2020年4月19日日曜日

2020.04.19 わが友に贈る

悩みに寄り添い
「同苦」することが
励ましの第一歩。
友の心を軽くする
抜苦与楽の達人たれ!

日女御前御返事 P1247
『法華経をば経のごとく持つ人人も法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或はしなじなのふるまひによつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり』

【通解】
法華経を経文のとおりに持つ人々であっても、法華経の行者をあるいは貪り・瞋り・癡の煩悩によって、あるいは世間的な事によって、あるいはさまざまな振る舞いがよくないといって、憎む人がいる。このような人は法華経を信じていても、信ずる功徳はない。かえって罰を受けるのである。

名字の言 「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」 2020年4月19日
戦時中、ナチスに捕らわれた一人の精神科医が、収容所の中で仲間に提案したことがある。それは毎日、笑い話を作ること。数分間、いや数秒間でもいい。しゃれや冗談を飛ばし合い、笑って過ごそうと▼そうやって過酷な状況に耐え、生き抜いた彼には確かな信念があった。「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ」(フランクル著『夜と霧』池田香代子訳、みすず書房)▼感染症拡大を防ぐため、不要不急の外出を自粛する日々が続く。"ならば"と先日、ある家族はお茶の間に集まり、川柳を詠み合った。テーマは「笑い」。特に、小学生の3人の子が素直な心を表現した川柳が愉快だった。「おばあちゃん いつもテレビと 会話する」「成績表 決死の覚悟で 親に見せ」「勉強中 時計の針が 動かない」▼久しぶりに、家族みんなで声を出して笑った。両親が語っていた。「重たい雰囲気にのまれて、心まで重くする必要なんてない。希望を見失っちゃいけない。たくましい子どもたちに教えられました」▼いくら外出自粛といっても、萎縮したり、孤独に陥ってしまうのは避けたい。電話、メール、SNSなど上手に活用しながら、明るい励ましを交わしていこう。この難局を、皆で乗り越えられるように。(誠)

寸鉄 2020年4月19日
自他共の幸福広げる学会は共生の時代開く—博士電話一つも心結ぶ契機に
御書「大悪をこれば大善きたる」。必ず勝つための信心。我らは負けじ魂で
今が拡大防ぐ重大局面!買い物は家族とではなく一人で等、「3密」回避を
皆で歌を作ろう—青年部の参加企画に投稿続々。希望を紡ぐ頼もしき智慧
「健康の鍵は普段の生活」と感染回復の106歳女性。食事・運動・睡眠など賢く

☆4月度「御書講義」 上野殿御返事(刀杖難事)(上) 森中教学部長
創価学会公式ホームページ「SOKAnet」で配信(5月6日まで)されている、森中教学部長の4月度「御書講義」を、上下2回にわたって掲載します(抜粋・編集)。教材は「上野殿御返事(刀杖難事)」です。御書を心肝に染めることで、信心を深め、立正安国の祈りを強くしていきましょう。講義の動画はこちらから視聴できます。(下は4月18日に掲載の予定)

◇背景と大意
本抄は、弘安2年(1279年)4月20日、日蓮大聖人が58歳の時に身延の地で認められ、駿河国の青年門下・南条時光に与えられたお手紙です。
ここで大事なのは、弘安2年4月という時です。この時すでに、「熱原の法難」が始まっているということです。熱原の法難は、熱原の三烈士の処刑を頂点とする、駿河の日蓮門下に対する鎌倉幕府の弾圧・迫害をいいます。その焦点は、農民門下に象徴される民衆への宗教弾圧です。
実際に、本抄が執筆された、弘安2年の4月というのは、熱原の大聖人門下が襲われるという傷害事件が起こりました。門下たちにとっても、いつ自分たちの命に及ぶ迫害があるか分からない、という緊迫感が広がっていたと思います。その渦中で、大聖人が青年門下・南条時光に、"大難に対してどのように乗り越えていくのか"——法華経の行者にとっての信仰の精髄を教えられたのが、このお手紙ということになります。
仏法は、「師弟不二の宗教」です。本抄を拝して思うのは、大聖人が青年門下の南条時光に対して、大難に立ち向かっていく信心の精髄を教えるに当たって、大聖人は、御自身がどのように戦ってきたのかという自らの生き方を教えられたということです。
師弟というのは、師匠が"自分は、いかに戦ったのか"という御自身の闘争の姿をそのまま弟子に教え、その姿を目の当たりに感じた弟子が、自分も同じ誓願の弟子の人生を生きようと決意し、実践していく——その誓願の行動が師匠も弟子も、そのまま同じであるというのが、師弟不二の精神であり、師弟共戦の行動です。
すなわち、本抄は、大聖人が受けられた大難の意義と、(その大難と)いかに戦ってきたか、その精神を、共戦の青年に教えられている内容だということです。

御文�
『勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず』(御書1557ページ2行目〜3行目)

