2022年9月12日月曜日

2022.09.12 わが友に贈る

新聞休刊日

聖愚問答抄上 P495
『只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり』

【通解】
ただ折伏を行じて、力があれば威勢をもって謗法を破折し、また法門によって邪義を責めよということである。

☆対話のツボ 【問い】悩みのない、幸せな人生を歩みたい。
幸福に満ちた人生を思い描いた時、悩みや苦しみが一切ないことが理想的、と思う人がいるかもしれません。
しかし、悩みのない人生など、現実にあるのでしょうか。
法華経以外の仏教では、仏の住む清浄な国土である「浄土」と、私たちが住むけがれた国土である「穢土」は、かけ離れた別々の世界として説かれています。ここでいう浄土とは、「極楽浄土」など、欲望や苦しみのない安楽な世界を表します。これは本来、仏を求める心を人々に起こさせるために説かれた"方便"です。
対して法華経では、真実の仏は、人々からかけ離れた所に住むのではなく、悩みや苦しみの多い現実世界で、人々を救うために法を説き続けてきたと明かされています。
日蓮大聖人は、"浄土になるかどうかは人々の心の善悪による"(新317・全384、趣意)と仰せです。浄土は、どこか遠くにあるのではなく、今、自分のいる場所にあるのです。現実世界を浄土に変革できるかどうかは、信心で決まるとの意です。
例えば、現実の苦悩から解放されたいと嘆いてばかりでは、同じ課題に何度も直面したり、新たな悩みに翻弄されたりと、本質的な解決には至りません。物事をどう受け止めるかは、周囲の状況ではなく、自身の境涯そのものだからです。
一念を変革することで、悩みや苦しみの多い現実を、理想の世界に転じていく自分になる——このダイナミックな変革の原理こそ、仏法の醍醐味なのです。

☆大学校生とナットクTALK 悪と戦う意義 2022年8月28日
男子部大学校生からの質問に答える連載「大学校生とナットクTALK」。今回のテーマは「悪と戦う意義」。久保ニュー・リーダーが、ある疑問を抱いたようで……。

登場人物
中村区男子部大学校団長 20歳の時に入会。情熱に燃える新進気鋭のリーダー。35歳。
久保ニュー・リーダー 男子部大学校5期生の22歳。今秋、「教学部任用試験(仏法入門)」を受験予定。

Q.「悪と戦う」ってどういうこと?
A.人を不幸にする考え方を許さない
久保ニュー・リーダー 中村さん、任用試験の教材に「悪と戦う」って項目があるんですけど、「悪って何?」「戦うってどういうこと?」と疑問に思って……。僕は普段から多様性を大切にしているんですけど、「悪は許してはいけない」とか、はっきり批判するのは多様性を尊重できていないんじゃないでしょうか。できれば波風を立てたくないですし……。

中村 なるほど。そもそも、「悪」って何だと思う?

久保 うーん、自分の中では結構あいまいです。

中村 いろいろな言い方ができると思うけれど、僕たちが戦おうとする「悪」とは、人々の心を惑わし、不幸にする要因と言えば分かりやすいかな。広くいえば、誤った思想や哲学なども「悪」だといえる。例えば、生命を軽視するような考え方や、差別的な価値観なんかが、まさにそうだと思うよ。

久保 確かに、そういう考えは社会に悪い影響を与えそうです。

中村 もちろん、多様な個性や考え方を尊重することは大事なことだよ。でも、人を不幸にする考え方も"多様性だからOK"としてしまえば、"良いも悪いも、何でもOK"になってしまうよね。

久保 なるほど。

中村 「悪と戦う」精神を学会が大切にしているのも、「人を不幸にする要因」を放っておくと、皆が幸せになれないからなんだ。日蓮大聖人が戦われたのも、"万人成仏を説く法華経を誹謗する思想"に対してだよ。万人成仏を否定することは生命を軽視することになるからね。

久保 間違っていることは、間違っていると言うことが、大事なんですね。

中村 もう一つ大切なのが、自身の「内なる悪」、つまり、自らの弱い生命と戦うということだ。御書に「善悪不二」(新1070・全768等)とある。仏法では、全ての人間に「善悪」両面が具わっていると教えているよ。悪を許容すれば、結局、自分や周囲で起こる悪いこと、つまり不幸の原因を放置してしまうことになる。

久保 自分の中にある悪と戦うことが、自他共の幸福を開くんですね。

中村 御聖訓に「悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり」(新1062・全762)とある。池田先生は、この一節を拝して、「『外なる悪』との戦いは、『内なる悪』に打ち勝ち、『内なる善』を開き顕す戦いと一体」であり、「悪と戦う」ことで生命が鍛えられ、「『悪と戦う』中にこそ、功徳も成仏もある」と語られているんだ。

久保 「悪」について、もっと学んでいきます!

