2017年7月9日日曜日

2017.07.09 わが友に贈る

万里の外から
幸福を集める信心だ。
確信の祈りと行動で
和楽と安穏の園を
近隣・家庭に広げゆけ!

諸法実相抄 P1361
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』

☆女性に贈ることば 七月九日
目先のことばかりにとらわれて、あれこれと揺れ動く人生は、愚かである。
自分自身の胸中には、つねに充実という心の宮殿が輝いている--そんな、はつらつたる人生でありたい。

☆今日のことば365 七月九日
僕は 僕らしい一生をはばたくために
 悲しい日々も
決して 愚痴だけはいいたくない

☆誓いの天地 神奈川・川崎市中原区 2017年6月28日
◇愛する地域に青年の連帯を 広布の"心臓部"との誇り高く
神奈川県の北東部に位置する川崎市は、横浜市、東京の大田区・世田谷区・調布市・狛江市・町田市・稲城市・多摩市と隣接する。
また、目黒区や品川区などとも、電車一本で結ばれている。
今年4月、人口が150万人を突破。2009年(平成21年)の統計と比較して、川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区の七つの区全てで、人口が増加した。
その中でも、武蔵小杉エリアで、大規模マンションの建設が進む中原区は、人口が最も多い。街の発展と同時に、住民同士の交流が図られるなど、住みよい地域づくりの試みも進む。
金田美穂子さん(中原勇翔区、区女子部長)は、中原区で生まれ育った。
創価大学に進学し、就職活動では、目指していた食品業界を中心に回ったが、リーマンショックによる不景気の影響もあり、不採用が続いた。
それでも、"使命の職場に"と真剣に祈り続け、空調自動制御システムのメンテナンス会社から採用を勝ち取った。
"職場で光る存在に"と誓いを立て、入社。だが、「やりたい仕事」とは違う業務内容に思い悩んだ。
そんな時、白蓮グループにとの話があった。"今こそ、自身の人間革命に挑戦しよう"と決意し、仕事と活動の両立に挑戦した。
入社2年目、元請け会社に出向。仕事を与えてもらえない時期もあったが、誓いを思い返しては、目の前の仕事に全力を尽くした。
出向の2年間で、「リモートメンテナンス」と呼ばれる技術を身に付けた。当時、その技術を持っていたのは、金田さんだけ。
以来、どんどん仕事を任されるようになった。昨年には、全社員を対象とした会社の評価で、最高の評価を獲得した。
「最初の3年間は、つらい日々でした。それを乗り越え、社会で実証を示すことができたのも、多くの方々の励ましがあったからです」と感謝は尽きない。
昨年11月、区女子部長の任命を受けた。今、愛する地域を駆ける日々だ。
「大好きな中原の地に、華陽姉妹のスクラムを、さらに広げていきます」

山田邦昭さん(中原光城区、男子部本部長)は23歳の時、お笑い芸人を目指し、名古屋市から中原区へ。芸能の専門学校に入った。
一旗揚げることを夢見たが、5年間、鳴かず飛ばずの状態が続く。お笑いだけでは、生活は苦しかった。
相方とも、意見が衝突するようになった。言い争いを繰り返した末に、コンビを解消。失望の中、お笑いは諦めることにした。
高校卒業後に就いた仕事は5年で辞めた。芸人を辞めたのも5年。「宿業」を感じた。
"本気で信心しよう"。腹を決めた。その決意を、男子部の先輩が支えてくれた。毎日、2人で唱題し、御書の研さんに取り組んだ。対話にも挑戦し、人生初の弘教も実らせた。
その直後、アルバイト先の大手スーパーで、マネジャーを任されるように。信心の力を実感した。以来、毎年のように御本尊流布を達成。一昨年には、正社員として採用された。
「先日、新築一戸建ての家を購入できました。ここまで人生が開けるなんて想像もできませんでした」
創価班の一員として、学会厳護の任務にも徹する。
信心があれば、全部、功徳に変わっていく——その確信を胸に、きょうも友の激励に全力を注ぐ。

