2017年9月25日月曜日

2017.09.25 わが友に贈る

◇今週のことば
信心は「勇気」だ。
戦いは「勢い」だ。
満々たる生命力で
語りに語ろう!
「声仏事を為す」と。
2017年9月25日


富木入道殿御返事 P956
『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』

☆女性に贈ることば 九月二十五日
信頼できる人、頼れる人、何でも相談できる人−−そういう人をもち、自分もそういう人になる。その人は幸福である。

☆今日のことば365 九月二十五日
長い歴史の積み重ねによって、築かれてきたものも、失うのは一瞬である。しかし、ひとたび失ったものを、元にもどすには、築いてきたと、おなじ歴史の経過が必要とされるにちがいない。

☆御書の解説 「秋季彼岸勤行法要」のために 2017年9月19日
◇拝読御文
『このほどよみ候御経の一分をことのへ廻向しまいらせ候、あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候いし、妙荘厳王は二子にみちびかる、かの王は悪人なり、こうへのどのは善人なり、かれにはにるべくもなし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経』上野殿御返事P1507

◇本抄について
流罪地・佐渡から鎌倉へ御帰還後、身延に入られた直後の日蓮大聖人のもとへ、南条家から御供養の品々が届けられました。本抄は文永11年(1274年)7月26日、その返礼として認められたお手紙であり、若き南条時光との再会の喜びをつづられています。
時光の父・南条兵衛七郎が亡くなった時(文永2年)、時光は7歳の少年でした。以来、9年が過ぎ、立派な青年に成長したその姿に、大聖人は兵衛七郎の面影や人柄を偲ばれたのでしょう。この時に、兵衛七郎への追善の読経をされています。
大聖人は本抄で、子に導かれて仏道に入った妙荘厳王の故事を引かれ、兵衛七郎と残された一家が成仏の軌道に入っていることは間違いないとたたえられています。

◇回向
日蓮大聖人は拝読御文で、御自身の読誦した法華経の功徳の一分を故・南条兵衛七郎に廻向(=回向)したと仰せです。
大聖人は続けて、子息の南条時光が、亡き父の信仰を受け継いでいることについて、"あふれる涙をぬぐうことができない"とたたえられています。時光が信仰を実践していることも、亡き父への追善となることは言うまでもありません。
ここで回向とは、"回らし向ける"こと、すなわち自身が仏法を実践・修行した功徳を、他の人々へ手向けることです。また追善とは、故人に対して、故人が生前に積んだ功徳に追加して、遺族などが功徳を回向することをいいます。
御書に照らせば、回向とは、�法華経(その真髄である南無妙法蓮華経)を信じ実践する功徳によって可能であること�その功徳は自身が関わる全ての人に手向けられるものであること、が明らかです。
過去の一切の諸仏・菩薩が妙法への信によって成仏の境涯を開いてきたように、私たち自身も妙法を実践することで境涯を開き、偉大な功徳をわが身に具えることができます。その功徳を故人に回らし向けていくのが、日蓮仏法における「追善回向」です。
大聖人は「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」(御書1429ページ)と仰せです。追善回向の本義は、私たち自身が御本尊を信じ、信心に励んでいくことにあります。
大聖人の御遺命である広宣流布へ行動しているのは、創価学会以外にありません。
勤行・唱題をはじめとする、広布を願っての信心の実践こそ、故人に対する最高の追善回向となるのです。