☆特別インタビュー 「政治と宗教の関わり」の正しい理解 東洋哲学研究所所長/創価大学名誉教授 桐ヶ谷章さん
◇旧統一教会問題は政治と宗教の問題ではない
——安倍晋三元首相の銃撃事件では、犯行動機が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)への怨恨であり、かつ同教団が複数の政治家に働きかけを行っていたことから、政治と宗教の関わりに対して疑念の目が向けられています。桐ヶ谷さんは、現在の状況をどのようにご覧になっていますか。

桐ヶ谷章 まず、今回の事件を「政治」と「宗教」の関わりについての問題と捉えるのは、問題の本質を理解していないと言わざるを得ません。今回の問題は、「一部の政治家」と「反社会的活動を長年継続する団体」(トラブル団体)との関わりにすぎないのです。
この問題に詳しい「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の紀藤正樹弁護士も、「旧統一教会は反社会的活動を長年継続する団体であり、霊感商法を行う団体と政治家の関わりの問題と捉えるべきだ」とし、この問題を「政治と宗教の関わり」の一般論で検討すると間違う旨、テレビ番組等で語っています。

◇政教分離原則とは
——それにもかかわらず、この問題を契機に「政治と宗教の関わり」が取り沙汰され、それと絡めて「政教分離」という言葉が頻繁に使われています。そこで、「政教分離」とはどのような原則なのか、教えてください。

桐ヶ谷 「政教分離」とは、「信教の自由」を国家の制度的な側面から保障する原則です。国家が特定の宗教や宗教団体に特権を与えたり、圧迫・干渉を加えたりすることなどを禁じています。つまり、国家の「非宗教性」や「宗教的中立性」を規定しているのです。

——どのようにして確立してきたのでしょうか。

桐ヶ谷 ヨーロッパの歴史をひもとけば、強大な国家権力とカトリック等の宗教的権威が結び付いて国民を全人格的に支配し、人権を蹂躙してきた歴史があります。その桎梏(自由や人権の厳しい束縛)から解放されるということが、近代市民革命の大きな目的でした。
そのために国家権力と宗教的権威を切り離し、信教の自由を獲得することが、まず行われました。それが「信教の自由は人権獲得の歴史の中において、先駆的・中核的役割を果たしてきた」(ドイツの法学者ゲオルグ・イェリネック)と言われるゆえんです。このように「人権」とりわけ「信教の自由」を確実に保障するための国家の仕組み・制度として確立してきたのが、「政教分離原則」なのです。

——では、日本における政治と宗教の歴史を教えてください。

桐ヶ谷 日本の近現代史においても、明治新政府が発足(1868年)すると、彼らは旧幕府勢力を一掃し、天皇中心の国家体制を築くことを目的に、仏教国教化政策(寺請制度)を廃止し、天皇およびその先祖を祀る伊勢神宮を筆頭とした「神社神道」を国教化する政策へとかじを切りました。

そして、89年に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が発布されます。当時の日本は欧米列強と対等に渡り合うために、近代的な憲法典の制定が必要だったのです。その体裁を保つための一環として、第28条で一応は信教の自由も保障しました。ただし、「国の安寧秩序を妨げず臣民(天皇の臣下)の義務に背かない限りにおいて」との留保が付けられたのです。
そして明治政府は、この留保を巧妙に活用し、神社を特別扱いにしていきます。例えば、神社に公的法人格を与え、神職に公務員の地位を与えました。そして、祝日に神社へ参拝するのは、「臣民の義務」であるとの社会的空気を醸成し、果ては伊勢神宮の「神宮大麻」(神札)を拝むことを国民に義務付けたのです。

