2020年4月29日水曜日

2020.04.29 わが友に贈る

教養・人格を磨く
自己研鑽は人生の宝。
語学や資格の勉強・
読書・趣味の探求など
挑める分野は無限だ。

同生同名御書 P1115
『心ざし大地よりもあつし地神定めてしりぬらん虚空よりもたかし梵天帝釈もしらせ給いぬらん』

【通解】
あなたの真心は大地よりも厚い。必ず地神も知っていることであろう。またその真心は虚空よりも高い。きっと梵天・帝釈も知られていることであろう。

名字の言 原爆の後遺症に負けずに生きてきた壮年。その陰には母の姿があった 2020年4月29日
江戸時代の俳人・与謝蕪村が詠んでいる。「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩/慈母の懐袍別に春あり」(春風馬堤曲)。遠い昔に抱かれた母の懐には、春のぬくもりがあった。その記憶は薄れることがない、と。子を思う母の心、母を慕う子の心。親子の絆の麗しさに、今も昔もない▼75年前、生後7カ月の時に広島で被爆し、「語り部」の活動をしてきた壮年がいる。重い後遺症に負けず、生き抜いてきた陰には、優しい母の支えがあった▼幼少期、原爆病院に入院した。同じ病室の人が次々と亡くなっていく。怖くて泣いていると、母が抱き締めてくれた。「大丈夫、母ちゃんが原爆病を退治しちゃる」「お前は母ちゃんの宝物なんじゃけえね」。不思議だった。母に抱かれると、うそのように不安が消えた▼「学会活動は一番の平和の道」が口癖で、101歳で亡くなる直前まで友を励まし続けた母。あの笑顔、あの声のぬくもりが忘れられない。壮年は語る。「わしはあの母ちゃんの息子。原爆にも負けんかった。どんな試練も乗り越えて、平和に尽くし抜いてみせます」▼母の恩を思えば不屈の闘志が湧く。強くなれる。巡り来る5月3日は「創価学会母の日」。全ての広布の母に感謝をささげつつ、平和創造への決意を新たにしたい。(誠)

寸鉄 2020年4月29日
妙法を唱える人は全て変毒為薬される―戸田先生唱題こそが勝利の原動力
東京・大田の日。師弟原点の地に新しき広布の波を今日も友に励ましの声を
ジョギングで飛沫拡散。十分な距離確保、マスク等の着用必須。感染防げ
大型連休、家族で掃除や家事に挑戦する人多し。絆強め気分転換する好機
高血圧と肥満が寿命を縮める最大の要因―研究。自宅待機の時も賢く運動

☆教学講座 日蓮大聖人の御生涯に迫る 第2回 「立正安国論」の提出
いかなる迫害があろうとも
正義の師子吼を放たん
苦しむ民衆を救うために!
社会を楽土にするために!

◇災難の原因はどこに
――前回(17日付)、日蓮大聖人が"民衆の幸福のため"という一点から行動を開始されたことを学びました。

"民衆を不幸にする災難の原因はどこにあるのか"――大聖人は、人々の苦しみを解決する方法を、一切経に基づいて思索されました。その結論をまとめられたのが、「立正安国論」です。
民衆の幸福のためには、一人一人が正しい生命哲学を持ち、実践していくことが大切です。とともに、民衆の幸・不幸に大きな影響をもたらすのが為政者です。社会の安穏と世界の平和のため、そして、人々が幸福に暮らしていくために、民衆の声を聞き、どのように国家を運営していくかが重要なのです。
だからこそ、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」を提出されたのです。客(北条時頼を想定)と主人(大聖人を想定)との問答形式で展開されています。

――ただ自身の幸せを願って信仰するのではなく、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを、身をもって教えてくださっているように感じます。

その通りです。特に、この頃の惨状を見ていくと、一人一人の庶民の力では、どうしようもない状況でした。鎌倉では異常気象、飢饉、火災、伝染病などの災害が多発。特に正嘉元年(1257年)に起きた大地震は、大きな苦悩をもたらしました。

