創価の使命は
地上から悲惨をなくし
民衆の幸福を築くこと。
目の前の一人を大切に
希望の対話を粘り強く!
四条金吾殿御返事 P1143
『一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文あに自受法楽にあらずや』
【通解】
一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はない。法華経寿量品第十六には「衆生が遊楽する所」とある。この文は、まさに自受法楽のことをいっているのである。
名字の言 被爆体験を伝えてきた91歳の壮年の信念 2022年9月8日
小・中学生を対象に、約300回も講演し、被爆体験を伝えてきた壮年がいる。91歳の今なお、精力的に活動を続ける胸の内を語っていた。「当時を振り返って思うのは、誤った教育が国家の暴走を許す温床になったということです」▼戦前・戦中を生きた人々は「教育勅語」で育てられた。国家の命令に従うのは当たり前。国が戦争を始めたら賛成する人が"賢い"、お国のために命を捨てる人が"強い"と思わされた。本当は戦争に反対するのが賢く、何があっても生き抜くのが強いはずなのに▼壮年は言う。「だからこそ、正しいことは正しい、おかしいことはおかしいと主張できる"真に賢く""真に強い"人を育てたい。そのために私は語り抜きます」▼ドイツの劇作家ブレヒトは、こう警鐘を鳴らした。「何千回も言われ尽くしたようなことでも、もう一度言わねばならない」「後悔することのないように」(石田勇治他訳)。戦火なき未来を開くには、今この時、若き世代の心に「平和の砦」を築く対話を重ねるしかない。それが過去の教訓だ▼きょうは、第2代会長・戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表65周年。恩師の遺訓を心肝に染め、若き世代と共に、核兵器廃絶へ新たな挑戦を開始したい。
寸鉄 2022年9月8日
「原水爆禁止宣言」65周年奪命の"魔性の爪"をもぎ取る間断なき平和闘争を
百年先の人々から仰がれゆく人生を—戸田先生。今日の前進が歴史を築く
宮崎の日50周年。縁する一人に太陽の励ましを!語らいの光風を「私」から
『ワールド セイキョウ』第3弾発売。人間共和の世界広げる友の姿を発信
気温の変化大。「寒暖差疲労」に要注意。運動や入浴で体を温める事が重要と
〈社説〉 2022・9・8 「原水爆禁止宣言」65周年
◇核廃絶へ 不屈の平和の連帯を
1957年の9月8日、横浜市・三ツ沢の陸上競技場に集った5万人の青年たちを見つめながら、第2代会長・戸田城聖先生は「原水爆禁止宣言」を発表した。
戸田先生は、世界の民衆の「生存の権利」を根源的に脅かす核兵器に対し、その使用を絶対に許してはならないと訴えた。創価学会の平和運動の原点となる宣言から、本年は65年の節を刻む。
当時、役員として参加した神奈川の女性部員に話を聞いた。彼女は空襲で横浜の家を焼かれ、機銃掃射に狙われながら、命からがら逃げ延びた。「生活を奪われ、生命を脅かされる恐怖と苦しみを生む戦争を二度と起こしてはいけない。戸田先生の言葉を聞き、その思いがより強くなりました」と。
作家の佐藤優氏は、「戸田会長は、一人ひとりの心の中に平和の種を蒔くところから、核兵器廃絶というはるかな目標に向けての歩みを開始しました。だからこそ、根源的で歴史的な宣言なのです」(『受け継がれる平和の心』潮出版社)と言及している。
この宣言の精神と響き合う核兵器禁止条約は、市民社会の力強い後押しを得て、昨年に発効した。その一方で、核軍縮を巡る状況は厳しさを増している。
先月、NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議が国連本部で行われた。同会議に先立ち、池田先生は緊急提案を発表。核兵器保有国に「先制不使用」の原則を求める内容は、多くの識者から賛同の声が寄せられた。最終的に、全会一致での採択には至らなかったが、最終文書案の検討に当たって、「先制不使用」の原則の確立が急務との認識が広がったことの意義は大きいと言えよう。