◇「勧持品二十行の偈」
法華経勧持品第13では、法華経を弘通する者には、さまざまな迫害があることが説かれています。そのことを示されているのが、「勧持品二十行の偈」です。
私たちが朝晩に行う勤行で、寿量品の「自我偈」が、「自我得仏来」の5文字から始まって、「速成就仏身」で終わりますが、これがまさに「偈」の形式となっています。
さて、勧持品二十行の偈は、そうした「偈」の形式で20行にわたって、仏が滅した後に悪世で法華経を弘めれば、必ず難にあうことが説かれています。その中で3種類の迫害者が出てきますので、その名前が整理されて「三類の強敵」と言われているのです。

◇菩薩の誓いの言葉
一つのポイントは、この勧持品二十行の偈は、釈尊の言葉ではなく、菩薩たちの誓いの言葉だということです。
法華経では、ご存じの通り、いわば全宇宙から、また過去・現在・未来という時空を超えて、あらゆる仏や菩薩たちが、私たちが住む娑婆世界に集結して「虚空会の儀式」が始まります。
三世の諸仏や諸菩薩が集まった儀式の目的は、仏が亡くなった後の悪世の娑婆世界で苦しむ、煩悩にあふれた民衆をどう救うのか、一番不幸な民衆をどう幸福にするのか、というテーマにほかなりません。
そのなかで、仏は"誰か、仏が滅した後の悪世に法華経を弘める者はいないか"という呼び掛けを行います。これに呼応したのが、八十万億那由佗もの無数の菩薩たちです。
彼らは"私たちが必ず成し遂げます"と決意を述べます。それが御文にある通り、「異口同音」と、まさしく全員が異体同心の誓いを立てます。その時の誓いの内容が"たとえ、三類の強敵による迫害が起ころうとも、私たちは必ず広宣流布を実現します"との誓いなのです。
大事なポイントは、勧持品二十行の偈は、仏が述べた命令ではなく、弟子たちが自発的に誓った決意だということです。弟子の自覚が、師弟の本質です。"いかなる障魔が競い起ころうと、私たちは負けません。「忍辱の鎧」を着て、耐え忍んで打ち勝ってみせます"という菩薩たちの広宣流布への誓願が勧持品二十行の偈の本質なのです。

◇滅後担う地涌の陣列
法華経では、このように、菩薩たちが深い決意で立ち上がりますが、実は、釈尊はこの人たちを退けてしまいます。
釈尊は、"あなたたちではない、私の久遠からの本弟子を呼ぶのだ"との思いに立って、無数の「地涌の菩薩」を召し出します。そして、この地涌の菩薩に滅後の広宣流布を託すのです。末法広宣流布は、地涌の菩薩でなければできないからです。
この地涌の菩薩とは、私たちのことだと受け止めているのが学会員です。これが、創価学会の信心の最大の強みであり、誇りです。
経文に戻れば、地涌の菩薩たちは、当然、勧持品に描かれていた、他の菩薩たちが誓った三類の強敵と戦う覚悟も引き継いでいきます。そういう意味では、三類の強敵を呼び起こし、乗り越えていく決意をもってこそ、地涌の菩薩の条件であるといえます。
そして現実に、この三類の強敵と戦い、法華経の経文を身で読んだ、いわゆる「身読」したのは、悪世末法に、日蓮大聖人御一人しかいない。本抄では、そのことを宣言されています。
経文通りの難に遭うことは、大聖人が末法の法華経の行者であり、真実の地涌の菩薩であることの証明となるからです。
それとともに、本抄の趣旨は、南条時光にも、大聖人に師弟不二で連なった門下にもまた、地涌の菩薩であることを教える意義があったと拝されます。

◇「日蓮一人よめり」
続いて大聖人は、「誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず」と仰せです。
大聖人は、立宗宣言のその時から、悪口罵詈の迫害を受けました。所を追われる難を受け続け、更には、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難、佐渡流罪と、次々と襲撃や、権力からの迫害を受け、まさしく勧持品二十行の偈に説かれている経文の迫害の姿を、全て現実に現しました。それが「身読」です。
ここで大きなポイントは、それらの大難を一切、受け切ったのは、大聖人御一人しかいない、ということです。それが「日蓮一人よめり」との力強い宣言です。

◇三類との闘争貫く
三類の強敵との闘争は、元品の無明という、人間不信の闇との戦いです。それは、「人間を軽賤」する者と、「人間を尊敬」する者との戦いにならざるをえません。
勧持品の経文を身読するということは、この人類の持つ本源的な無明との戦いを貫くということです。まさしく、人類の宿命転換に直結する精神闘争です。日蓮大聖人は、この崇高な闘争を生涯、貫き通しました。
末法に法華経を弘通する者は、この無明の三類との戦いを避けることはできません。三類と戦うことが、法華経の人間主義の系譜を受け継ぐ証明となるということです。
大聖人が、勧持品の身読を強調されるのも、御自身が法華経の正当の後継者であるとの宣言にほかなりません。(�に続く)