この夏に取り組む
新たな挑戦を決めよう!
目標を定めることが
勇気と変革の一歩に!
大充実の一日一日を!
松野殿御返事 P1386
『とても此の身は徒に山野の土と成るべし惜みても何かせん惜むとも惜みとぐべからず人久しといえども百年には過ず其の間の事は但一睡の夢ぞかし』
☆女性に贈ることば 七月二十七日
「使命がある」ことと「使命を自覚する」こととは違う。自覚 しないままに、自分をダメにしては、あまりにももったいない。使命を自覚すれば、無限の活力が湧く。
☆今日のことば365 七月二十七日
人生には、あまりにも仮面者が多い。真実を尊しとしてゆかねばならぬ、特に青年は。一生、真実を追究してゆく人は偉大なる人だ。
☆負けじ魂ここにあり わが生命の学園生第2回 東京校 1970〜72年度 2017年7月20日
自分の決めた目標へ
努力する姿勢が大切です。
結果は後からついてくる。
1970年4月。開校以来、3度目の春を迎えた創価学園は、中学1年生から高校3年生までの6学年がそろい、一段とにぎわいを見せていた。
初めての卒業生を送り出す、この年度からの3年間も、創立者の池田先生は、激務の合間を縫ってはキャンパスを訪れ、時に一緒に食事やスポーツをしながら、一人一人の近況に耳を傾け、心の絆を結んでいった。
◇最高の親孝行を
草創期、先生は夏などの長期休みが迫ると、寮生や下宿生に「茶葉」を渡して激励した。
その際、作家・吉川英治が『三国志』につづったエピソードを紹介している。
——若き劉備玄徳が、旅先で郷里の母にお茶を買って帰る。母はその孝心を一度は喜ぶも、お茶を持ち帰るために、父の形見の剣を人に与えてしまった劉備を厳しく叱る。"いつか、人々のために立つべき時がくることを忘れてはならない"と。その母の厳愛に、劉備は自身の使命を強く深く自覚する——
この母子のドラマを通して、先生は言った。
「お茶はその昔、とても高級品だったんだ。帰省したら、お父さんとお母さんに差し上げてください。将来は、ご両親が誇れる立派な人に成長するんだ。このお茶は最高の親孝行のしるしだよ」
中立一克さん(高校3期)が、先生からのお茶を手にしたのは、第3回栄光祭が行われた70年7月17日。親元を離れ、初めて迎える夏休みの直前だった。
当時、大阪の実家には、子どもを東京の私立校に送り出す余裕など全くなかった。父は病のために転職したばかり。母がパートで家計を支えていた。
1、2年次に下宿生だった中立さんは、食費を確保することもままならなかった。冬は寒さに耐え、手袋をしながら鉛筆を持ち、机に向かった。
「自分が必ず一家の経済革命を成し遂げるんだ——その思いで、懸命に勉学に取り組みました」
苦労の末、卒業後は京都大学薬学部へ。医薬品メーカーに就職し、東京支社長まで勤め上げた。
「新茶の季節には、今でも時折、実家の両親にお茶を送ります」と中立さん。先生から教わった親孝行の心が社会で勝ち抜く原動力になった。
◇世のため光れ
「大変遅くなって、すみません」。70年9月9日の放課後、先生が体育館に入場すると、割れんばかりの歓声と拍手が響き渡った。
通学生の集いである「潮流会」の第1回総会である。
通学生が創立者を囲んで過ごす待望のひととき。開催が決まってから、皆、大喜びで準備に当たってきた。詩の朗読や合唱・演奏の練習に加え、愛唱歌も作成した。
総会は先生が参加者に質問を投げ掛けながら、和やかに進んだ。
「学校まで来るのに1時間以上かかる人は?」
「体が弱い人はいるかい?」
さらに話題は、将来の夢に。「科学者になりたい人!」。何人かが「はい!」と、元気よく手を挙げる。
教育者、飛行士、医師、実業家、法律家……。
矢継ぎ早の呼び掛けに次々と即答する学園生。その様子を頼もしそうに眺めながら、先生は「職業ごとの色紙に名前を書いて、後世に残しておこう」と提案。こう言葉を継いだ。
「目標は自分で決めることです。たとえ紆余曲折あって、できなかったとしても、自分の決めた目標に向けて努力する姿勢が大切です。結果は後からついてくる」
そして、通学生が練習に練習を重ねた演目を観賞。最後に、愛唱歌「友よ」と「潮流会歌」などを聴き、「上手だね。いい歌だね」とたたえた。
潮流会の中には、何時間もかけて学園に通い続けるメンバーもいた。
ある生徒は、無遅刻・無欠席に挑み、皆勤賞を受賞した。ある生徒は、通学時間を無駄にするまいと、電車内で何百冊もの本を読み抜いた。
彼らは今、若き日の誓いを胸に、自らが定めた使命の分野で黄金の輝きを放っている。
第1回の総会に際し、先生は記念の句を詠み贈った。
「友のため 世のため光れ 潮流会」
◇「学ばずは卑し」
学園の伝統は「学びの伝統」である。
70年12月20日、先生は学園生の代表との懇談の席上、「学ばずは卑し」との言葉を紹介した。
「社会で指導的な立場にある者として、また、時代の先端を行く人として、学ばないのは卑しいことだという意味です」
「真実の人間観を深く追求して生きる人の、一番正しい、一番偉大な言葉である」
参加者の一人で、寮生だった仲浩さん(高校2期)も、この一言を胸中深くに刻んでいる。
創価大学を経て、5年間、大手電機メーカーで"営業の基礎"を身に付けた。
やがて地元・大分県中津市に戻り、父が営む運送会社を手伝うようになってからは、地域の青年会議所で青年実業家たちと社会貢献の在り方などを探求してきた。
父の後を継ぎ、社長になって今年で22年。業績を飛躍的に伸ばし、従業員250人を抱える、県内屈指の企業に発展させた。現在は、中津商工会議所の会頭としても活躍する。
「向上の人生を歩むことができたのは『学ばずは卑し』との指針のおかげです」と仲さん。社会のため、地域のために何ができるかを常に考え、鍛錬を重ねる日々だ。
◇空飛ぶ王の如く
東京校の中央体育館の脇に立つ「青年と鷲」の像は、開校以来の学園のシンボルである。
この像に台座が設置されることになり、除幕式が行われたのは、71年5月22日であった。
先生が見守る中、白いハトが一斉に大空へ放たれ、白布が取り除かれる。巨大なブロンズ像の台座には「青年よ 新世紀の 英智と情熱の 指導者たれ」との言葉が刻まれていた。
集った新入生らに、先生は語り掛けている。
「鷲は、栄光を表す。諸君も、この"空飛ぶ王"のごとくに成長し、世界に羽ばたいてほしい。また、青年はひ弱であってはならない。たくましい根性、不壊の精神を鍛えていっていただきたい」
◇
71年3月の第1回卒業式以降、創立者の期待を背に、数多の学園生が小平の学舎から巣立った。
先生は、第1回と第2回は卒業記念の謝恩会に出席している。
晴れの門出を祝い、1期生に「『何のため』を忘れるな」、2期生には「正義の人であれ」とエールを送った。
初めて卒業式に出席したのは、73年3月の第3回である。自らの青春時代を振り返りつつ、こう期待を寄せている。
「生涯、求道者の姿勢を崩すことなく、それぞれの人間としての頂上を極めていっていただきたい」と。
求道の心を燃やし、わが人生の最高峰を目指す——永遠に変わらぬ学園魂が、ここにある。