2019年4月17日水曜日

2019.04.17 わが友に贈る

心を動かすのは心。
策ではない。
根本は真剣な祈りだ。
友のため社会のため
誠心誠意で語り抜こう!

南部六郎殿御書 P1374
『眠れる師子に手を付けざれば瞋らず流にさをを立てざれば浪立たず謗法を呵嘖せざれば留難なし』

【通解】
眠っている師子に、こちらから手を付けなければ瞋ることはない。水の流れにさおを立てなければ、浪は立たない。これと同様に謗法を呵嘖しなければ難を受けることはない。

〈寸鉄〉 2019年4月17日
「苦楽ともに思い合せて」御書。題目の人に行き詰まりなし。強盛の信力を
東京の大田・世田谷よ競り勝て。炎となり大攻勢を!勝利こそ本陣の使命
狛江市・多摩市が勇戦。ここが正念場だ。民衆の底力示し栄光の旗必ず!
8年連続の人口減。故に一人を一騎当千の人に。青年の激励に精魂込めて
詐欺検挙者、10代少年が多く。バイト感覚で参加と。啓発強め絶対に根絶

☆世界に魂を 心に翼を 第14回 沖縄芸能の光彩(中)
◇「私が見たのは"本当の涙"」
「これまで脚光を浴びたことのない沖縄の芸能が、日本中、世界中で喝采に包まれたわけですから。みんな、一回りも二回りも大きくなって、自信にあふれていました」
琉球舞踊家の玉城秀子氏(玉城流の二代目家元)が当時を振り返る。
ちょうど50年前、民音が主体となり、沖縄の舞踊家が流派を超えて一つになった「沖縄歌舞団」。陰りが見えていた芸能を画期的な演出で舞台化し、新たな展開に導いた。
全国公演(1969年)に続き、諸団体の助成を得て行われた海外公演は、30カ国以上で注目を集めている。
イギリスの新聞記者は"これほどの舞台が、まだ世界にあったとは。神が隠していた宝物だ"と絶賛。かつて沖縄で戦ったというアメリカの観客は"あの沖縄に、こんな素晴らしい踊りがあったのか"と声を震わせた。
歌舞団が結成された直後は、伝統を重んじる一部の文化人から批判もあった。従来の優雅な古典舞踊に加え、島々に伝わるエネルギッシュな民俗芸能も取り入れていたからだ。
「秀子先生のような家元が、こんな舞台をしてもいいんですか?」
玉城流の将来を憂う声さえあったが、いざ公演が始まると、そうした批判は影を潜めた。舞台には、かつて目にしたことのない躍動的な沖縄芸能が広がり、舞踊家たちも確かな手応えを感じていた。
玉城氏は言う。「何よりお客さまが喜んでくださった。時代に挑戦しなければ、守るべきものも守れません。古典に立脚した上で、新たな深みをさまざまに見せる。それが"守る"ということではないでしょうか」
前例のない規模の公演は、まさに"初めて尽くし"。その一幕一幕に忘れがたいドラマがあった。
東西冷戦の真っただ中、ソ連(当時)の首都モスクワでの舞台。
国や都市によっては、目の肥えた観衆もおり、公演途中でも遠慮なく退席することがあると聞いていた。
ステージ上から観衆の表情をうかがうが、反応は読み取れない。公演を最後まで見てくれるように——祈る思いで懸命に演技を続けた。
迎えた終演、数千人の観衆が総立ちに。万雷の喝采が沸き起こり、アンコールを求める拍手がやまない。涙を拭う人もいた。
アンコールに応じた後も、再演を望む拍手は続き、上演した作品を一から披露し直すほどの大盛況に。
「よかった!」「公演してよかったね!」。肩を組み合い、団員が固い握手を交わす。歌舞団を結成した当初は、アンコールを求められるなど想像すらしていなかった。
玉城氏は「大きな転換点でした。かつては差別がありましたから」と回想する。アメリカの施政下に置かれてきた沖縄は、戦争の傷痕が残る"辛苦の島"との印象も強かった。
「沖縄では頭に荷物を載せているとか、裸で暮らしていて、ちゃんとした日本語が話せないとか。そう言われるような時代でした。だから、観客の涙も素直に受け止められなくて……。芸を本当に喜んでくださっているのか。それとも、沖縄を哀れむ同情の涙なのか。でも、終演の瞬間に分かりました。私が見たのは本当の感動の涙でした。その時から、自分に誇りを持てたんです」
◇ ◆ ◇
その会見は、新たな時代の幕開けを予感させた。
本土復帰から約2年となる74年4月、那覇に民音のサービスセンターが開設。記者会見には、沖縄の舞踊家が流派を超えて一堂に会した。
芸術文化の交流を通し、伝統芸能のさらなる発展に尽くす——。会見では、民音の展望と、創立者である池田先生の理念が示されている。
この2月、池田先生は八重山諸島を初訪問。石垣島のヤドピケ浜では、先生を迎え、友が喜びに舞い踊っていた。先生もズボンの裾をたくし上げ、波打ち際へ。大粒の汗を光らせながら「安里屋ユンタ」を舞うと、周囲も次々と後に続いた。
同センターの初代所長を務めた大西国司さんは追想する。
「うれしい時も、悲しい時も、歌と踊りで乗り越えてきた沖縄です。池田先生と共に舞う、笑顔また笑顔。あの光景は忘れられません」
これが7度目の沖縄訪問だった。先生は60年の初訪問以来、一貫して「万国の津梁(懸け橋)」たる沖縄の使命を訴えてきた。"「文」をもって「化」する力"こそ沖縄の心であり、戦略、軍略的見地から「太平洋の要石」と呼ばれた沖縄を、世界に誇る「海のシルクロードの要石」に転換したいと繰り返し述べた。
池田先生は大西さんを見かけるたびに、親しみを込めて「沖縄!」と声を掛けている。「"大事な沖縄の人たちに、心から楽しんでもらえる取り組みを。そのための民音だよ"と、期待してくださいました」
サービスセンターの開設記念コンサート(74年5月)では、「読売日本交響楽団」を那覇に招いた。日本を代表するオーケストラの来沖である。沖縄中が沸き返った。
この日、読響の団員は、楽器を胸元に掲げるように入場している。
会場の那覇市民会館には、離島の小・中学生をはじめとする、250人の児童・生徒が招待されていた。
石垣島からは50人の生徒が参加していたが、引率の教員から、「まだ本当の楽器を見たことがない生徒もいるので、楽器をよく見せてほしい」との要望があり、そのリクエストに応えての入場だった。
曲目はドボルザークの交響曲第9番「新世界より」など。指揮はペーター・シュバルツ氏である。
南大東島から参加した女子中学生は、「この感動は、言葉では表現できません。本当の音楽をありがとうございます」と喜びを語っている。
バイオリン奏者を務めていた宮下要氏。その後、首席奏者として活躍するが、数々の演奏会の中でも、この時の公演は今も鮮明だ。「子どもたちの笑顔が、ひときわ印象的でした。団員も沖縄で演奏できる喜びにあふれていました」
県外から多彩な音楽芸術を紹介する一方で、民音は「おきなわ藍と紅と」(76年)、「南の七つ星」(80年)等の沖縄歌舞団の公演に尽力。離島などでの学校コンサートは70回を数える。
◇ ◆ ◇
84年7月、海上に広がる文化交流を描き出す民音公演「マリンロード音楽の旅」がスタートした。
第1回の舞台は、沖縄とタイ。
かの大航海時代に先駆け、琉球の民は、小さな船で黒潮に乗ってシャム湾へ。チャオプラヤー川を上り、アユタヤ王朝と交易を続けてきた。沖縄の泡盛はタイ米を原料とし、当時の名残が今に伝わっている。
全国16会場で開かれた公演には、両国を代表する舞踊家が名を連ね、タイからはシリントーン王女が主宰する「タイ国立民族舞踊団」が来日。200年の伝統と格式を誇る王立劇場のトップスターたちである。
一方、沖縄からは玉城秀子氏、佐藤太圭子氏ら、世界を舞台に活躍する舞踊家が出演。音楽を手掛けたのは、後に沖縄の伝統芸能で初となる人間国宝(琉球古典音楽)の認定を受けた、照喜名朝一氏である。
敗戦後、山原の収容所で手にした三線。いかなる境遇の人をも鼓舞する音楽の力を信じ、歌を紡いだ。
照喜名氏が初めて民音のステージに立ったのは、50年以上前。以来、民音を見つめて半世紀が過ぎた。
「大きな目覚めです。古典界にとっても、民謡界にとっても」
そう形容し、氏は言葉を継いだ。
「世界の民音だからこそ、沖縄だけでは出来ないことが可能になる。国と国との交流は大きな財産です。民音の取り組みを機に、沖縄では新たな作品が生まれていきました」

