2020年3月14日土曜日

2020.03.14 わが友に贈る

御義口伝巻上 P751
『元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云』

【通解】
元品の無明を対治する利剣は信の一字である。(法華文句巻十上の)「疑い無きを信という」という釈をよく考えるべきである。

名字の言 文字に思いを込めて——。葉書や手紙を使ってみては? 2020年3月14日
夏目漱石の小説『門』に、主人公の宗助が「どうも字というものは不思議だよ」とつぶやく場面がある。「近来の近の字はどう書いたっけね」と妻に尋ねた▼いくら易しい字でも、これは変だと思って疑いだすと分からなくなる。紙に書いて眺めても、違う気がしてしまう。宗助が「御前そんな事を経験した事はないかい」と問うと、妻は言った。「まさか」▼最近、同志に送る便りを手書きしていると、しばしば漢字を思い出せない時がある。「まさか」と笑えない。年のせいか、それともパソコンやスマホで文章を作ることに慣れてしまったせいか▼若き日の池田先生のカバンには、常に葉書と便箋が入っていた。寸暇を惜しんで同志への励ましをつづるためだ。「深刻な悩みをかかえている友も多い。一葉の葉書で人生を決することもある」「一念を研ぎ澄まし、凝縮した言葉を紡ぎ出す"精神の格闘"であった」と述懐している▼友に直接会えないとき、電話やメール、SNSで心を通わせ、励まし合うことは大事だ。その上で、あえて葉書や手紙を使ってみるのもいい。手書きには一つとして同じ形はない。思いを込めてつづった文字には、おのずと書き手の心がにじみ出るものだろう。友のもとへ「真心」を形にして届けたい。(之)

寸鉄 2020年3月14日
「煩悩の淤泥の中に真如の仏あり」御聖訓。今こそ満々たる生命力輝かせて
京都婦人部の日。希望の春へ共々に励まし前進。"常勝の太陽"は祈り強く
我々は人生という大芝居の共演者—詩人。皆、最後は勝つのが広布の舞台
3月下旬は特に暖かく—予報。「寒暖差疲労」注意を。聡明な生活リズムで
手洗い・咳エチケット・換気…予防の基本、再確認。警戒緩めず冷静な対策を

☆心に御書を 第24回 創価家族を守る黄金柱たれ
〈御文〉
『日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり』(種種御振舞御書、919ページ)

〈通解〉
日蓮によって日本国の存亡は決まる。譬えば、家に柱がなければ家は保たれず、人に魂がなければ死人であるのと同じである。日蓮は日本の人の魂である。

〈池田先生が贈る指針〉
御本仏に連なる創価の壮年は真正の黄金柱である。「信心」という最極の信念の力で、家族も職場も地域も支え立つのだ。
苦難の尽きない娑婆世界で、厳然と悠然と、皆に安心と勇気を送るのが、我ら「能忍(能く忍ぶ)」の丈夫である。
弥生三月は壮年部結成の月。いよいよ「負けじ魂」を光らせ、生き生きと大確信の人生を!

☆紙上講義「諸法実相抄」(上) 森中教学部長
我こそ地涌の菩薩である——自覚した時に境涯は広がる!

行学錬磨の前進へ、森中教学部長の紙上講義を、上下2回にわたって掲載します。学ぶ御文は、2月度御書講義の研さん範囲である「諸法実相抄」(御書1360ページ6行目〜13行目)です。創価学会が「地涌の義」を現実にし、世界に妙法を広げてきた誇りと確信を学びます。((下)は3月3日付4面に掲載の予定。「大白蓮華」2月号も参考にしてください)

■はじめに
今回研さんする「諸法実相抄」の範囲は、日蓮大聖人が「地涌の義」について仰せになっている箇所になります。
創価学会こそ、仏意仏勅の、地涌の菩薩の陣列であることを、ともどもに確認したいと思います。
池田先生は、「大白蓮華」2月号に掲載の「世界を照らす太陽の仏法」の中で、次のように語られています。
「折伏・弘教は、日蓮大聖人から末法広布を託された仏意仏勅の教団にして、地涌の菩薩の陣列である創価学会の誇り高き使命です。ここにこそ、自他共の幸福を実現する日蓮仏法の真髄があり、宗教の生命線があります」
まさに、「創価学会こそ、大聖人から広宣流布を託された地涌の陣列の教団である」という自覚が根本であり、このことが、今回の講義の主題です。
「地涌の菩薩」は、法華経において、釈尊が滅後悪世の末法における弘教を託した偉大な菩薩です。
日蓮大聖人は、末法に「地涌の菩薩」が出現し、この「地涌の菩薩」が、南無妙法蓮華経を弘通して、一切衆生を救うことを明らかにされています。
この地涌の系譜を受け継いだ団体が、創価学会です。今や、1日24時間、1年365日、地球上のいずこかで南無妙法蓮華経の題目が響き、広布推進の対話が繰り広げられる「世界広布新時代」を迎えました。その学会員一人一人の胸中に赤々と燃えているのが、「地涌の誓願」にほかなりません。
ここでは、「諸法実相抄」の一節を拝して、地涌の菩薩の意義と精神を研さんします。