◇大難にも覚悟を貫く
――地震や異常気象、伝染病など、現代も同じような苦難に直面しています。当時、大聖人はどのような思いで行動されたのでしょうか。

「立正安国論」の冒頭には、悲しみを通り越して憤りが収まらない御心情が記されています。
また当時、仏教の諸宗がさまざまな祈祷を行っていましたが、何の効果もありませんでした。大聖人は、「やむにやまれず勘文(意見書=立正安国論)をしたためた」(御書33ページ、趣旨)と後に仰せです。

――"何としても民衆を救いゆく!""社会を楽土にしてみせる!"とのお心が伝わってきます。「立正安国」とは具体的にどういう意味なのですか。

「立正」とは、人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されることです。「安国」とは、社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現することです。
大聖人は「あなたは、一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を祈るべきである」(同31ページ、通解)と強く平和を求めておられました。一人一人が、生命境涯を変革し、自身の幸福境涯を開いていくとともに、社会全体の変革をも成し遂げ、安穏と平和を築いていくことを目指しているのです。
池田先生は、「一人ひとりの人間が、この妙法に則って、胸中の仏の生命を開いていく時、その人の住む場所も、仏国土と輝いていく」とつづられています。

――大聖人の大闘争は、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれます。民衆の幸福、世界の平和と安穏のため、断固、正義の師子吼を放たれましたが、一方で、この提出以降、激しい難が競い起こってくるのですね。

その通りです。大聖人の訴えを幕府要人は、聞き入れませんでした。それどころか、次々と迫害を加えるのです。
「立正安国論」の提出から間もないある夜、念仏の信者たちが、大聖人の鎌倉の草庵を襲います(松葉ケ谷の法難)。幸い、大聖人は難を逃れましたが、翌・弘長元年(1261年)5月12日には、幕府は、大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流罪にします(伊豆流罪)。
2年後、流罪を許され、伊豆から戻られた大聖人は、安房方面へ行かれますが、文永元年(1264年)11月11日、東条景信の軍勢に襲われます。大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下が討ち死にする激しい襲撃でした(小松原の法難)。

――それにしても激しい苦難です。

大聖人が、立宗宣言の時から大難に遭うことを覚悟されていたことは学びましたが、想像を絶する大難です。しかし、大聖人は、その覚悟を貫き通されるのです。

◇予言が現実のものに
――大聖人は「立正安国論」で、経文に照らして、このまま悪法への帰依を続けるなら、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が起こるだろうと警告されています。

文永5年、中国を支配していた蒙古からの国書(外交文書)が届きます。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されており、他国からの侵略が現実味を帯びてきました。
そこで大聖人は、幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧たちに書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、公の場での法論を迫られました。

――しかし、幕府や諸宗は反応を示さないどころか、迫害を強めていくのですね。

この時期、幕府と結び付き、世間で"聖人""生き仏"と崇められて大きな影響力をもっていたのが、真言律宗の僧・極楽寺良観です。文永8年、祈雨の対決で大聖人に敗れた良観は、怨みを募らせ幕府要人やその夫人たちに働き掛けて弾圧を企てます。
そして同年9月10日、大聖人は幕府の侍所(軍事・警察機関)の所司(次官)である平左衛門尉頼綱から尋問を受けることになります。幕府権力と宗教的権威が結託して大聖人に牙をむいたのです。この2日後、大聖人に処刑の危機が迫ります。
(次回は30日付に掲載の予定)

【ここに注目!】理想の為政者像
「立正安国論」の御真筆で使われている「国」の字は、約8割が「囻」です。「民衆が生活する場」としての国を意味します。大聖人の国家像が「民衆の幸福を根本とする国家」であると拝察されます。
さらに、為政者と民衆の関係について「王は民を親とし」(御書1554ページ)と仰せです。民衆の支持があるからこそ、為政者は、その政権を維持することができます。ゆえに、民衆は為政者を生み出し、育てる「親」ともいえる存在なのだと明かされているのです。
また、平左衛門尉に対して、「万民の手足」(同171ページ)と仰せになり、"民衆の手足となって奉仕するべき存在"としての為政者像を示されています。
主従や支配・被支配の関係に基づく封建制度下において、「一切衆生の為」(同172ページ等)との御自身の姿勢を、為政者に対しても敢然と求めたのが、大聖人の御闘争だったともいえるでしょう。