇人類共通の運命
大統領退任後も、ゴルバチョフ財団の総裁として活発に発言し、執筆活動を続けた氏。本紙に寄せた最後の原稿となったのが、昨年の5・3「創価学会の日」を慶祝して寄せられた文である。そこで語られていたのは、「核兵器なき世界」への執念と「対話の精神」への信頼だった。
「かつて、米ソ首脳は、レイキャビクで核兵器のない世界を目指す歩みを開始しました。それは平坦ではなく、茨の道でした。しかし、核兵器の全廃以外に目的はあり得ません」
「今、必要なことは『対話』です。恨みや非難や失望といった、感情にこだわった対話ではなく、『私たち人類には共通の運命があり、新たな脅威には誰もが脆弱である』との認識に基づいた対話が必要なのです。それはまさに、池田会長と私が実践してきた『対話』の精神であり、そこから、人類は共同の繁栄へと向かうことができるのです」
モスクワにフルシチョフ、チェーホフ、ショスタコービッチらの著名人が眠るノヴォデヴィチ墓地がある。その一角にライサ夫人が眠る。報道によれば、その隣に、ゴルバチョフ氏も埋葬される予定だという。