後継の友と一緒に
中継行事に参加しよう。
学会家族で協力し合い
万代の発展の基盤を!
黄金の思い出を共々に!
当体義抄送状 P519
『経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す」云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり』
☆女性に贈ることば 九月八日
「声美人」「手美人」という言葉があるが、お母さんの声、お母さんの手ほど美しいものはない。
子どもをあやし、子どもを呼ぶ母の声。おむつを換え、ご飯をつくり、服を着させる母の手。「母の声」「母の手」に守られて、人は皆、大人になっていく。
母の声が世界を結び、母の手が平和へとつながっていく時、どれほど美しい地球になることであろう。
☆今日のことば365 九月八日
人生の風雪を刻みつけた人の顔は美しいという。たとえ幾歳になろうとも、磨きぬかれた木目のように、厳しさに耐えてきた美しさは、立派な風格となって輝きを増すものである。
☆希望航路 池田先生と進む人生旅 スイス1 2017年9月2日
◇苦労した分 幸せになれる
池田先生とSGIの同志の出会いをつづる「希望航路」。今回は、先生が6度訪問したスイスに輝く師弟のドラマを紹介する。
池田先生が、スイスに第一歩をしるしたのは、1961年10月16日。ジュネーブでチューリヒ行きの飛行機を待つ間、スイス広布の一粒種である婦人のサキ・ブローさんらに励ましを送った。『新・人間革命』「歓喜」の章には、その場面が描かれている。
山本伸一は語る。
「あなたは人一倍、苦労をされてきた。その人こそ、誰よりも幸せになっていけるし、みんなを幸せにしていく、最高の資格がある人です。それが仏法の原理です」
ブローさんは、この日の激励を生涯の宝として、広布の礎を築いた。今日のスイスSGIの発展は、一婦人に対する先生の激励から始まったのである。
先生は、63年1月にジュネーブを再訪し、教学試験と座談会に出席。64年10月には、冷戦下の社会主義諸国(チェコスロバキア〈当時〉、ハンガリー)を訪問した後、チューリヒへ。3年後の5月にもチューリヒで青年部を激励している。
そして、5度目の訪問となった83年6月。この時、先生との出会いを結んだ友は今、壮年・婦人部のリーダーとして広布の中核を担っている。
チューリヒの空港に到着した先生に、歓迎の花束を贈ったアンヌ=マリー・チャボルドさん(婦人部長)もその一人だ。彼女は、「当時はまだ若く、信心の確信は、それほど強くありませんでした」と述懐する。後日の懇談会で、その思いを先生に伝えると、力強い声が返ってきた。
「『疑い』があるのは普通だよ。大切なのは、『疑い』に勝つほどの題目をあげていくことだ。心配ない。必ず実証が出るよ」
この先生の言葉が、信心の土台となっていったのである。
彼女の出身国は、地中海の東岸に位置するレバノン。同国出身の父とスイス出身の母のもとに生まれた。
レバノンでは75年に内戦が勃発。キリスト教徒とイスラム教徒・パレスチナ人の連合勢力との争いに、シリアやイスラエルなどが介入し、15年間、紛争が続いた。
勃発時、彼女は19歳だった。パレスチナ人の収容所が砲撃を受けた際、付近にあった一家のアパートも被弾。生命の危機が迫り、母、きょうだいと地下室に身を潜めた。避難した山中で、軍人の父に助けられ、命からがら、母の祖国スイスに亡命した。
つらかったのは、軍人としてレバノンに残る父との別れだった。内戦は、大切な家族の絆をも引き裂いた。
彼女は言う。「もともと、私の家族はギリシャ正教を信仰していました。でも、キリスト教とイスラムの争いに直面する中で、平和を実現できる他の宗教を求めるようになっていったのです」
彼女が仏法に巡り合ったのは76年。先に入会した兄の勧めで弟と信心を始め、翌77年には母も入会した。
度重なる苦難も、信心で乗り越えてきた。彼女と弟は、結核を患い、経済苦も深刻に。治癒した彼女は百貨店で働き、弟の療養や家計を支え、職場の同僚や上司に弘教を実らせていった。
80年春、彼女は、数人のメンバーと共に、SGIの研修で訪日。東京の宿舎に着くと、部屋のテーブルの上に一枚のカードが。
「ウェルカム トゥ ジャパン(ようこそ、日本へ)。ダイサク&カネコ イケダ」と。真心こもるメッセージが、長旅の疲れを癒やしてくれた。
彼女は、「先生と奥さまの慈愛に触れ、師匠とは、これほどまでに温かいのかと感激しました」と振り返る。
この前年、先生は会長を辞任。悪辣な宗門僧らによる迫害の渦中にあって、先生は、スイスの友を神奈川で迎え、ピアノを弾いて励ました。
感謝の思いを込め、スイスの友は民謡を披露する。彼女は語る。「私たちの歌は、お世辞にも上手と言えるものではありませんでした。それでも、懸命に歌う私たちに、先生は拍手喝采で応えてくださいました」
81年には、彼女の母が、SGI研修で日本へ。母は懇談会の場で、先生に、「夫に信心をさせたいと思っています」と、決意を伝えた。当時、父はまだ、軍人として、レバノンにいた。
スイスの地に父を呼び、家族全員で暮らしたい。一家和楽の信心に励みたい。それが、母子の願いだった。
先生は語った。
「家族が一遍に信心をすることも素晴らしいけれど、家族が後から次々に入会すれば、喜びが二度も、三度も味わえます。諦めずに挑戦を続ければ、祈りは成就しますよ」
先生の言葉通り、母子の祈りは2年後に実現する。父が軍を退役し、スイスへ。85年には、信心を始めた。
第2回スイスSGI総会(89年6月)には父も参加。お気に入りのネクタイを着けて意気込む父に、先生は「素晴らしいネクタイですね」と声を掛けてくれた。一家にとって、生涯忘れ得ぬ「宝の思い出」である。
83年6月12日、先生は、次なる訪問国スペインに向かうため、チューリヒのホテルを出発した。その際、ロビーにいたチャボルドさんと弟のフランソワさんを激励している。
フランソワさんが、"大学に進むべきでしょうか。それとも働くべきでしょうか"と尋ねると、先生は「甘えを排して、心を鍛えるという意味では、社会に出て働くこともいい経験だよ」と言って振り返り、「お姉さんはどう思う?」とチャボルドさんに聞いた。
「まずは大学に行って勉強し、社会に出る力を付けてもらいたいです」と答えた彼女。先生は膝を打ち、「その通りだ! 最初からお姉さんに聞くべきだったなあ」と語ると、笑顔が広がった。
先生は「お姉さんの言うことをよく聞いて、信心に基づいて判断していくんだよ」と語り、弟を励ました。
先生の出国を見送った後、感謝の手紙をしたためた彼女に、先生からの伝言が届いた。
「誠実なお手紙、ありがとうございます。あなたと弟さんが、勇気をもって人生を歩んでいけるように、祈っています」と。
その後、弟はジュネーブ大学法学部を卒業し、司法試験に合格。ジュネーブで法曹として活躍している。
チャボルドさんも、チューリヒ大学に進学し、教育学とフランス文学・言語学で二つの修士号を取得。現在は、中学・高校でフランス語を教えている。
スイス広布の一粒種となったサキ・ブローさんをはじめ、草創期を駆けた婦人部の友。後継のバトンを手に広布の道を走るチャボルド婦人部長は、未来への展望をこう語る。
「スイス婦人部は、皆が師匠を心に抱き、縁する人を幸福に導いていきます。そして青年部を育成し、家族のように仲の良い団結で、広布の大城を築いていく決意です」