核廃絶への道のりは遠く、平坦ではない。しかし池田先生は、恩師の心を受け継ぎ、具体的な提案と行動で、不屈の平和闘争を続けてきた。先述した女性部員は、「師の"平和の心"を学び、実践して、自分自身の生き方にしてほしい」と青年たちに寄せる期待を語っていた。
今月4日、横浜市の神奈川文化会館で「青年不戦サミット」が行われた。高等部の代表を含め、多くの青年が、師と同じ心で、新たな平和の時代を切り開く、粘り強い行動と実践を誓い合った。
今こそ青年が先頭に立って叫び、核兵器のない世界を築く連帯を着実に広げていく時である。
☆きょう「原水爆禁止宣言」発表65周年
◇戸田先生が池田先生に託した「平和の原点」
◇生命尊厳の世界を青年の手で
きょう8日は、第2代会長・戸田城聖先生が「原水爆禁止宣言」を発表して65周年。米ソの核軍拡競争が激化する渦中の1957年9月8日、戸田先生は横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の集いの席上、後継に託す"遺訓の第一"として、核兵器のない世界の実現を訴えた。
同宣言は、仏法思想に基づく学会の平和運動の原点である。この「9・8」に合わせて池田大作先生は、「日中国交正常化提言」を発表し(68年)、ソ連(当時)を初訪問(74年)。思想や信条を超えて人類を結ぶ平和行動を展開してきた。
83年からは、1・26「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、宣言の精神を具体的な提案として示す平和提言を開始。これまで40回にわたって発表を重ねてきた。
池田先生が学会の"精神の正史"をつづる小説『新・人間革命』の新聞連載が完結したのも、2018年の9月8日である。
使用の危機が高まる核兵器の廃絶へ、生命尊厳の地球社会の創造へ、各地の同志は原点の一日から、誓い新たに対話を広げゆく。
「9・8」に合わせ、核兵器を巡る現状、危機克服への市民社会の役割等について、世界的な平和学者である戸田記念国際平和研究所のケビン・クレメンツ所長に聞いたインタビューを掲載する。
☆忘れ得ぬ旅 太陽の心で——池田先生の連載エッセーから 第22回 山形
◇共に励まし 力を合わせて
人知れず
祈りと 労苦と
慈愛こめ
育てし実りは
黄金の喜び
秋の実りは、一年を精いっぱいに生き切った命が勝ち取る栄冠です。
それゆえに、清々しく、美しい。だからこそ、深い喜びに包まれるのではないでしょうか。
今から百三十年以上も前に山形県を旅した、イギリスの女性で旅行作家のイザベラ・バードは、この大地を、「微笑みかけているような実り豊かな地」と讃え、「東洋のアルカディア(理想郷=編集部注)」と謳いました。
生命の讃歌の実りに満ちて、弾ける笑顔のような、この理想郷の黄金の喜びを、私も山形を訪れるたびに感じ取ってきました。
母なる大地を耕し、土の力を引き出しながら、種を芽吹かせ、作物を育て、私たちの生命を支える実りをもたらしてくれるのは、農家の方々です。
新庄市出身で、農村指導者として高名な松田甚次郎は綴っていました。
「黒い土、暖い土、それは人間の生命の源泉である」「更に大きな力と、強い熱とをもって、土に生き、よき郷土の建設を追い進みゆくことを固く誓う」と。
この指導者は、ふるさとの「最上(もがみ)」を「最上(さいじょう)」と愛称して、「農村向上」を目指しました。とくに農村の女性が、農作業、育児、家族の世話、地域活動など、幾重にも働き、皆を慈しんでいることを紹介し、"最上"の感謝と尊敬を寄せています。