——そうした状況の中で、神社以外の宗教団体は、どのように扱われたのでしょうか。

桐ヶ谷 政府は「宗教団体法」と「治安維持法」を巧みに操り、いわばアメとムチで宗教を統制・弾圧してきました。紙幅の都合で細かいことは割愛しますが、宗教団体法で宗教団体を巧みに統制し、治安維持法で気に入らない宗教団体を徹底的に弾圧したのです。実際、創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第2代会長も「神札を受けない」との口実で逮捕され、牧口会長は獄死しています。
このように国家は、宗教団体を完全にその管理下に置き、信教の自由が徹底的に侵害・弾圧されたのです。それに伴い「思想・良心の自由」「言論の自由」「学問の自由」等の精神的自由も弾圧され、民主主義は崩壊し、軍部の独裁政治によって戦争に突き進むという悲惨な歴史をたどりました。

◇信教の自由確立への歩み
——やがて日本は終戦(1945年)を迎えるわけですが、アメリカ主導のGHQ(連合国軍総司令部)がどんな宗教政策を行ったのか教えてください。

桐ヶ谷 軍部による思想・言論統制や宗教弾圧が、未曽有の戦禍の遠因であるとの観点から、進駐後間もなく「基本指令」「神道指令」を発令するなど、徹底的な国家神道の解体と政教分離の推進を図り、信教の自由をはじめ諸人権の保障を指示したのです。
先に述べた治安維持法や宗教団体法も廃止され、経過的措置としての「宗教法人令」(45年)を経て、信教の自由を基本理念とする「宗教法人法」(51年)の制定に至りました。
また、46年には日本国憲法が制定され、その第20条に「信教の自由」が明記されました。その内容には、�内心における信仰の自由�それを外部に表現する宗教的行為の自由�宗教結社の自由が含まれます。

——「自分は無宗教だから、信教の自由など関係ない」という意見を耳にすることがありますが、この点についてはどのようにお考えですか。

桐ヶ谷 信教の自由の中には、「信仰しない自由」も含まれており、決して無宗教の人と無縁なものではありません。また、先に述べたとおり、あらゆる精神の自由の先駆的・中核的部分が信教の自由ですので、無宗教の人にも密接に関係する重要な人権なのです。

◇宗教者・宗教団体の政治活動
——ところで、政治と宗教の関わりを論ずる際に、「宗教者や宗教団体が政治活動をすることは、政教分離原則によって許されない」と主張する人がいますが……。

桐ヶ谷 それは、政教分離の誤った理解の典型例と言えます。
まず、信教の自由の内容には、宗教的信念に基づいて社会的にさまざまな活動をする自由も含まれます。その一環として、政治活動をする自由や団体を結成して活動する自由も保障されているのです。インド独立の父マハトマ・ガンジーが、「宗教は、人類すべての活動の『根』にあるべきもの。政治と宗教を切り離し、別個に存在することはできない」旨語っているとおり、政治活動は、宗教を持つ者の信念の発露としてのもろもろの営みの一つと言えます。
すなわち、宗教者・宗教団体が政治活動をすることは、まぎれもなく憲法上の権利です。そして、これらの自由を含む信教の自由を制度の面から支えているのが政教分離原則なのです。その政教分離原則を引き合いに出して、宗教者・宗教団体の政治活動を禁止しようとすることは、本末転倒も甚だしい話だと言えます。

——そのほかの憲法条項から見た場合はどうでしょうか。

桐ヶ谷 こうした考え方は、すべての国民が有する参政権について宗教を理由に認めないということであり、「法の下の平等」に反し、「思想及び良心の自由」「集会・結社及び表現の自由」など民主主義社会の最重要基盤であり、国民の最も大切な基本的人権を真っ向から否定することになります。
「共産主義」や「友愛主義」など宗教と関係ない主義・主張を掲げる者や団体は、政治活動が許されるのに、宗教的信念から発する「平和主義」「人間主義」等を掲げる宗教者や宗教団体は、政治活動が禁止されるのかという問題です。そんなことは、憲法の前記諸規定から見ても断じて許されません。

——一方、そうした政治活動が憲法20条1項の「いかなる宗教団体も(中略)政治上の権力を行使してはならない」に反するのではないか、と見る向きもあります。

桐ヶ谷 それは憲法をあえてねじ曲げて解釈した議論です。ここでいう「政治上の権力」とは、国家が保有する立法権・課税権・裁判権・公務員の任免権等の統治的権力を指します。政教分離原則の一環として政府や地方自治体が、特定の宗教団体に対し、こうした権限を与えることを禁じた条項なのです。
従って、宗教者・宗教団体が政治活動をすることとは、全く関係ありません。これが学説上の通説でもあります。

◇支援活動は? 政権に入った場合は?
——今まで述べられてきた政治活動の中には、選挙における政党支援活動も含まれるのでしょうか。

桐ヶ谷 当然です。主義主張や考え方を政治に反映するために政党支援をすることは、政治活動の重要な部分です。

——それでは、「宗教団体が支援する政党が政権に参加することは、『政治上の権力行使』に当たるのではないか」との意見については?