◇ ◆ ◇
公演の開幕を飾ったのは琉球舞踊の「四つ竹」。真紅の花笠が照明に浮かび、場内にどよめきが上がる。
タイ舞踊のこまやかな指先、しなやかな肢体の表現は、まさに琉球舞踊のコネリ(指先の技)や、ナヨリ(肢体のくねり技)そのもの。見え隠れする共通性を解き明かすような展開に、観客は胸を高鳴らせた。
最高潮のフィナーレは、全出演者によるカチャーシーの共演。地元・那覇での公演は、感極まった聴衆も飛び込んでの乱舞となった。
「精神のシルクロードは、海の道にも通じていましたね」。関係者が感嘆の声を漏らす。
かつて池田先生はモスクワ大学での記念講演で、"世界を「音楽」の光で照らした時、「精神のシルクロード」ともいうべき、文化交流の生命線が浮かび上がるに違いない"と述べた。民音の「シルクロード音楽の旅」では、陸路を舞台に文化交流を浮き彫りにしたが、その精神の道は、海上にも確かに広がっていた。
タイから始まったマリンロードの公演は、98年まで8回にわたって催され、マレーシア、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ブルネイ、ベトナム、スリランカの芸術家を日本に招いた。初来日となる招聘も多く、相互交流の新たな礎となってきた。
回を重ねるたび、話題になったのが、マリンロードにおける沖縄の存在感。「万国津梁」の名の通り、まさに南の海の"主役"であった。
あの沖縄歌舞団の公演から20年余り——。いつしか、沖縄の"新たな舞台"を望む声が高まり、それはやがて、沖縄で初となる一大ミュージカルの誕生につながっていく。
舞台は、交易華やかな16世紀前後の琉球。島を飛び出した若者たちが、東南アジアの国々を旅し、さまざまな人や音楽と出会いを結ぶ——。
マリンロードの国々も加わり、沖縄芸能界が再び一つとなる。