◇栄光の共戦譜
川崎は、池田先生が若き日から、幾度も広布の足跡を刻んできた師弟共戦の天地である。
1952年(昭和27年)2月、当時の支部における弘教の限界を打ち破った「二月闘争」。先生は大田区から多摩川のガス橋、丸子橋を渡り、川崎でも拡大の勢いを加速させた。
この歴史と共に、川崎の"永遠の原点"となっているのが、60年(同35年)5月3日だ。東京・日大講堂で行われた第3代会長就任式で、川崎支部(当時)は、設営等を担った。
就任式の終了後、川崎の友に届いた「川崎支部が会長にしてくれたようなものだね」との先生の伝言は、"川崎の誇り"と輝く。
91年(平成3年)12月15日には、先生は第1回「川崎文化音楽祭」へ。
「『偉大なる目標』に向かって『偉大なる人生』を生ききった人が、『偉大なる幸福』の人となる」と強調。"毅然たる信心を"と念願した。
この「12・15」は「川崎の日」として、その意義を留めている。

"誉れの原点"の中でも、あの「7月」を思い返すと、川崎の友、なかんずく中原の同志の魂は、熱く燃える。
91年7月20日。東京・千駄ケ谷の創価国際友好会館で、中原区の本部研修会が開催された。この会合に急きょ、先生が出席したのである。
「川崎は、今の10倍の力を秘めている。その可能性を存分に発揮していくならば、その鼓動と波動は、全神奈川、また東京にも伝わり、動かしていく」
参加していた片桐政義さん(中原光城区、副本部長)の五体は、深い感動に貫かれた。
「"自らが10倍の力を発揮するぞ"と誓ったことは、今も忘れません」
妻の喜久江さん(婦人部副本部長)は病弱で、結婚後、流産を3回繰り返した。健康になりたい一心で、58年(昭和33年)に入会。片桐さんも続いた。
入会後、喜久江さんは、見る見る元気になった。その喜びを胸に、夫婦で対話に奔走した。
研修会が行われた91年は第2次宗門事件の渦中。その嵐を勝ち越えた93年(平成5年)には、夫婦で学会の正義を語り抜き、20人以上の友を入会に導いた。
広布の情熱は、今も青年のごとく赤々と。片桐さんは一昨年、喜久江さんは昨年、弘教を実らせている。
長男の馨さん(副本部長)、次男の太さん(副支部長)、長女の河合利子さん(総東京婦人部長)は皆、使命の舞台で活躍。7人の孫にも、信心が受け継がれている。
山崎雄之さん(中原勇翔区、総区副総合長)も、本部研修会に集った一人だ。
54年(昭和29年)の入会。学会活動に駆け回り、縁する人に仏法を語り抜いた。
先生から数々の激励を受けてきた。74年(同49年)12月17日、所用で向かった川崎本部(当時)で偶然、先生との出会いを刻んだ。
「一緒に勤行しよう」と先生から声を掛けられ、山崎さんは、その場にいた4人の同志と一緒に、先生の後ろに座った。
勤行が始まってしばらくすると、鈴が鳴った。リズムが合わない。もう一度、やり直す。まだ、合わない。4回、繰り返した。
「勤行・唱題を根本として、"呼吸を合わせる大切さ"を先生に教えていただきました」
89年(平成元年)12月、長男を22歳の若さで失った。1カ月半後、先生から激励が。師の真心を抱き締め、妻の奈美江さん(区副婦人部長)と共に前を向き、一歩ずつ進んだ。
本部研修会は、夫婦にとって、新たな出発を切る節目になった。
「先生の励ましがあって、今のわが家がある。だからこそ、万代にわたって、山崎家は『創価の旗』を掲げ続けていきます」と山崎さんは力強く語った。
星野照慧さん(中原勇翔区、区副婦人部長)も喜び勇んで、本部研修会へ駆け付けた。
「二月闘争」のさなか、夫の美三郎さん(故人)が座談会に参加。家族全員で信心を始めた。
その後、美三郎さんは、旋盤業で独立。だが、仕事は軌道に乗らず、経済的に深刻な状況が続いた。
どんな試練が襲ってきても、星野さんは口癖のように「今こそ宿命転換の時」と語り、夫婦で信心の歩みを進めてきた。
苦しい生活は、少しずつ改善していった。92年(平成4年)、3階建ての自宅を新築することができた。
「父が亡くなったのは、今年4月。意識がない中で、最後の言葉は『南無妙法蓮華経』でした。信心を貫いた"父の心"を、家族全員が受け継いでいきます」。そう言って、長女のひろ子さん(婦人部副本部長)は、ほほ笑んだ。

池田先生は、川崎への期待をつづっている。
「川崎は、広宣流布の急所である」
「川崎は、神奈川だけでなく、東京、そして首都圏の"心臓部"でもある」
我らの「7月」に「広布の凱歌」を——「首都圏の"心臓部"」との使命に燃え、中原区と川崎総県の友は、勝利の波動を力強く広げていく。