2022年9月20日火曜日

2022.09.20 わが友に贈る

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本紙配達に携わる皆様に
心から感謝します!
決して無理をしないよう
無事故・安全第一で!

妙一尼御前御消息 P1252
『譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し』

【通解】
たとえば、ある人に七人の子供がいて、その子の中で一人が病気になったとする。父母の心は、どの子にも平等であるが、やはり、病気の子に対しては誰よりも、心配するようなものである。

名字の言 "なる"と決める。"なれる"と信じ抜く 2022年9月20日
生徒から「授業が分かりやすい」と定評のある、中学校教諭の男子部員。彼に「優秀なんですね」と声をかけると、「その逆です」と笑顔で答えた。元々は勉強が苦手で、算数の九九を覚えるにも人の何倍も時間を要したという▼彼は少年部時代、「将来、学校の先生になれたらいいな」と未来部員会で夢を語った。すると担当者は「"なる"と決めよう。"なれる"と信じ抜こう」と励ました。後年、教員採用試験に5度目の挑戦で合格。「全てがトントン拍子にいっていたら、今の教員生活に、これほどの充実感はなかった」と振り返る▼先日、ある女性部員が知人と仏法セミナーに参加した。語らいながら会場へ向かう道中、知人が彼女に聞いた。「これまで信心に疑いを抱いたことはありましたか?」。彼女は「入会して55年間、一度もありません」と言った▼ただ、彼女の人生は波瀾万丈だった。若くして母を亡くし、結婚後は息子のけが、夫の大病など幾多の試練が襲った。その一切を信心で乗り越えてきた▼苦難があったにもかかわらず、いな、苦難があったからこそ、仏法への不動の確信を築けたのだ。順風ばかりの人生では信心の醍醐味は味わえない。苦闘を通して、わが生命は磨かれ、輝く。

寸鉄 2022年9月20日
「一句一偈なりとも行ぜば、必ず得道なるべし」御書。実践の人が勝利者(新1828・全1496)
創価班・牙城会の若き力が躍動!未来は君の双肩に。勇気と智慧で光れ!
苦労せざるものは幸運に値せず—偉人ダ・ヴィンチ。あえて困難に挑む青春こそ無上道
歩幅を広げれば認知症予防に効果—研究。運動はできる事から。室内でも
台風通過の地域でも"吹き返し"に注意。土砂崩れ等も。厳重警戒さらに

☆教学随想 日蓮仏法の視座 他者への想像力 石田幸司男子部教学部長
今月2日、第2次世界大戦の正式な終結から77年を迎えた。今この時に当たり、「一人」を思いやる想像力の重要性を考えてみたい。そこに、平和実現のための確実な方途があるに違いないからだ。

◇利己主義超える世界平和の道
「一人」の幸福を信じ祈る
近年、SNSの普及に伴って、その匿名性の故か、気軽に発信できるからか、さまざまな形で「誹謗中傷」が横行し、社会問題になっている。
見ず知らずの相手へ、攻撃的なメッセージを一方的に送りつける。その人は、スマホやパソコンの画面の"向こう側"にいてメッセージを受け取る"生身の人間"の痛みに、どれほど思いを巡らせているだろうか。
他者を思いやれない。目にしているもの以外に思いが至らない——。そこに欠如しているのは、目に見えない相手の"状況"にまで深く思いを巡らせる「想像力」ではないだろうか。
それは裏返せば、自分本位というエゴイズム(利己主義)の表出といえるかもしれない。他者の存在を軽視するところから、人間不信が社会に根を張り、やがて、対立や分断、争いが生じてしまうことは、古今の歴史が証明している。
他者への想像力が欠如した社会に、明るい未来はない。

