勝負を決するのは
最後の最後まで走り抜く
種年と粘り強さだ!
さあ 栄光のゴールへ
自分らしく 悔いなく!
種種御振舞御書 P916
『依智にして二十余日其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと』
【通解】
依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七・八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」と。
〈寸鉄〉 2019年4月18日
勇気の一人がいれば大事を成就—牧口先生。それは「私」と!主体者の心で
東京の中央・目黒・文京よ勇敢に攻め勝て!スピードと団結で乱戦突破を
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人のために生きることは疑いのない幸福—文豪。立正安国の大道を今日も
SNSの儲け話に注意。宣伝するだけ、調査に答えるだけは嘘だ。冷静に
☆負けじ魂ここにあり わが生命の学園生 第18回 関西校 1994〜96年度
闇を破って煌々と輝く金星に!
「自分はやりきった」という挑戦の先に勝利の人生がある。
「気取らないでやりましょう。ワイワイと楽しく!」
1994年10月25日、関西創価学園で行われた第5回「友好交歓会」。創立者・池田先生の呼び掛けに、場内は和やかな雰囲気に包まれた。
オープニングを飾ったのは、小学校のアンジェリック・ブラスバンドの「新世界より」(ドボルザーク作曲)。続く中学・高校の吹奏楽部は、シベリウス作曲の「フィンランディア」を力強く響かせた。
その後、中学・高校の女子生徒、男子生徒、小学生がそれぞれ愛唱歌を熱唱した。すると、海外の来賓たちが、飛び入り参加して自国の歌謡曲を次々と披露。学園生たちは、オペラやアフリカの民謡などに心を躍らせ、喝采を送った。
この日、約2年ぶりに関西学園を訪れた池田先生は、インド初代首相のネルー氏と娘との逸話を通してスピーチ。「どんなに離れていても、父と娘の心の扉は、いつも開かれていた。私と学園生の皆さんも、まったく同じである」と強調した。
さらに、氏が獄中から娘に宛てた書簡「人間は、一念を定めさえすれば、天国からの風にも、地獄からの風にも、不動の姿勢で立ち向かえるのです。そして人間は、運命そのものを左右し、転換することができるのです」を紹介。これを「私の生命の娘であり、息子である学園生に贈りたい」と語り掛けた。
当時、小学4年生で、アンジェリック・ブラスバンドの一員として参加したエリアス明日香さん(小学校14期)。この年に入部し、クラリネットを始めたばかりだった。
「先生は曲が終わる前に立ち上がり、惜しみない拍手を送ってくださいました。それが、とてもうれしかったことを覚えています」
高校3年次には、プロの奏者を目指して音大を受験するも、最終面接で涙をのんだ。
しかし、エリアスさんは"日本がだめなら世界へ"とアメリカに渡り、ニューヨーク市立大学クイーンズ・カレッジの音楽学部に進学。同大を首席で卒業し、奨学金を得て名門ジュリアード音楽院へ。現在は、フリーランスのクラリネット奏者として室内楽やオーケストラの演奏活動などを行っている。
「将来は、貧しい子どもたちに、音楽の魅力を伝える仕事がしたい」
学園での原点が、世界で活躍する原動力だ。
世界の指導者が
第14回健康祭を終えた95年10月8日の夜、男子寮生たちの元にうれしい知らせが届く。「池田先生が寮を訪問される!」——それは、男女共学となった82年以来、男子寮生の悲願でもあった。
その2日後、先生は、完成したばかりの新「金星寮」へ。到着するや、真っ先に管理者夫妻の元へ向かい、「寮生は私の宝ですから、くれぐれもよろしくお願いします」とあいさつ。建物内を視察し、寮生たちとの記念の集いに出席した。
席上、先生は金星寮の名前の意義について言及した。
