「賢者はよろこび
愚者は退く」御聖訓。
喜び勇み立つ心で
烈風をはね返そう!
誉れの人生を共に!
乙御前御消息 P1222
『いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん山中にて共にうえ死にし候はん』
☆女性に贈ることば 九月二十八日
「ありがとう」は奇跡の言葉である。
口に出せば、元気が出る。耳に入れば、勇気がわく。
☆今日のことば365 九月二十八日
獅子は伴侶を求めず、伴侶を心待ちにした時、百獣の王、獅子は失格する。
獅子には、絶対、孤独感はない。伴侶は求めずして、ついて来るものだ。
☆少年少女部結成記念大会への池田先生のメッセージ 2017年9月19日
友情は希望の光
読書は知恵の扉
負けじ魂は勝利の泉
大好きな少年少女部の皆さん! 朗らかな大会、誠におめでとう!
担当者の方々も、いつも本当にありがとう!
私は、未来を託しゆく宝の皆さん一人ひとりと心の握手を固く交わす思いで、すべてを見守っております。
今日は、一人の偉大な女性の負けじ魂を通しながら、皆さんにメッセージを送ります。アメリカのヘレン・ケラーという人です。
気の毒なことにヘレンは、幼い頃の病気が原因で、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、話すこともできなくなってしまいました。
しかし7歳になる頃から、サリバンという立派な先生に教わり、言葉を覚え、勉強を頑張り抜いていきました。そして、「人のために生きよう」と決め、体が不自由な人が暮らしやすい社会になるよう、世界を駆けめぐり、尽くしていったのです。
なぜ、ヘレンは、苦しい試練を乗り越えることができたのか?
一つは、いい友だちをたくさん作ったからです。ヘレンは自分の一生は"友情の宝の記録"というほど、よき友との励まし合いを大切にしました。
友情は「生命を輝かせる希望の光」です。
二つ目は、本をたくさん読んだからです。目が見えなくとも、指先で点字をなぞって本を読み、生き生きと学んで、心の世界を広げていきました。
読書は「心を豊かにする知恵の扉」です。
三つ目は、「絶対にへこたれない」執念です。ヘレンは話す練習に挑んで、何度失敗してもグチをこぼさず、ついに言葉がしゃべれるようになりました。
負けじ魂は「未来を開く勝利の泉」です。
日蓮大聖人は、「題目は、獅子(ライオン)が吼えるようなものです」(御書1124ページ、趣意)と仰せです。皆さんが挑戦している勤行・唱題は、百獣の王の叫びのように、自分自身の勇気を湧かせ、周りの人にも勇気を送る力があるのです。
何があっても、題目を忘れず、「よし! やるぞ」と、明るく、ねばり強く、学び進んでいってください。
皆さんの一歩また一歩の前進こそ、世界の創価家族の喜びです。
愛する少年少女部、万歳! 笑顔で親孝行を頼みます。
☆明日を求めて 池田先生の対話録�第43回 周恩来総理との会見の通訳 林麗?氏 2017年9月24日
◇「人民に奉仕」。この総理の心を中日の青年に伝えたい
「あの日のことは、今も、私の心に鮮烈に刻まれています」
林麗?氏は、かつて本紙のインタビューで語った。
氏が回想した「あの日」とは、1974年12月5日。池田先生が中国の周恩来総理と、北京市内の病院で会見した日である。氏は、通訳として同席していた。
「周総理と池田先生がしっかりと手を握り合った瞬間をはっきりと覚えています。思い出すたびに胸が熱くなります。この歴史的な瞬間にまみえたことを、いつも自分の励みにしてまいりました」
総理との会見に先立つ74年10月、中国中央楽団団長として来日していた氏を、先生は関西文化会館(当時)に歓迎している。
2カ月ぶりの再会で、氏は、先生と総理の、最初で最後の会見の"証言者"となった。
膀胱がんを患っていた総理が、北京の305病院に入院したのは会見の半年前だった。がん切除の手術を2度受けた総理の体は、極度に衰弱していた。
"命の保証はできない"との医師の忠告を押し切って、総理は先生との会見を強く望んだ。
会見中にも、「そろそろお休みください」と書かれたメモが、総理の手元に届いた。だが、それに目も通さず、総理は語り続けた。この時すでに、総理は自らの命が長くないことを知っていた。
日中友好の未来を託すような総理の言葉を、心を、伝える役目を全うしたのが氏であった。
「われわれは、世々代々にわたる友好を築かねばなりません」
