2020年4月24日金曜日

2020.04.24 わが友に贈る

交通機関・物流・販売など
日々の生活を支える
皆さま、ありがとう!
尊き献身に最敬礼。
健康・無事故を祈ります。

上野殿御返事 P1558
『日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり』

【通解】
日蓮は、生まれたときから今にいたるまで、一日片時も心の休まることはない。ただ、この法華経の題目を弘めようと思うばかりである。

名字の言 人生を豊かにするものは?——詩人・吉野弘さんの場合 2020年4月24日
事故で神経まひを負った男性が、言語感覚を取り戻すリハビリを受けた。2枚のカードに書かれた言葉を組み合わせ、意味の通る文章にするもの。男性は「豊かにする」というカードを手にした。対応する正解は「くらしを」。だが男性は別の言葉を選んだ。「苦労を」だった▼詩人・吉野弘さんが、自身の詩集につづった話だ。「苦労を豊かにする」——楽な道だけでは生き方が貧弱になる。人生を充実させる"苦労"の捉え方を教わる至言といえよう▼今春、小学校の卒業式を終えた、ある未来部員が1本の赤いひもを手に帰宅した。担任教諭から卒業生一人一人に手渡されたという。"ひもの長さはこの6年間で伸びた身長の分"と聞いた両親は、胸が熱くなった▼在学中、病で長期入院した時は、勉強に遅れまいと母子で教科書をめくった。退院後は体力づくりに毎朝、父と走った。身も心もたくましく成長した、わが子の姿に「全てに意味があったね」とたたえ合った。現在は本格的な中学校生活を待ちつつ、家族で勤行・唱題にも挑戦する▼試練の中にいる時は、目に見えての前進を感じられないかもしれない。苦難に耐え抜き、振り返った時、負けなかった日々の偉大さが分かるもの。苦労を豊かにする鍵は前向きな「忍耐」である。(城)

寸鉄 2020年4月24日
幸福な人生を営む源泉は我々の生命力—戸田先生どんな時も祈り根本に!
「未来の果」は「現在の因」にあり。今日もできる事に全力。挑戦の心燃やし
常勝大阪・師弟誓願の日。不二の同志に勇気あり。連帯固く励ましの拡大を
店舗や商店街の混雑解消急務と。"買い物は1人で短時間"徹底で感染防止
SNSで知り合った人に会いたい—未成年4割。犯罪の火種だ。甘く見ず

☆教学講座 日蓮大聖人の御生涯に迫る 第1回 誕生・遊学から「立宗宣言」へ
人類は今、新型コロナウイルスの感染拡大という脅威に直面しています。
誰もが大きな苦難との戦いの渦中にあるこの時、私たちは改めて、大難を越えて民衆救済の誓願に生き抜かれた日蓮大聖人の御生涯を学び、御本仏直結の弟子としての誇りと使命を確認していきたい。
大聖人は「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(御書587ページ)と仰せです。
宗教の使命は、人間の幸福の建設であり、その道を阻もうとする苦難を打ち破りゆく勇気と力を送っていくことです。
草創以来、多くの同志は教学部任用試験(仏法入門)をはじめ、折々に大聖人の御生涯を学ぶ中で、その崇高な精神に迫り、「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(同989ページ)との御金言を全身にみなぎらせ、一歩一歩、希望の歩みを重ねてきました。
「教学講座 日蓮大聖人の御生涯に迫る」の初回は、誕生・遊学から「立宗宣言」に至るまでの歩みを追いたいと思います。分かりやすく対話形式にまとめました。
末法に法華経を弘めることは
困難極まりない。
しかし、民衆のために戦うのが
「仏の心」である!