■背景と大意
本抄は、文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡・一谷で著され、最蓮房に与えられたお手紙とされています。
大聖人は本抄で、法華経方便品にある「諸法実相」の法理について論及されていきます。
「諸法実相」とは、私たちが毎日、読誦している方便品第2の経文です。これは、法華経にしか説かれていない「万人成仏」の裏付けとなる法理です。
続いて大聖人は、法華経の「虚空会の儀式」について示されます。
法華経では、見宝塔品第11にいたって、突然、巨大な宝塔が現れ、空中に浮かび、その中に釈尊と多宝如来の二仏が並んで座り、虚空会の儀式が始まります。その儀式のハイライトが、大地から涌現した無数の地涌の菩薩に対し、滅後の悪世に、あらゆる仏を成仏させた根源の大法を広宣流布する使命が託される場面です(従地涌出品第15、如来神力品第21など)。
これを受けて大聖人は、末法に地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩が弘めるべき妙法を、自ら弘めるとともに、虚空会の儀式を用いて、人々が根本とすべき御本尊を顕されました。ゆえに本抄で大聖人は、御自身のことを「地涌の菩薩のさきがけ」(御書1359ページ)と仰せになられています。
さらに、大聖人お一人だけでなく、大聖人の門下となり、大聖人と同じ心で戦う人もまた地涌の菩薩であると宣言されます。
そして大聖人が、ただ一人、唱え始められた南無妙法蓮華経は、一人から一人、そしてまた次の一人へと唱え伝えられていくと述べられ、これが「地涌の義」であると仰せになります。
ここでは、この「地涌の義」について学び深めていきます。

= 御文1 =
『いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり』(御書1360ページ6行目〜8行目)

◆ ◇ ◆
冒頭の「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし」との御文は、信心を最後まで貫いていくことの大切さを教えられています。
「なりとをし給うべし」との一節からは、弟子たちに対して"師弟共に大難を受ける中で、せっかく信心をしたのだから、いかなる難が競い起ころうとも、最後の最後まで信心を貫くのですよ"と励まされる、大聖人の深き慈愛が感じられてなりません。
そして、この御文には、最後まで信心を貫く「不退の信仰」の本質は、どこまでも師匠を求め、弟子の道を歩み抜いていく「師弟不二」の信心にあることが示されています。

■不思議なる縁
その上で大聖人は、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せです。
「私たちは地涌の菩薩である」との使命の自覚こそ、日蓮仏法の根幹です。
自分はどこから来て、何のために生きるのか——人類の根源の疑問に答えゆく甚深の哲学がここにあります。
仏法の眼から見れば、私たちは久遠の昔に妙法流布を誓い、三世にわたって師匠と共に妙法を広げていく、不思議なる縁で結ばれた師弟である。このように確信していくのだ——この大聖人の大確信の仰せが、続いての「地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」の御文になります。また、それを裏付ける法華経涌出品の経文が、続いての箇所で引かれている「我久遠より来かた是等の衆を教化す」になります。
「我こそ地涌の菩薩である」と真に自覚した時、私たちの境涯は、大きく広がっていきます。

■宿命を使命に
法華経以外の経では、偉大な菩薩は、清浄な世界に生まれます。悪世末法には生まれません。
しかし、民衆救済の願いを立てる菩薩は「誓願」によって、自ら願った宿業を背負って悪世末法に出現することが法華経に説かれます。
その誓願とは、あえて背負った宿業を、妙法によって転換し、その現実の姿を見せることによって、妙法の偉大さを示していくという誓いです。この「願兼於業」の誓願に生き抜く人こそ、地涌の菩薩にほかならないのです。
したがって私たちの宿業は、自分で誓ったものです。だから、乗り越えられないはずはありません。
この「地涌の使命の自覚」に、「宿命を使命に変える」という日蓮仏法の真髄があります。

■苦難に負けない
苦難に直面した時に、その宿業の重さにうちひしがれ、諦めてしまうのか。"この苦難こそ、自らが乗り越えて信心の偉大さを示すと誓ったものだ"と捉えて立ち向かっていくのか。
同じ苦難にあっても、地涌の使命を自覚した人と、そうでない人とでは、その意味合いが全く違ってきます。
使命に生き抜くならば、いかなる苦難にも負けない、絶対的幸福の境涯を開いていくことができます。
こうした地涌の菩薩の集いこそが、創価学会なのです。

■学会と共に歩み抜く
学会の原点は、「我、地涌の菩薩なり」との大確信を示された戸田先生の「獄中の悟達」です。
池田先生は、戸田先生に初めてお会いし、その確信と誠実な人格に触れた感動を、「われ 地より湧き出でんとするか」と即興詩として詠まれました。
この地涌の師弟の絆によって、世界広宣流布の道が開かれました。この偉大な師弟と共に、学会と共に異体同心のスクラムで広宣流布に歩み抜いていくことが、地涌の菩薩の自覚に立つことになるのです。

= 御文2 =
末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり(御書1360ページ8行目〜9行目)

◆ ◇ ◆
大聖人は「男女はきらふべからず」と仰せです。地涌の菩薩であることに、性別や立場などは関係ありません。
1月度の座談会で拝読した「阿仏房御書(宝塔御書)」の中にも「法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」「貴賤上下をえらばず」(同1304ページ)とあります。
また別の門下(椎地四郎)への御書でも、男性であろうと女性であろうと、法華経の「一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(同1448ページ)と仰せになっています。
続く「諸法実相抄」の御文では「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せです。
"今、南無妙法蓮華経の題目を唱えることができている、そのこと自体が、地涌の菩薩であることの揺るぎない証拠である"との仰せと拝されます。この大聖人直結の題目を唱えているのが創価学会であることは、いうまでもありません。