非常に強い台風に警戒!
暴風雨や高波など
油断は絶対に禁物だ。
「前前の用心」怠らず
安全・無事故第一で!
三世諸仏総勘文教相廃立 P563
『八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり』
☆女性に贈ることば 九月十七日
先哲の教えに「親に何か良い物を差しあげようと思っても何もないときは、一日に二度三度と笑顔を見せてあげなさい」とある。この人問学の精髄を、生活の劇のなかで賢く朗らかに実践していきたい。
☆今日のことば365 九月十七日
個人は、外から侵されることのない権利をもつと同時に、その結合体を維持し、より豊かなものへ、楽しいものへと高めていくために責任を持たなければならない。責任ないし義務のない権利は、権利としても成り立たないものである。
☆御書と歩む 第81回 朗らかに人間革命の劇を
『法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり』(御義口伝、781ページ)
◇通解
(法華経の行者が)法華経を受持する所を「当詣道場」というのである。この娑婆世界を去って、極楽浄土等のほかの国土へ行くことではない。「道場」とは十界の衆生の住所である娑婆世界をいうのである。
◇同志への指針
仏道修行の道場は遠くではない。「今」「ここ」にある。わが地域である。
60年前の9月、私は、東京・葛飾区に初代の総ブロック長として立った。一人一人に「信心してよかった」という喜びを味わわせてほしいとの師の心を体し、人情あふれる友と地域広布へ走った。
我らの地域よ、十界互具の衆生の朗らかな「人間革命」の劇で輝き光れ!
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 一生成仏抄(上) 2017年8月12日
◇唱題根本に崩れざる幸福境涯を
今月から2回にわたり、「一生成仏抄」を学びます。
池田先生は、つづっています。
「日蓮大聖人の仏法は、永遠に崩れない最高の幸福境涯を築き、自他ともに無上の人生を送りゆく希望の宗教です。誰人も、皆、仏になれる。しかも、この身そのままで、仏になれる。そして、何よりも、この一生のうちに、必ず仏になれる。この素晴らしき成仏への道を明確に示されたのが、日蓮大聖人の仏法です」
今回は、自他共の無限の可能性を開きゆく信心の姿勢を心に刻んでいきましょう。(拝読範囲は、御書383ページ冒頭〜15行目「取るべきなり」)
◇本抄について
本抄は、御執筆の年次や宛先は不明ですが、立宗から間もない建長7年(1255年)に認められ、富木常忍に与えられたと伝えられています。
題号の「一生成仏」とは、凡夫が、この一生のうちに成仏するということです。本抄では、日蓮大聖人の仏法の根幹である唱題行の意義について、法理と実践の両面から明らかにされ、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行こそが、成仏の直道であることを示されます。
◇御文
『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずそ法なり、そ法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり』(御書383ページ6行目〜9行目)
◇通解
ただし妙法蓮華経と唱え持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、そ法(不完全な法)である。
そ法は、法華経ではない。法華経でなければ方便の教えであり、仮の教えである。方便であり、仮の教えであるならば、成仏へ直ちに至る道ではない。成仏へ直ちに至る道でなければ、何度も繰り返し生まれて重ねる長遠な修行を経て成仏できるわけでもないので、一生成仏はついに叶うことはない。ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名付けているのだ、と深く信心を起こすべきである。
◇解説 "自身が妙法そのもの"と確信
日蓮大聖人の仏法は、全ての人に尊極な仏の生命が具わることを説いています。
そして、一人一人が仏の生命を現し、絶対的幸福境涯を開くための方途として、大聖人は、南無妙法蓮華経と唱える唱題行を確立されました。
題目を唱えれば、いつでも、誰でも、その身のままで、仏の生命を現すことができます。大聖人によって初めて、万人成仏を現実のものとする道が開かれたのです。
この万人の幸福を開きゆく唱題行の実践に当たって、最も大事なことは何か——。それは、「妙法蓮華経とは自分自身のことである」と確信することです。
掲げた御文では、南無妙法蓮華経と唱えていても、「己心の外」、つまり自身の生命の外に法があると思ったならば、妙法ではなく、そ法(不完全な法)になってしまうと戒められています。
そして、そ法の例として、爾前権教(法華経以前に説かれた教え)を挙げられています。
爾前権教では、成仏するためには、何度も生死を繰り返しながら長遠な期間にわたって仏道修行をしなければならないと説かれており、凡夫と仏とはかけ離れた存在として捉えられています。このような「己心の外」に仏を求める生き方は、自身の無限の可能性を否定することにつながります。
私たちで言えば、例えば、悩みや苦難の原因を他人や環境のせいにしたり、仕方がないと諦めたり、今いる場所から離れたところに幸福を求めたりすることも、「己心の外」に法を求めている姿といえます。これではどんなに題目を唱えていても、妙法を信じていることにはならず、苦難を乗り越えることもできません。
ゆえに大聖人は、"自身の一念を指して妙法蓮華経と名付けているのだ、と深く信心を起こしていきなさい"と強調されているのです。
"自身が妙法蓮華経なのだ"と決めて題目を唱え、広宣流布に前進していくなかで、揺るがぬ幸福の土台が築かれていきます。
池田先生は、第2代会長・戸田城聖先生の指導を私たち女子部に贈っています。
「信心とは、最も強く自分で確信することです。自分自身が妙法の当体なのだから、諸天善神が守らないわけがないと確信して、題目をあげた時に、必ずそうなるんだよ」
どこまでも自身の可能性を確信して「行学の二道」に励み、池田先生の入信70周年を荘厳していきましょう!