桐ヶ谷 今まで述べてきたのと同じ理由で、全く問題ありません。政党である以上、政権を目指すのは当然です。もし、そのような政党を支援することが許されないとするならば、宗教者・宗教団体は、政権を目指さない政党、すなわち不完全な政党しか支援できないことになり、これも先に挙げた憲法の諸規定に反することになります。
以上に述べてきた見解は、憲法の制定当時から今日に至るまで、政府の一貫した見解で、学説上もほぼ確定しています。
もちろん、政府が宗教に関与することは絶対に許されません。この点、宗教法人法改正(1995年)の際の「宗教法人等に関する特別委員会」で、創価学会の秋谷栄之助会長(当時)は同会の基本的姿勢として、�国家権力を使って布教しない�国から特別の保護や特権を求めない�支持する政党や候補者が宗教的中立であることを求める——と明言しています。よって、創価学会の支援する政党が政権を担っても、政教分離原則に反する懸念は全くありません。

◇アメリカにおける政教分離
——ところで、アメリカでは、政教分離をどのように確保しているのでしょうか。

桐ヶ谷 1971年に制定された「合衆国憲法修正第1条」に、「国教樹立の禁止条項」と「宗教の自由活動条項」が規定されています。ここでいう「国教樹立」とは、国家が特定の宗教団体を優遇したり冷遇したりすることで、国家のそうした行為を禁止するという、国家の非宗教性、宗教的中立性(政教分離原則)を規定したものです。
なおアメリカでは、宗教者や宗教団体が政治活動できることは、当然のこととされています。例えば、憲法学を代表する学者の一人であるローレンス・トライブは、修正第1条の国教樹立禁止条項について、「教会と国家の壁は、直接的にでもあれ、間接的にでもあれ、宗教を政治から締め出すものではない」と指摘しています。

——ほかに、「宗教法人が非課税なのはおかしい。法の下の平等や納税の義務(第30条)に反するのではないか」と見る人もいます。

桐ヶ谷 それは宗教団体を目の敵にする人たちが、盛んに言っているだけです。世の中には、多数の非営利活動法人が存在します。いわゆるNPO団体のほか、学校法人、社会福祉法人、一般および公益の社団・財団法人などが存在し、宗教法人もこの中に含まれます。細かい税制の話は紙幅の関係で避けますが、これら非営利法人に税制上の優遇があるのは、当該団体が公共の利益に資すると期待されているからです。
そうした多様な法人のうち、宗教法人のみを問題視することこそ、法の下の平等に反するのではないでしょうか。

◇国家による宗教管理は断固阻止すべき
——かつて、オウム真理教が地下鉄サリン事件をはじめ、さまざまな反社会的行動を行った時(1995年)、宗教法人法の改正がなされました。今回も何らかの動きが考えられるでしょうか。

桐ヶ谷 あの時は、「こうしたテロ等が起こるのは、宗教法人法に欠陥があるから」との議論が巻き起こり、「もっと宗教団体を管理・規制できるように改正せよ」という世論が醸成されました。その後、「創価学会の身体検査をするために改正するのだ」などと一部の勢力が本音を漏らしたりして、政争の具となり、挙げ句の果てに手続きもなおざりにして、拙速に改正してしまったのです。それに便乗して、宗教団体の活動を規制する法律を制定しようというような動きも出ていました。
危険なのは、今回のような異常事態が発生すると、それに乗じて世論を煽動し、宗教団体を国家の管理下に置こうとする動きが生ずることです。国家が宗教を管理する時、人権は侵害され、国家は破滅に向かいます。
私たち日本人は、国家神道の強制から太平洋戦争、敗戦に至るという苦く悲しい歴史を体験しています。その惨劇を繰り返さないためにも、信仰を持つ、持たないにかかわらず、あらゆる人に「信教の自由」を守ることの重要性を知ってほしいと思います。