◇妙荘厳王
御文で言及されている妙荘厳王は、法華経妙荘厳王本事品第27に説かれる故事の中に出てきます。故事のあらすじは次の通りです。
——無量無辺不可思議阿僧祇劫というはるか昔に、浄蔵・浄眼という2人の王子がいました。
この2人は、雲雷音宿王華智仏のもとで菩薩行を修して覚りを得ました。
2人は、雲雷音宿王華智仏から法華経の説法を聞いて歓喜し、母である浄徳夫人に"共に仏の所に詣でましょう"と勧めました。
しかし、母は、まずバラモンの教えを信奉している父・妙荘厳王を仏教に帰依させるよう勧めます。
浄蔵・浄眼の2人は、父王の前で、さまざまな神通力を現じました。
この神通力に感心した父が、師はだれかと問い、浄蔵・浄眼が雲雷音宿王華智仏であることを告げたところ、父王は、夫人だけでなく多くの眷属を引き連れて仏の前に詣で、王と夫人は多くの眷属らと仏道を行じて成道を果たすことができたのです。
この故事が示すように、たとえ父が(仏道に励んでいなかった)悪人であっても、子の信心で救うことができます。まして時光の父は、日蓮大聖人に帰依して善根を積んでおり、成仏は間違いありません。
大聖人は、亡き南条兵衛七郎の功徳が妙荘厳王と比べようもないほど大きいこと、"親子一体の成仏"は間違いないことを教えられています。

◇謗法への布施を止めよ
●御聖訓 "悪に供養すれば悪道へ"
日顕宗は、"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない""塔婆を立てないと追善回向できない"等と主張していますが、これは御書のどこにも説かれていない全くの邪義です。
日蓮大聖人は「四条金吾殿御書(盂蘭盆由来御書)」で、堕落した僧侶を「食法がき」(御書1111ページ)と痛烈に破折されています。
日顕宗の坊主は「お経回り」と称して檀家を回り、僧侶の読経をありがたいものだと思わせては供養を稼いでいます。
また、塔婆や戒名を"金もうけの道具"にするなど、仏法を利用して供養集めをしています。そうした姿こそ「食法餓鬼」そのものです。
日顕宗は広布を破壊し、大聖人に違背する大謗法の邪宗です。大聖人は「真心からの供養であっても、悪への供養であれば功徳とならず、かえって悪道に堕ちてしまうことになる」(同1486ページ、趣意)と仰せになり、謗法への供養を戒められています。
日顕宗に塔婆供養などを頼めば、謗法の与同罪で功徳どころか罰を受けてしまいます。日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となり、かえって自身が悪業を積むことになるのです。

◇池田先生の指針から
信心は、どこまでも「現当二世」で進んでいかねばならない。ゆえに、たとえ家族に先立たれたとしても、残された家族は"遺族"というよりも、"後継者"との自覚を深くもつべきである。信心を継承し、亡くなった人の分までも、希望をもって妙法流布のために生きぬいていく——故人への追善回向をしつつも、そこに"後継"への思いを新たにしていくべきである、と私は思う。
墓参といっても、世間一般のいわゆる過去に向いたものではなく、三世永遠の生命観に立って、力強く未来を志向していくものでありたいものだ。(『池田大作全集』第69巻)
◇ ◆ ◇
七歳の時に日蓮大聖人にお会いしたとされる南条時光は十六歳から、師のもとで直々の薫陶を受けた。
大聖人は、亡き父の信心を立派に継承する時光の姿を讃えられ、こう仰せになられた。
「あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候いし」(御書1507ページ)と。
門下の子弟を皆、わが子の如く慈しみ、育んでくださる。
これが大聖人の御心であられた。(『随筆 対話の大道』)

☆池田華陽会御書30編に学ぶ 一生成仏抄(下) 2017年9月9日
◇唱題こそ生命変革の根幹の実践
今月は「一生成仏抄」の後半を研さんします。池田先生は、つづっています。
「『自身』が変われば『世界』が変わる。
『我が一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです。これが『人間革命』です。
そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に開き顕していくことができます」
今回は、生命変革の根幹の実践である"唱題行のあり方"を学んでいきましょう。(拝読範囲は、御書383ページ15行目「之に依って」〜384ページ本抄末尾)

◇本抄について
本抄は、御執筆の年次や宛先は不明ですが、立宗から間もない建長7年(1255年)に認められ、富木常忍に与えられたと伝えられています。
題号の「一生成仏」とは、凡夫が、この一生のうちに成仏するということです。本抄では、日蓮大聖人の仏法の根幹である唱題行の意義について、法理と実践の両面から明らかにされ、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行こそが、成仏の直道であることを示されます。

◇御文
『又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり』(御書384ページ1行目〜5行目)

