2017年8月5日土曜日

2017.08.05 わが友に贈る

友情こそ人生の宝!
帰省等の機会に
親戚や旧友と交流を!
直接会って語れば
心は強く結ばれる。

上野殿母御前御返事 P1570
『東西南北八方並びに三千大千世界の外四百万億那由佗の国土に十方の諸仏ぞくぞくと充満せさせ給う、天には星の如く地には稲麻のやうに並居させ給ひ、法華経の行者を守護せさせ給ふ事、譬えば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し』

☆女性に贈ることば 八月五日
自分が変わった時、環境も劇的に変わる。それが「人間革命」の法則である。
断じて負けない! 絶対に勝ってみせる! そう一念を定めた時、あらゆる困難は、人間革命のためのバネとなり、わが生命を荘厳する宝となる。

☆今日のことば365 八月五日
目標や計画は、少しがんばれば達成できる程度のものにすべきです。限界にいどむ意欲は尊いとしても、それではいつか息切れしてしまうものですし、まして能力を越えるものであれば、最初の一日や二日はなんとか実行できても、長く続くはずがありません。

☆魂のバトンを君に 池田先生と後継の友 北陸 2017年7月27日
◇「誓願」を果たす「勇気」を!
夏が来るたび、北陸の同志の心は燃える。弘教に、友の激励に、教学の研さんにと、大いに汗を流す季節にしようと胸を躍らせる。
夏には、幾重にも、師との金の思い出が刻まれているからだ。
北陸が総支部(当時)となって初めて池田先生を迎えた幹部会は、1963年(昭和38年)8月14日、富山市で行われた。
64年(同39年)7月には石川・富山両県に初の会館となる金沢会館、富山会館が誕生し、それぞれの開館式に先生が駆け付けた。
富山の高岡市民体育館に北陸の同志約4000人が集い、先生と共に記念のカメラに納まった67年(同42年)8月14日。熱暑の中、ワイシャツの袖口から汗をしたたらせながらマイクを握り、一人一人に励ましの声を送り続けた師の姿を、友は忘れない。
「先生が『北陸の歌』を作ってくださった!」——吉報が駆け巡ったのは、78年(同53年)8月9日である。翌10日付の本紙に、「ああ誓願の歌」の歌詞と譜面が掲載されると、「まるで太陽が赤々と昇りゆくような曲だ!」と、北陸中に感動が広がった。
宗門事件の嵐を越えて、82年(同57年)9月8日、池田先生が名誉会長就任後初となる北陸指導の足跡をしるす。6日間の激励行の中で出会いを結んだ同志は2500人以上。友に贈った書は60枚、詠んだ句や和歌は42首にも及んだ。石川県では、衝立に50センチ四方の大書で「誓」と、富山県では、色紙に躍るような筆で「師弟不二」と認め、共戦の魂をとどめたのである。
そして84年(同59年)夏——北陸の創価家族にとって永遠の原点が築かれる。10度目の北陸指導は池田先生の入信記念日の前日、8月23日から幕を開けた。
◆◇◆
「明日は、予定を変更しよう。北陸の青年たちと会おう!」
池田先生からの突然の提案に、同行の幹部は目を丸くした。8月23日、富山空港に到着した池田先生を乗せた車が富山文化会館に向かう途次のことである。
3日後に控えていた「第1回北陸平和文化祭」に向け、青年部の成長ぶりを聞いた池田先生は、未来を担う若人たちとの語らいの場を求めた。同行の幹部の話によれば、24日は、文化祭の本番に備えて、練習を休みにしているという。
明日しかない——池田先生は、当初予定していた富山研修道場への訪問を、一日ずらした。「明日は、大事な日だから」。北陸生まれの戸田城聖先生を師と仰ぎ、広宣流布の長征を開始した自らの入信記念日「8・24」を、後継の青年たちに"魂のバトン"を託す日と決めたのである。
「北陸青年部勤行会」開催の報は、電光石火、瞬く間に伝えられた。
当時、男子部として最前線で奔走していた大門敏明さん(副本部長)も、連絡を受けた一人である。
「『青年部だけの勤行会ですか!?』と、思わず聞き返すほどびっくりして……開催の日が『8・24』と聞き、青年部に対する先生の並々ならぬ思いが感じられてなりませんでした」
迎えた勤行会当日。富山文化会館で待つ師のもとへ颯爽と馳せ参じた北陸青年部の代表は300人。文化祭の準備による疲れなど微塵も感じさせない、晴れやかな顔だった。
連日にわたる屋外練習のためだろう。皆、こんがりと肌が焼けている。それがまた"青春の勲章"ともいうべき輝きを放っていた。
池田先生を導師に、勤行が始まった。
声が違う。迫力が違う。ある参加者は、こう振り返る。「御書に『蒼蠅驥尾に附して万里を渡り』(26ページ)とありますが、まさに力強く走る駿馬にしがみつく思いで先生の声に唱和しました。勤行の姿勢を教えていただいた思いです」
池田先生は懇談的に話を進めた。
時折、ユーモアを交えながらも、恩師の話を口にする時の目は鋭さを増す。
「戸田先生は、青年の力を信じてくださった。私を軸として広宣流布を託せる青年を育て、あとは楽しく生きたいと語っておられた。そして、その通りになった。戸田先生の確信に間違いはなかった」
そして、力強く訴えた。「一切は青年で決まる。逃避も諦めも悲観も乗り越えて、地道に懸命に伸び伸びと生き抜くことだ」「北陸で生まれ育って、学会で育まれて、成長してきた君たちだ。愛する北陸を皆で発展させよう!」
大門さんは、この時、悩みの渦中にあった。第1次宗門事件の嵐が吹き荒れていた79年(同54年)7月、母が信心から離れてしまったのである。
しかし「負けてはならない!」との師の渾身の励ましに触れ、心を定めた。「この一生を懸けて乗り越えてみせる!」
"生涯の戦友"に恵まれる。「北陸青年部勤行会」の翌年、看護師のそよ美さんと結婚。2人の娘も授かった。
一方で、同居の母とは信心のことで、何かと気まずい関係に。夫妻は祈り続けた。やがて長女・有紀子さん(女子部本部長)は、そよ美さんに続いて看護の道へ。次女・瞳さん(副白ゆり長)は、創価大学に進学した。
転機は2007年(平成19年)の暮れ。母が倒れ、在宅介護が始まった。ふさぎこむ母。そよ美さんと有紀子さんを中心に、懸命の介護を続けた。
母の胸奥を揺さぶったのは、長年の一家の祈りか、変わらぬ家族の真心か。母は、悔恨の情を伝え、学会の信心に戻ることを決めたのである。「その日以来の母の晴れやかな表情は、今も忘れられません」と一家は口をそろえる。
母は12年(同24年)、安らかに霊山へ旅立った。一家に、信心への一層の確信を贈りながら。それは、親から子へと信心のバトンが継承される中で生まれた、一家和楽の劇でもあった。

