新聞休刊日
上野殿御返事 P1510
『今始めて申すにあらず二十余年が間音もをしまずよばはり候いぬるなり、あなかしこあなかしこ、この御文は大事の事どもかきて候、よくよく人によませてきこしめせ、人もそしり候へものともおもはぬ法師等なり、恐恐謹言』
【通解】
このことは今初めていうのではない。立宗以来二十余年の間、音も惜しまず叫んできているのである。あなかしこ・あなかしこ、この御文には大事のことを書き記してある。よくよく人に読ませてお聞かせなさい。人が謗るであろうが、我等日蓮一門は、それらをものとも思わぬ法師等である。恐恐謹言。
☆御書と歩む� 第63回 「法華経の行者」の不退の祈り
『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』(祈祷抄、1351ページ)
◇通解
大地をさして外れることがあっても、大空をつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなっても、日が西から出ることがあっても、法華経の行者の祈りのかなわないことは絶対にない。
◇同志への指針
広宣流布のために戦う「法華経の行者」の祈りには、広大無辺の力がある。これが御本仏のお約束である。
祈り抜き、祈り切る。そして行動を貫き通す時、無限の智慧が湧く。十界のいかなる衆生も諸天善神となって、仏の陣列を護りに護る。
戦う題目に勝るものはない。不退の信力・行力こそ、不可能を可能にしゆく仏力・法力の原動力なのだ。
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 如説修行抄(上) 2019年4月13日
平和な社会を建設する挑戦者に!
"負けない心"で広布に励む
今月は、「如説修行抄」の前半を学びます。
池田先生は、本抄の講義の中でつづっています。
「どこまでも『師匠の仰せのまま』に、苦難に臆さず理想のために戦う仏弟子の生き方を教えられたのが本抄です。『師弟不二の書』ともいうべきこの重書を、ただただ末法万年の広布のために、未来永遠の創価の勝利のために、魂に刻みつけて拝してまいりたい」
創価の誉れの「如説修行」の信心で、広布拡大の新たな歴史を勝ち開きましょう。(拝読範囲は501ページ冒頭〜502ページ9行目です)
◇本抄について
本抄は、文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡・一谷で著され、門下一同に与えられた書です。
題号の「如説修行」とは、「仏の説の如く修行する」との意です。仏とは釈尊のことですが、大聖人門下にとっては、末法の御本仏・日蓮大聖人のことと拝されます。
佐渡流罪という命に及ぶ大難の渦中で大聖人は、「開目抄」「観心本尊抄」を認められ、末法万年に民衆を救いゆく仏法の骨格を確立されます。
そして、両書の後に書かれた本抄では、三類の強敵が競うのは、真実の「如説修行の行者」の証しであり、門下に対し、大聖人と同じ不退の心で、折伏の実践を貫くよう、渾身の激励をされています。
◇御文
『法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』(御書502ページ5行目〜9行目)
◇通解
「法華経の折伏は、権教の理を打ち破る(法華折伏・破権門理)」の金言であるので、ついに権教を信ずる輩を一人も残さず攻め落として仏の門下とし、国中のすべての人々が、二乗や菩薩などをめざす低い教えを捨てて最高の成仏の教えを信じ、妙法だけが独り盛んになった時、すべての人々が同じく、南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風は枝を鳴らさず、雨は優しく降って土を砕かず、時代は理想とうたわれた伏羲・神農のような世となって、今世では不幸な災難を払い長寿の方法を得て、人も法も共に不老不死の姿が現実となる時を、皆それぞれ御覧なさい。「現世は安穏」という経文に何の疑いもないのである。
◇解説
掲げた御文は、"法華経薬草喩品に「現世安穏」と説かれているのに、「如説修行の行者」はなぜ難に遭うのか"との疑いに答えた箇所です。
この前の部分で大聖人は、仏の正しい教えが見失われ、争いが絶えない末法で、権教(仮の教え)と実教(真実の教え)を明確に立て分けていく、「如説修行の行者」の御闘争を示されます。
さらに、その御確信のままに「かしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」(御書502ページ)と、三類の強敵の出現を御覚悟の上で他宗の誤りを指摘し、妙法を弘通したと述べられます。
掲げた御文の冒頭では、大聖人の御確信の根拠として、天台大師の『法華玄義』にある「法華折伏・破権門理」を引用されています。
すなわち、権教に執着する人々は、"法華経で仏自身が権門の理を破折している"ので、結局は仏意に随わざるをえません。万人が仏意に正しく随うことを「法王の家人」となると言われ、全ての教えが法華経のもとに統合されることを「諸乗一仏乗」と言われています。
そして、人々が妙法を受け入れ、妙法を根本とする社会が築かれる時に、「現世安穏」の世が実現すると仰せです。
「現世安穏」の象徴として、理想的な天候に恵まれることと、中国の伝説上の名君が治めた太平の世が挙げられます。
また、「人法共に不老不死」といって、妙法の働きが衰えることなく一切を包み、老いや死の苦しみに左右されない境涯が確立されるとも仰せです。
現代にあって私たちが、「仏法の人間主義」を掲げ、粘り強い対話で共感の輪を広げていることは、「現世安穏」の社会を築く挑戦です。
また、私たち一人一人に当てはめれば、「現世安穏」とは、何の悩みも葛藤もないということではありません。
いかなる困難があったとしても、師弟不二の心で友の幸福を祈り、誠実に正義を語り抜く——私たちが、"何があっても負けない心"で、日々の学会活動に励む、この境涯そのものが「現世安穏」の姿にほかならないのです。
師と共に栄光の「5・3」へ——朗らかに友情の語らいを広げ、前進していきましょう。
★池田先生の講義から
「現世安穏」といっても、決して彼方の理想社会にのみあるものではありません。法華経の教えの通りに、「自他共の幸福」と「平和安穏の国土」の実現を目指して戦う如説修行の行者の境涯そのものが、実は既に「現世安穏」なのです。(中略)
戦えば、自身の仏界が躍動します。最高の歓喜が満ちあふれてきます。
日蓮仏法の不惜身命には悲壮感はありません。溌剌たる挑戦には、常に歓喜の生命が漲るものです。(中略)
広宣流布への挑戦は苦闘の連続です。それは同時に、無上の歓喜が伴う仏界涌現の実践にほかならないのです。
戦う生命の中に成仏の喜悦の大境涯が躍動する。「大難即成仏」「大難即悟達」の境涯にまさる「現世安穏」はありません。
大聖人の御指導のままに、御書の仰せの通りに、広宣流布に戦う魂を赫々と燃え上がらせていくなかにこそ、幸福と希望の大前進があるのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第5巻)
◇研さんのために
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第5巻(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第2巻(同)