◇池田先生の講義から
「妙法蓮華経は我が己心にあり」と信じることは"私は必ず幸せになれる""私は必ず一生成仏できる"と確信することです。そして"自分も友も幸せになれる。だから友に語っていこう"と、広宣流布の戦いに打って出る信心です。(中略)
「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生ききるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、"いかなる苦難も乗り越えていける""断じて幸福を勝ち取っていくことができる"との大確信で、全てに向かって勇敢に挑戦していくことです。
「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現していけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があります。(『一生成仏抄講義』)
◇研さんのために
○…『一生成仏抄講義』(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第1巻、「一生成仏」(同)
☆親が子に語る物語 雪山の寒苦鳥 2017年8月27日
◇やるべきことをすぐに実践しよう!
むかし むかしのインドのおはなしです。一年じゅうふかい雪におおわれた雪山に 寒苦鳥という名の おすとめすの鳥がすんでいました。巣をもたない宿なし鳥でした。
なぜ宿なしか といえば、いつまでたっても巣をつくりはじめなかったから。ただ、それだけでした。
ここ雪山では、夜があけると、一面のまっ白な雪が朝日にてりはえて、たいそう美しい銀世界となります。
お昼ごろになれば、いよいよ ぽかぽかあたたかく、鳥たちもゆかいにさえずり、たわむれるのでした。
ところが、夜のさむさといったらありません。
この夜も、「ごおぅ、ごおぅ」という地ひびきとともにはげしい雪がふりつづけていました。
天からも地からもふぶき、だれも目などあけていられません。
宿なしの寒苦鳥たちは、目をぎゅっとつぶり、からだをよせあい、さむさをしのいでいました。
「さむくて さむくて こおっちゃう。こおっちゃったら しんじゃう」
めすどりは、息もたえだえに うたい鳴きます。
すると、おすどりは、それにこたえるように、「もうすぐ もうすぐ 夜があける。夜があけたなら 巣をつくろう」と、うたい鳴くのでした。
2わの寒苦鳥は、そうやって一晩じゅうくりかえし くりかえし鳴きつづけました。
やがて、夜明けをむかえました。
いきをのむような みごとな朝やけが あたりをそめあげ、ここ雪山の一日のはじまりです。
寒苦鳥たちにとっては、まちにまった巣づくりの朝が やってきたのです。
ところが——。2わの寒苦鳥は、なかなか、うごきだしません。さむくてねむれなかったので、うとうとしているのでしょうか。
そうこうしているうちに、お日さまは、どんどん高くのぼりつづけ、とうとう まうえにあがりました。
明るい ぽかぽかのひざしが 2わのからだをつつみこみます。ゆっくりとはねをひろげ、寒苦鳥たちは、そらへと飛び立ちました。
やっと巣づくりのスタートです。と、おもいきや、2わは くちばしでつつきあい、たのしそうに たわむれているではありませんか。
夜のさむさを すっかりわすれてしまったのでしょうか。あそびほうけているばあいではありません。また、すぐに夜は やってくるというのに。
耳をすますと、おすどりののんきなうたごえが きこえてきました。
「やだね やだやだ 巣づくりなんて。どうせそのうちしぬんだもん。はやけりゃ きょうか明日か あさってか」
こうして、また、こごえる夜をむかえました。2わは、じゅんばんにすすりなき、夜があけたら明日こそ巣をつくろうとおもいました。
そして、朝をむかえると、巣づくりなんてどこへやら。
やはり あそびほうけてしまい、またまた、日がくれて……と、いくつもの朝と夜がとおりすぎました。
そして、ある夜。いつにもまして、はげしいふぶきが けむりのように雪山じゅうをつつむなか、2わのなきごえがきこえてきました。
「さむくて さむくて こおっちゃう。こおっちゃったら しんじゃう」
「もうすぐ もうすぐ 夜があける。夜があけたなら 巣をつくろう」
この夜も うたいつづけました。そろそろ朝日がのぼります。はたして、寒苦鳥たちは、巣をつくることができるのでしょうか。
◆ ◇ ◆
おうちの方へ
今回の物語は、「新池御書」などに出てくる「雪山の寒苦鳥」の説話を基にしたものです。
日蓮大聖人は「雪山の寒苦鳥は寒苦に責められ、夜が明ければ巣を作ろうと鳴くけれども、日が出ると朝日の暖かさに眠って忘れてしまい、また巣を作らずに一生むなしく鳴くのである。全ての人々も、このようなものである」(御書1440ページ、通解)と、仏道修行をなおざりにする人間も、この鳥と異ならないと教えられています。
人間は、苦しい状況にある時は、二度と苦しまないように努力しようと決意します。しかし一度、楽になると、苦しかったことを忘れて努力しなくなる傾向があるようです。
やるべきことを後回しにせず、その時に、きちんと終わらせていくことの大切さを確認していきましょう。