「金星は、夜明け前、暁の東空に高く輝く(『明けの明星』)。また、夕焼けの余韻のなか、真っ先に西の空に光を放つ(『宵の明星』)。天空高く、どの星よりも明るく、闇を破って煌々と輝く——それが『金星』である。そして、これこそが、21世紀の『金星』たる、学園生の使命である」
さらに、若き日に関西に移り住んで学ぶことを希望していた恩師・戸田城聖先生の言葉「我れを支配するものは我れなり……」を紹介。「人生は、結局、『自分はこう生きる』と自分で決めるしかない。人に決めてもらうものではない。自分で目的を決め、挑戦し、『自分はやりきった』と自分で満足していく。そこに、勝利の人生がある」と力説した。
寮の落成に寄せて、先生は次の言葉を揮毫して贈った。「金星寮 この中より 日本の指導者が 世界の指導者が」
以来、24星霜。鍛えの青春を共にした学友たちが、いよいよ各地で輝き光る時を迎えている。
後退するな
96年3月17日に挙行された第21回卒業式。式典には、2日前に香港から関西入りした池田先生が祝福に駆け付けた。
中学生代表で卒業証書を受け取ったのは、乾華子さん(高校24期)。
「私が証書を受け取る様子を、池田先生はじっと見つめてくださいました。その慈愛のまなざしからは、"この先も、ずっと見守っているからね"との思いが感じられてなりませんでした」
乾さんが暮らしていた神戸市は、前年の1月17日に発生した阪神・淡路大震災で甚大な被害に見舞われた。交通網が遮断され、ライフラインは壊滅状態に。
数日後、通学できない乾さんの元に、クラスメートたちから寄せ書きのファクスが届く。さらに学園の教職員らが交通の不便な中、救援物資を担いで会いに来てくれた。その後、鉄道が復旧するまでの期間、教職員宅に友人と下宿させてもらうことに。池田先生からも、たびたび見舞いの伝言や激励が届けられた。
「学園で受けた多くの励ましが、その後の生き方を変えてくれました」
以来、"誰か困っている人がいれば、今度は私が励ます番"と、報恩の人生を歩む乾さん。今も愛する神戸の地で、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」との平和の哲学を広げている。
◇
同じく、あの日の卒業式を心に刻む小野浩志さん(高校21期)は、大阪・吹田市にある産業廃棄物を処理する会社で、代表取締役を務めている。
創価大学を卒業後、東京の旅行会社に就職。病に倒れた祖父を支えるため、2004年に大阪へ戻り、会社を手伝った。
だが、間もなくして祖父が大腸がんで他界。さらに翌年、専務の叔父が心筋梗塞で急逝してしまう。屋台骨を失い、経営が悪化の一途をたどる中、小野さんは意を決して代表取締役に就任。しかしその直後、リーマン・ショックによる不況の荒波が容赦なく襲い掛かった。
「倒産」の二文字が頭をよぎる。そんな小野さんの心に浮かんだのは、学園の卒業式での先生のスピーチだった。
先生はあの日、父と夫の死別を乗り越えて8人の子を育て上げた香港の著名な画家・方召?氏の生涯を通して訴えた。
「人生は順調な時ばかりではない。また、そうであっては人間ができるはずがない」「これからの皆さんの前途にも、思いがけない悲しみや悩みがあるかもしれない。しかし、その時こそ、絶対に負けてはならない。あきらめてはならない。後退してはならない」
小野さんは、どんな状況にも逃げないと決め、耐えに耐えた。得意先の会社が閉鎖し、廃業寸前にまで追い込まれた時も"全て成長するための試練だ"と自身に言い聞かせ、踏みとどまった。
そんなある日、後継ぎのいなくなった同業者から、仕事を引き継いでほしいとの相談が。別の会社からも新たな仕事を任され、窮地を脱することができた。今では、経営も安定。2013年には産業廃棄物処理業界の模範として「地方優良事業所表彰」が贈られた。
小野さんは振り返る。「どんな苦難にも動じなくなったことが、一番の財産だと思います」
池田先生は、卒業式で訴えた。「苦労につぐ苦労、波瀾万丈の人生を生きぬいてこそ、深みのある本物の人物ができるのである。その『揺るぎなき境涯』にこそ本当の幸福もある」