◇漁村に生まれ育つ
——日蓮大聖人は、どんな時代を、また、どんな願いをもって生き抜かれたのか。ここでは、初心に立ち返って、大聖人の足跡を一つ一つ、学んでいきたいと思います。
誕生されたのは、今から約800年前の鎌倉時代ですね。

この頃、民衆の間に最も広まっていたのは、"死んだ後の世界"に救いを求める念仏でした。自然災害や飢饉、疫病も相次いでおり、念仏の思想に、一種の終末観として広まっていた末法思想が重なって、人々の不安が募っていました。

——鎌倉時代の様相を聞くと、現代の状況とすごく似ていて驚きます。人々の不安が募っている様子も同じですね。

大聖人の生誕は、貞応元年(1222年)2月16日。その厳しい社会状況は、年を重ねるごとにますます色濃くなっていくのです。
安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村の生まれである大聖人は、御両親や地域の人々に囲まれながら成長したことでしょう。
御書にも「辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり」(御書200ページ)、「遠国の者・民が子」(同1332ページ)等、庶民の生まれであることを誇りをもってつづられています。

——「常に民衆と共に、民衆の幸福のために」という大聖人のお心の源は、庶民の中で生まれ育ったという生い立ちにあるのですね。

大聖人は、12歳で安房国の清澄寺に入り、教育を受けられます。その頃、「日本第一の智者となし給へ」(同888ページ)との願いを立てられました。
民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の智慧を得ようとされたのです。

◇万人を救う法を探究
——そんな思いを心に秘めて、仏法を探究されるのですね。

16歳で、清澄寺の道善房を師匠として出家されます。この頃、「明星の如くなる智慧の宝珠」(同ページ)を得られたと述べられています。仏の覚りの法であり、一切の事象を明らかに見ていける「妙法の智慧」を得たということです。
その後、鎌倉、京都、奈良など各地を遊学し、比叡山延暦寺をはじめ諸大寺を巡って、あらゆる経典を読まれ、各宗派の教義の本質を究明されます。
その結論として、法華経こそが仏教の全ての経典の中で最も勝れた経典であること、そして、南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であり、万人の苦悩を根本から解決する法であることを覚知されました。

——民衆の幸福を第一に思索された上での結論であり、使命の自覚なのですね。

妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、故郷から実践に踏み出されます。
建長5年(1253年)4月28日、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経こそが末法の世界中の民衆を救う唯一の法であると宣言されました(立宗宣言)。32歳の時です。この頃、自ら「日蓮」と名乗られます。

◇不退転の闘争を開始
——この「立宗宣言」から、大聖人の民衆救済の闘争が始まったのですね。

「開目抄」に、その直前の思索が回想されています(同200ページ、趣旨)。
"経文には、法華経を説き弘める者に必ず迫害のあることが説かれている。一方で、正法を弘めなければ、人々の成仏の道を閉ざし無慈悲になってしまう。どちらの道を選ぶべきか……。正法を弘めゆく道を選ぶべきだ!"と。
思索はそこでとどまりません。"難が起きた時に退いてしまうくらいなら、思いとどまったほうがよい。末法に法華経を弘めることは困難極まりないと、はっきり経文に説かれている。しかし、いかなる困難があろうと、人々のために立ち上がるのが「仏の心」である"との結論に至ったのです。
この大聖人の誓願について、池田先生は「御年32歳の時から佐渡流罪を経て、御入滅のその日まで、終始一貫しています。何も変わりません。誓願は貫き通してこそ、誓願です」と語られています。

——私たちの幸福のために、迫害に遭うことを承知の上で、正法を弘め始められたのですか。すごいことです。

実際、「立宗宣言」と同時に難が起こりました。東条郷の地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)である東条景信は、念仏の強信者でした。彼は、念仏を批判した大聖人に危害を加えようとしたのです。
かろうじてその難を免れた大聖人は、安房の清澄寺を離れ、当時の政治の中心であった鎌倉に出られたのです。
(次回は24日付に掲載の予定)

◇【ここに注目!】「日蓮」の御名乗り
日蓮大聖人の御生涯を貫いた誓願は、「日蓮」という御名乗りにも表れています。
大聖人は「明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」(御書1109ページ)と仰せです。
法華経では、地涌の菩薩の上首(リーダー)である上行菩薩について、"衆生の闇(迷いと不幸の根源)を照らす日月である"と説かれています。また、地涌の菩薩が、煩悩で汚れた現実世界にあっても、それに染まらないさまを"蓮華が泥水のなかに清浄な花を咲かせること"に譬えています。
太陽のように民衆の心を希望の法理で照らし、現実社会の真っただ中で蓮華のように清らかな花を咲かせていく——「日蓮」との御名乗り自体、大聖人御自身の誓いの結晶であり、社会への宣言であったと拝することができます。