◇「異の苦」と「同一苦」
日蓮大聖人は「今ときどのにげんざんつかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとおぼう」(新1316・全975)と、目の前にいる富木常忍を自らのもとへ送り出した、妻の富木尼御前の献身に思いをはせられている。眼前の一人だけでなく、その背後にいるであろう家族、そして地域の門下にまで心を砕かれたのだ。
また、大聖人は、大集経や薬師経などの経典に基づいて自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)の二難を予言し、後に二月騒動と蒙古襲来として的中された。民衆を守るために、現実を深く洞察した上で、経典という根拠に基づいて、まだ起きていない事柄の生起を言い当てられたのだ。
これらはまさに、究極の「想像力」だと思えてならない。では、その根底にあるものとは何か。
御書では、涅槃経に説かれる「一切衆生の異の苦を受くるは、ことごとくこれ如来一人の苦なり」との一節を引用し、二つのことを述べられている。
すなわち、「一切衆生の異の苦を受くるは、ことごとくこれ日蓮一人の苦なるべし」(新1056・全758)と、「一切衆生の同一苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦なり」(新745・全587)である。
「異の苦」とは、あらゆる人々がそれぞれに抱く、一つ一つの苦しみを指す。「同一苦」とは、万人成仏を説く法華経を蔑ろにした人々が、無間地獄に堕ちる苦しみのことである。
つまり大聖人は、個々人が持つ多様な「苦」と一切衆生の「苦」、その両者を御自身の「苦」として捉えられていたのだ。
目の前の「一人」の苦悩を起点に、人類全体の苦悩へと思いを巡らせる——。大聖人の「想像力」の根底にあるものとは、一切衆生を救わんとする、偉大な「大慈悲」にほかならない。
そもそも、「異の苦」と「同一苦」は一見、次元が異なるように見えるが、そこには密接な関係がある。それぞれ異なる苦悩を抱いている人々は、実は、その根底に、生命への根本的な不信という「同一苦」を抱いているのだ。それは、生命軽視、人間不信という、人類が抱える根源的な苦悩である。ゆえに、この「同一苦」との戦いなくして、真の苦悩の克服はありえないのである。

◇菩薩が法を説く場
大聖人が示された「立正安国」の原理も、ある面、人間不信や生命軽視という「同一苦」との戦いといえまいか。
妙法を信受した一人が生命を変革し、幸福境涯を開いていくことで、やがて、法華経の万人成仏に基づく生命尊厳の理念が、一人また一人と広がり、社会を動かす基本原理として確立される。
それによって、私たちの住む現実世界がそのまま、安穏な仏国土となることを、「立正安国論」では教えられている。そのための実践として示されたのが、「一対一の対話」である。
大乗仏教の維摩経では、在家の菩薩である維摩詰が、自らが病になった原因について、"衆生を子のように愛するので、衆生が病めば、菩薩も病むのである"と述べる場面がある。先の涅槃経の一節に通じる話である。
注目したいのは、維摩詰が、学校や政治・法律の場、議論の場、さらには酒場や賭博場にまで入り込んで法を説いていることだ。具体的、直接的にあらゆる他者と関わることは、万人尊敬の実践であり、一切衆生の救済につながることを示唆しているように思える。
現実に関わる「一人」と語らい、「一人」を救済することから、あらゆる衆生の救済は始まるのだ。

◇具体的な幸せの姿
以前、戦争を経験した方々のお話を伺ったことがある。ある方は、語り部として学校等で必ず伝えていることがあるという。
「学校で友達をいじめる。これは、人間生命を大切にしていないという点で戦争に通じる。人生にはもっともっと楽しいことがあるはずなんです。それを、友達と協力して努力して見つける。平和って、そうやって築いていくしかないと思う」と。
争いと対極という意味での「楽しいこと」を、身近な他者と協力して見つけていく粘り強い営みが、今ほど求められている時はないと感じる。
私が創価学会の活動を積極的に始めた頃、先輩から教わったことがある。それは、「あの人に幸せになってほしい」という漠然とした願いから一歩踏み込んで、「こういう幸せをつかんでほしい」という、相手が具体的に幸福になる姿を祈ることだった。
そのためには、相手のことを深く知らなければいけない。会って話すなど、人間関係が深まれば、より一層、相手についての想像力が働く。「一人を大切にする」ことの一つの形がここにあると思う。
池田先生は、「一つの事柄から、何を感じ取るか。人の苦悩に対して想像力を広げることから、『同苦』は始まるのである」と述べられている。
関わることで他者への想像力は培われ、培われた想像力をもって他者に励ましを送っているのが、私たち学会員の生き方である。
さらに先生はつづられている。「あの友の悩みに耳を傾け、懸命に励ましの言葉をかける。この人に、なんとしても幸せになってほしいと、必死に仏法を語り、題目を送る——われらの健気なる日々の実践こそが、大聖人に連なる直道であるのだ。
その時、自身の偏狭なエゴイズムの殻は破られ、地涌の菩薩の、御本仏の大生命が胸中に脈動し、境涯革命の歯車が回転するのだ」
自分だけの幸福などない。他人だけの不幸もない。
社会の分断が危惧される今こそ、想像力豊かに、目の前の一人を大切にする行動を貫き、その思想を広げ、思いやりに満ちた社会を築いていきたい。