2017年5月21日日曜日

2017.05.21 わが友に贈る

御聖訓「わたうども
二陣三陣つづきて」
後継の友よ立て!
善のスクラムを広げる
勇気の言論戦を!

日興遺誡置文 P1618
『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』

☆女性に贈ることば 五月二十一日
生まれてきたからには、幸福を勝ち取らねばならない。
断じて、不幸に負けてはならない。
若々しく希望の光に包まれた、貴女の闘争の力こそが、すべてを幸福に変えていくのだ。

☆今日のことば365 五月二十一日
決して自分だけで悩むな。よき友、よき先輩と何でも相談していくことだ。

☆魂のバトンを君に 池田先生と後継の友 関西 2017年5月16日
◇常勝不敗の原点を永遠に継承
「正しい信心が最後は必ず勝つ!」
池田先生の正義の師子吼が轟いた「大阪大会」から本年で60周年を迎える。
1957年(昭和32年)7月3日、民衆勢力の台頭を恐れた権力によって池田先生が不当逮捕・投獄された。後の裁判でも明らかになるように全くの無実の罪であった。そして、出獄した同月17日に中之島の大阪市中央公会堂で行われたのが大阪大会である。
この時、関西の同志は心に誓った。
「仏法は勝負や。負けたらあかん。絶対に、負けたらあかんのや!」——
師弟共戦で関西に築かれた不滅の錦州城。その常勝不敗の魂は今、脈々と後継の友へと受け継がれている。
◇◆◇
大阪・旭常勝区の小田文子さん(支部副婦人部長)は大阪大会の日、母・馬場美江子さんが、家に帰るなり顔を紅潮させて語った言葉を鮮明に覚えている。
「折伏せなあかん! 味方をつくらなあかん!」
「先生を、あんな目に遭わせて! 折伏して、創価学会の真実を言い切らなあかん」
美江子さんは、55年(同30年)10月に入会。翌年、池田先生が関西の同志と共に「1万1111世帯」の金字塔を打ち立てた「大阪の戦い」でも、弘教に奔走した。
週末ともなれば、経済的に大変な中で旅費を工面し、父・順三さんと地方折伏へ走ったこともある。地域に青年部が引っ越してくると親身に面倒を見た。服や靴下など、家にあるものを惜しげもなく渡してしまう。「わが身に置き換えたら、うれしいと思って」と。
2008年(平成20年)に霊山に旅立つまで、愚痴を聞いたことがない。弘教した人の数を尋ねても「覚えてへん」。それほど多くの友に仏縁を広げた。「この信心しなかったら、幸せになれへんねん」「この信心を教えてくれた先生のためにやらなあかん」が口癖だった。
母に続いて入会した時、中学生だった文子さんも、女子部で弘教にまい進。当時は対話に出向いても水を掛けられることもあった。
そんな時に母は「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(御書234ページ)の御文を拝して毅然と語った。「難があるのは当たり前。これで宿命転換できる。うれしいことや」
文子さんは20代の頃、神戸市の王子陸上競技場での関西体育大会に女子部の合唱団の一員として参加。入場する池田先生が、ぴたっと文子さんの前で止まった。「体が基本だよ。広宣流布のために、元気になることが大事だよ」
どきっとした。小学校も休みがちで体が弱かった文子さん。師の一言に涙が止まらなかった。
以来、"信心で健康になる"と祈りを定め、弘教に走り抜いた。仕事も商社の服飾デザイン部門で活躍。気付けば、日々の学会活動や深夜に及ぶ仕事も全力で取り組めるほど健康になっていた。
しかし、地区婦人部長として奔走していた1988年(昭和63年)、ひどい肩こりに襲われた。マッサージしても治らない。病院へ行くと医師から「乳がんかもしれません」と。文子さんの脳裏には、かつての池田先生の言葉が浮かんだ。「先生はこの時のために私に指導してくださったんだ。健康を勝ち取るんだ!」
その足で、予定されていた御書講義の講師を担当。「今、乳がんだと言われてきたけど、これは御本尊からの最高のプレゼントだと思って、戦います!」。自然と口から出た。"言い切れた。これで絶対に勝てる!"と文子さんは確信した。
手術は無事成功。術後の痛みもなく、医師から他の患者に話をして不安を解消してあげてほしいと頼まれるほどだった。とはいえ、腕が上がらず、少しの段差も越せないほど歩行も困難に。それも、4カ月に及ぶリハビリで克服した。
後に寛解を勝ち取った文子さん。「本当に学会員で良かった。これからも池田先生の弟子として、『伝持の人』として広布に走り、先生が築かれた麗しい学会の世界を守り抜きたい」
そんな文子さんと、どんな時も題目を唱え抜く夫・繁太さん(地区幹事)の姿を見て育った長女・陽子さん、長男・宏一さんは、ともに関西創価小学校から大学まで創立者のもとで薫陶を受け、後継の道を真っすぐに歩む。そして、孫たちへと、関西魂は4世代に流れ通っている。