「あっ! 虹! 虹!」
誰ともなく声が上がる。1984年(昭和59年)8月26日午前、「第1回北陸平和文化祭」の会場となった石川県西部緑地公園陸上競技場の上空を、皆が一斉に仰ぎ見た。
北陸創価学会として前代未聞の規模である5万人の大文化祭。"5万人"は、この2年前に池田先生が呼び掛けた目標である。一人一人の同志のかつてない拡大によって実現した晴れ舞台を、諸天も祝福しているかのようだった。
開会40分前。競技場に到着した池田先生は息をつく間もなく、すぐさまフィールドへ。苦難を越えて誓いを果たし抜いた同志を、最大にたたえた。
午後2時、躍動のステージが開会した。能と長唄の調べによる連獅子の群舞が壮大に。石川県民謡「山中節」、五箇山民謡「といちんさ」、さらには「能登船漕ぎ唄」等、郷土愛あふれる演目が続く。
約1時間半に及んだ、絢爛たる人間文化の絵巻。グランドフィナーレでは、北陸の歌「ああ誓願の歌」の大合唱が響き渡った。
「この歌声が聞きたかったのだ!」——後に池田先生は、その時の心情を綴っている。「私は何よりも嬉しかった」「初代、二代、三代と貫き通してきた創価の『勇気』を、そのまま受け継いだ北陸の友の心の響きが凝結していたからだ」
運営役員に就いた五十嵐瑞夫さん(副本部長)も、勇気の炎を燃やした。1916年(大正5年)から続く国産牛肉卸売専門会社の4代目社長である。
当時、不渡り手形をつかまされ、巨額の負債を抱えていた。それでも支部長として一歩も引くことなく戦った。「ワシの名前が五十嵐やから、支部で『五十』世帯の折伏をやったる」と決め、見事に達成。
文化祭の練習でも未来部の送迎を買って出た。皆、おなかをすかせた子どもたちである。五十嵐さんの家計も火の車ではあったが、彼らにそっと菓子パンや飲み物を渡したことも。「だけど中には、『これ、お母さんにあげるんだ』と言って、家に持って帰った未来部もおってなあ……」
妻・瑠美子さん(婦人部副本部長)も文化祭の舞踊担当として奮闘した。
嵐に揺るがぬ信心は、子どもたちに受け継がれた。長男・晴夫さん(ニュー・リーダー)は病で視力を失うが、その"負けない姿"を通して周囲に勇気と希望を送り続ける。
三男・直樹さん(男子部本部長)も腓骨神経麻痺に襲われるが、地域の男子部の熱意に触れて学会活動を決意。病を乗り越えた。また、代々続いてきた父の会社を守りたいと、徹して食肉の基本を学び抜いた上で就職。今、品質管理室の室長を務める。
会社は、インターネットを駆使した販路拡大が奏功し、経済苦も克服。五十嵐さんは、石川県小松市に自身の名を冠した個人会館を建て、地域広布に力強く貢献している。
◆◇◆
来月、石川と富山それぞれの地で行われる創価青年大会に向け、北陸の同志は歌声も高らかに勇み進む。
「『誓願』を果たすためには、『勇気』がいる。その勇気の究極の源泉こそが、創価の師弟の精神なのである」と池田先生。
魂の継承の証しを打ち立てる、誓いのステージを!——北陸に、勇気の心が燃える夏が来た。