山形県は、サクランボ、西洋ナシ(ラ・フランス)、スイカ、ブドウ、メロン、リンゴ、桃、柿等々、天下に名高い特産を誇る「果物王国」です。東根市や天童市、山形市の農園に伺ったことも、色鮮やかに蘇ります。「ナポレオン」の名を冠した、真っ赤な宝石のようなサクランボが実る農園で、お母さん、また、後継の農村青年と語らい、「山形でも、世界でも、最高に輝く農家に!」とエールを送りました。
山形の豊かな実りは、人を生かし、命を生かす、心の豊かさの輝きでありましょう。ここに、人間文化の豊饒なる光源もあります。
◇郷土を愛する精神
〈たびたび山形を訪れてきた池田先生は、豪雪地帯に生き抜く友の強さの中に、人間の輝きがあると語る〉
私が昭和三十三年(一九五八年)、初めて山形に伺ったのは、秋から冬へと移ろう、十一月の下旬でした。前夜から雪が大地に舞い降り、壮麗な蔵王も、月山も、鳥海山も白銀の衣を纏って、輝いていました。
山形には「雪の明日」との諺があるといいます。吹雪の後には、最高に爽やかな晴れわたる日が来るという意義です。どんなに厳しい吹雪にあっても、決して希望を忘れない心情が伝わってきます。私が出会った山形の父母たちには、人生の風雪を生き抜いた、いぶし銀の輝きがありました。
山形では、時に友人宅の軒先や田園の道で、時に最上川や馬見ケ崎川のほとりで、時に可憐な紅花を見つめつつ、時に霞城公園(山形城跡)のほど近くで、誠実な友たちと語らいました。皆で「自分の郷土を心から愛せる精神こそ、人間性を守る防波堤」と確認し合ったこともあります。
共に励まし合い、共に力を合わせて、苦境に挑みながら、愛する郷土を勝ち栄えさせていく。これは山形の先達から、わが友人たちにも脈々と受け継がれてきた最上の精神の宝です。
◇青年を育む天地
〈社会に多くの逸材を輩出してきた山形。池田先生は、この青年を育む天地に大きな期待を寄せる〉
私の恩師・戸田城聖先生が激励されてきた山形の婦人は、若くして、父も母も、兄も姉も失いました。その後、結婚してからは、夫の勤務先が破産。しかも、幼少の頃以来、病弱だった自分も、心臓病を抱え、生きていることさえ辛い状況の連続でした。
そのなかで、「人間革命」という希望の哲学を掲げて、自らも必死に宿命を戦い越え、同じく苦しむ友のために、米沢、赤湯、小国、大井沢、酒田、新庄など県内を駆け回りました。雪の日はオーバーが凍ったり、長靴のなかに冷たい雪水が浸みたといいます。
そうして、一人また一人と会い、ポツリポツリと悩みを語り出す友に、いつも「んだか」「ほうか」と耳を傾け、苦悩を共にしていたのです。
皆から「うちのかあちゃん」と慕われた、この励ましの母は「友の悩みを解決した喜びが、私の宝物です」と、人なつこい笑顔を浮かべていました。
「勇気の山形」とは、わが友の合言葉です。
米沢藩の名君・上杉鷹山公も勇気の大指導者でした。鷹山公は後継のために、「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」との歌を残しました。
この精神を漲らせるごとく、山形は数多の逸材を育んできました。
「世界の良心」と称され、国際司法裁判所の所長を務めた安達峰一郎(山辺町出身)、日本の「鉄道の父」佐藤政養(遊佐町出身)、建築界の重鎮・伊東忠太(米沢市出身)をはじめ、経済、教育、学術、芸術、文芸等、各界の錚々たる人材山脈を成しています。
山形は、青年が育つ天地です。
樹齢千五百年以上と推定される東根の大ケヤキのように、木々は天を目指して上へと伸び立つ。樹氷が林立する父なる蔵王のように、山々は寒風に動じない。文化の母たる最上川のように、川は絶え間なく前へ前へと進み続ける。あらゆるものが、成長しゆく青年への励ましであり、発展しゆく郷土への鼓舞です。
鶴岡が生んだ文豪・高山樗牛は言います。「人は進まずむば則ち退く也」と。
不退の山形に、いやまして笑顔が輝く、実り豊かな理想郷が広がりゆくことを、私は信じています。
より高き
人生 生きなむ
山形の
友に幸あれ
太陽かがやけ