「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で助け合わなければなりません」
この総理の心を継ぎ、先生は中国の歴代指導者らと出会いを結び、友好の未来を開いていった。
◇
林氏は33年、台湾生まれ。小学2年生の時に一家で来日し、兵庫県神戸市で12年間を過ごした。
戦時中、大好きな神戸の町が焼かれた。平和のために働こうと決めたのは、その悲惨な光景を目に焼き付けたからである。
高校卒業後は神戸中華同文学校で教壇に立ち、52年、建国されたばかりの新中国に渡る。54年からは、周総理の通訳を務めた。
創価学会の発展に注目していた総理の指示で、関西文化祭(66年9月)の記録フィルムを見たのも氏である。雨の中で泥まみれになりながら演技をする青年の姿に、強く胸を打たれた氏は、"大衆を基盤とした活力のある団体"との印象を総理に伝えている。
若き日の思い出を、氏が池田先生に語ったのは、99年11月5日。東京牧口記念会館での会見の折である。冒頭、先生は言った。
「周総理は世界一の大政治家であり、傑出した指導者でした。天が遣わしたかのような不思議な方でした。周総理のもとで長らく通訳をされた林先生に、きょうは、さまざまに思い出を語っていただきたいのです」
こうして会見は、総理との思い出などについて先生が質問し、氏が答える形で進んだ。
——行事を終えたある日の明け方、ドアを開けると、冷たい風が入ってきた。側にいる関係者に、総理はそっと自分のコートを掛けたという。
ある時は、記念会の会場に入れなかった人たちに会うため、総理は第2、第3会場にも足を運び、丁重に歓迎した——。
氏の回想の一つ一つから、総理の温かな人柄がにじみ出ていた。
先生は「何と美しいお話でしょうか。この人柄、この振る舞い。日本を含め、全ての指導者に聞かせたい」と。
さらに、先生が「中国語で一番好きな言葉は」と聞くと、氏は、総理が語ったという「人民に奉仕する」との言葉を挙げた。そして、こう続けた。
「これを一生涯、やり通すためには、自分の修養を深めなければなりません。人民に奉仕——池田先生の『人類愛』に通じると思います」
また、通訳に当たって総理が氏に送ったアドバイスについては、「単に『言葉』を伝えるだけでなく、『心』を伝えなければならない」と。
心を伝える——そのために、総理が怒っている時は、自らも強い口調で。総理が喜んでいる時は、自分も弾む口調で。そうした通訳を、氏は心掛けたという。
74年の総理との会見で、強く先生の印象に残った場面がある。薄着でいた香峯子夫人を見て、氏は「それでは寒いでしょう」と、自身のコートを貸したのである。
先生は、後につづっている。
「なにげない振る舞いのなかに、周総理の薫陶が染みこんでおられた。それは『総理の心を伝える』という通訳の使命に徹してこられた結果であるにちがいない」
◇
99年の会見で、林氏は「若い人々には、心に、平和への愛の根を下ろしてほしい」と。
それに先立ち創価大学を訪れた折にも、歓迎する学生たちを前にはつらつとした声で語った。「皆さまと、中国の青年たちが手を取り合って、『21世紀の友好』を築き、平和を守ってください!」
先生の提案で、中国最大の青年団体・中華全国青年連合会(全青連)と学会青年部の間に「交流議定書」が交わされたのは、85年。
総理が念願した「世々代々の友好」の証しともいうべき交流は、今も活発に続いている。
今月、日本と中国の国交正常化から45周年の佳節を迎える。
今日を開いた先人の心を知る青年たちがいる限り、友好の根から風雪に揺るがぬ大木が育ち、平和の空へと天高く伸びていく。
林麗?(りん・れいうん) 1933年、台湾生まれ。小学2年から日本の神戸に住む。兵庫県立湊川高等学校卒業後、神戸中華同文学校教師を務める。52年に中国に渡り、北京大学で学ぶ。日中友好のために働くようになり、54年から周恩来総理の通訳に。72年の日中国交正常化交渉や、74年の池田先生と周総理との会見の通訳等を務めた。党中央対外連絡部局長、中日友好協会理事、全国人民代表大会常務委員会委員、同華僑委員会副主任、全国婦女連合会副主席などを歴任した。
〈引用・参考文献〉池田大作著『地球市民の讃歌——世界の指導者と語る�』潮出版社、同著『新・人間革命』第20・28巻、張佐良著『周恩来・最後の十年』早坂義征訳・日本経済新聞社ほか。