◇通解
また、浄名経には「人々の心がけがれれば、その人々が住む国土もけがれ、人々の心が清ければ国土も清い」とある。すなわち、浄土といっても、穢土といっても、二つの別々の国土があるわけではなく、ただそこに住む私たちの心の善悪によって違いが現れると説かれているのである。
衆生といっても仏といっても、またこれと同じである。迷っている時には衆生と名づけ、覚った時には仏と名づけるのである。たとえば、曇っている鏡も磨いたならば、輝く玉のように見えるようなものである。
今の私たちの一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どのようにして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである。

〈解説〉"持続の信心"で幸福の土台を
日蓮大聖人の仏法は、生命変革の仏法です。
掲げた御文で大聖人は、浄名経を引かれ、仏の住む清らかな国土である「浄土」と、けがれた国土である「穢土」は、別々の世界ではなく、そこに住む衆生の「心の善悪」によって、この違いが現れると仰せです。
そして、同じように、「衆生」と「仏」といっても別々の存在ではなく、一人の人間における「迷い」と「覚り」の生命状態の違いであることを教えられています。
この「迷い」を「覚り」へと転換することができるのが、「南無妙法蓮華経」の唱題行です。題目を唱え、自身の生命を変革することによって、周りの環境をも変革し、あらゆる悩みや苦難も幸福の方向へと開いていくことができるのです。
この自身の生命を変革する唱題行を、大聖人は鏡の譬えを通して示されています。
曇ってものを映さない鏡も、磨けばものをはっきりと映します。同じように、無明という根本の迷いに覆われた生命(磨かざる鏡)も、南無妙法蓮華経の唱題行に励むことによって、仏の覚りの生命(明鏡)へと輝かせていくことができると述べられています。
私たちは日々の勤行・唱題の実践によって、自身の生命を磨き、本来持っている無限の力を自在に発揮することができるのです。
この唱題行を実践していく上で大事なことが二つあります。一つは「深く信心を発して」と仰せのように、強く信心を起こすことです。
現実の悩みに真正面から向き合い、「この信心で必ず乗り越えてみせる!」と腹を決めて勇んで祈り抜く姿勢が重要です。
もう一つは、「日夜朝暮に又懈らず磨くべし」と仰せのように、持続することです。
御聖訓に「苦楽ともに思い合せて」(御書1143ページ)とあるように、苦しい時も、楽しい時も、日々たゆみなく唱題に挑戦していくなかで、何があっても負けない絶対的幸福境涯を築くことができるのです。
池田先生は、本抄の講義でつづっています。
「唱題行によって生命を根底から鍛えれば、心はいくらでも深くなり、生命はいくらでも強くなり、境涯はいくらでも広くなります」
友の幸福を祈り、勇気の対話に挑戦し、地涌のスクラムを大きく広げていきましょう!

◇池田先生の講義から
唱題は、まず「勇んで為す」という挑戦の心が大切なのです。それは「深く信心を発す」との大聖人の教えのままに、「我が己心の妙理を呼び起こすことができる」「我が生命に本来具わる仏界を現すことができる」「必ず一生成仏できる」という、生命の奥底からの信を起こしていくことでもあると言えます。
それはまた、題目を唱えることを妨げる三障四魔との戦いに立ち上がっていくことでもあります。紛然と競い起こる障魔に、恐れることなく、倦むことなく、退くことのない挑戦の心が大切なのです。
挑戦し、戦って、無明を打ち破ってこそ、生命を磨くことができるからです。
◇ ◆ ◇
題目は「前進」の力です。題目は「勝利」の力です。あらゆる戦いは、まず祈ることから始まります。(中略)
私たちは、どこまでも日夜朝暮にたゆまず題目を唱えながら、我が生命を鍛え抜いて、勝利また勝利の人生を築き上げていこうではありませんか。
(『一生成仏抄講義』)

◇研さんのために
○…『一生成仏抄講義』(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第1巻、「一生成仏」(同)
○…『信仰の基本「信行学」』、「現代に菩薩行を貫く 学会の『行動』」(同)