兵庫・姫路総県の網干勇勝圏で婦人部副本部長を務める北浦恵理子さんの母・生田美佐子さんも、姫路から幾度も大阪に足を運び、師弟の共戦譜をつづった一人だ。
55年(同30年)の入会。自宅を個人会場に提供し、毎日のように集う同志と、友好を広げた。近所で美佐子さんを知らない人はいないほど地域広布に徹した。
美佐子さんはよく孫を連れて対話に歩いた。道中では、「大阪の戦い」の際に池田先生の「全ての活動が、宿命転換のための戦いであり、幸福になるための戦いなんだよ」との励ましに触れ、感動したこと。命の底から確信が湧いて、勇んで折伏に走り抜いたことなどを語ってくれたという。訪問した友人の中には、素っ気ない対応をする人もいたが、「また来るからね」と笑顔で返す姿に常勝の魂を学んだと、孫たちは口をそろえる。
一貫して友人を大切にし、毎年、200枚ほどの年賀状を手作りで作成していた。2004年(平成16年)7月1日の朝、所願満足の生涯を閉じた時も、近所の人々が「2、3日前にも訪ねてこられたわよ」と驚くほど、最後まで広布に歩いた人生だった。
恵理子さんは「とにかく厳しい母でした。『信心はさぼったらあかん。真面目にするんやで』『愚痴は言うたらあかん。信心は喜んでするもんや』と。そのおかげで今があります」と感謝する。
恵理子さん自身は、未来部で五年会、関西鳳雛会2期として、池田先生から慈愛の薫陶を受け、後継を誓った。高校・短大を卒業後、美容師に。東京での4年半の修業を経て帰郷し、26歳から現在まで、自宅兼店舗の経営を切り盛りしている。姫路文化会館や兵庫池田文化会館などで、池田先生の来県のたびに女子部のリーダーとして師弟の出会いを結んだことが、揺るぎない原点だ。
北浦さん一家に宿命の嵐が襲ったのは2004年。支部婦人部長として奮闘していた恵理子さんが1月に脳梗塞を発症。祖父も父も同じ病だった。「今こそ宿命転換の時!」と祈り抜き、2週間で後遺症もなく退院することができた。一安心したのもつかの間、4月には夫・平三さん(副本部長)が、勤めていた中堅ゼネコンからリストラを宣告される。そして7月の母・美佐子さんの逝去。長女・恵美子さんの大学受験も控えていた。「今こそ題目だ! 負けたらあかん!」と一家が一丸となって御本尊に向かった。
数カ月後、これまでより良い条件で平三さんの再就職が決定。恵美子さんは創価大学に特別奨学生での入学を勝ち取った。
「結果的に全てが良い方向になっていました。凡夫ですから未来は分かりません。でも題目の功徳はすごい。これだけは間違いありません」。当時を振り返りながら、平三さんは語る。
現在、長女・恵美子さんはじめ、創大教育学部出身の次女・正子さん、創大通教出身の長男・良明さんの、きょうだい3人がそろって小学校の教員として奮闘し、広布の第一線で活躍している。
一昨年12月、2度目の脳梗塞になったが、大きな後遺症もなく、以前の健康を取り戻すことを目指す恵理子さん。「何が起きても一喜一憂せずに、素直に信心する。それが大事であることを母から受け継ぎました。どこまでも学会と共に、師弟不二で、社会に実証を示していきます」
◇◆◇
路地裏まで一軒一軒訪ねて、膝詰めで語り、肩をたたいて庶民を励ました池田先生の温もりが生きている。そのかけがえのない共戦の日々を誇りとし、正義の魂を語り継ぐ同志が、どの町にもいる。これが関西の強さだ。
常勝関西よ、永遠なれ! 断じて不敗の関西であれ!——この限りない師の信頼と期待を胸に、今、青年たちが立ち上がる。