2017年5月12日金曜日

2017.05.12 わが友に贈る

全員が宝の人材だ!
地道な訪問激励で
皆を幸福の軌道に!
新しい力を結集し
広布の緑野を開きゆけ!

四条金吾殿女房御返事 P1135
『大将軍よはければしたがうものもかひなし、弓よはければ絃ゆるし風ゆるければ波ちゐさきは自然の道理なり』

☆女性に贈ることば 五月十二日
自己の目的と使命に向かって、挑戦に挑戦を重ねる。あきらめない。動く。学び、語る。また学ぶ。その、これでもか、これでもかという実践の結果、ある時、パーッと大きく開けてくるものである。

☆今日のことば365 五月十二日
人生にあって最大なる幸福は、生涯の師をもつことであろう。師をもたぬ人生ほど不幸なことはない。どんな有名人となり、成功者となっても、師なき人はさびしい。

☆未来部育成のページ 5・5「創価学会後継者の日」 中国未来会 2017年5月2日
岡山 倉敷総県 副総県長 藤原智さん『地域密着の企業で専務として活躍』
そよそよと揺れる柳。江戸時代の風情を漂わす白壁でできた屋敷。瀬戸内海の中央に位置する岡山県・倉敷には、美しい町並みが残る。
この町で、設備会社の代表取締役専務として活躍するのが、藤原智さん=岡山・倉敷総県、副総県長=だ。
同社は、地域と密着しながら、さまざまな設備工事を手掛けている。
従業員の無事故を祈るのが、藤原さんの朝の日課。
入社は、創価大学を卒業して間もない頃だった。"父親のように、地元で事務員として働きたい"との願いがかない、現在の職場の総務職に就職が決まった。
しかし、実際に仕事をしてみると、期待は裏切られた。
中小企業の総務職は、"何でも屋"として、業務が多岐にわたる。
藤原さんも、事務の仕事に収まらず、集金、営業、職人の手伝いなど、ありとあらゆる業務に携わった。
ある時は、職人の横で、つるはしを持って道路を掘り、また、ある時は、詰まったトイレの汚水の処理を手伝う。耐え切れずに、仕事を辞めていく同期入社の友もいた。
藤原さんの失望は大きかった。ところが、苦しい時に、不思議と思い起こされるのが、人生の原点となった「あの日」だった。

◇青春時代の原点
1971年(昭和46年)2月14日、岡山を訪問していた池田先生は、中国未来会を結成した。中学生だった藤原さんも結成式に参加。"何があっても、学会の庭で戦い切っていくんだよ"——師匠の厳愛の言葉を胸に刻んだ。
未来会は、当時、池田先生の手作りで、全国各地で誕生した未来部の人材グループである。先生はメンバーに、次のことを訴え続けた。
「若き苗が、使命の大樹へと育ちゆくには、身悶えするような苦闘と精進の歳月が不可欠である。幾たびもの、風雪と嵐を経なければならない」
当時、藤原さんの一家は、経済苦の真っただ中にあった。
知人の借金の保証人となった父親が、借金返済の肩代わりをし、信心強盛な母親が、仕出し弁当の工場で働きながら、家計を支えた。
藤原さんは、友人からもらった運動靴を何度も何度も自分で縫い直しては、また履いた。
苦しさのあまり、"非行に走ってしまおう"と、投げやりな気持ちになったこともあった。
しかし、それでも苦境に耐えられたのは、学会の同志の温かい絆と師匠の励ましがあったからだった。
"こんなに激励を受けながら、負けるわけにはいかない"——「負けじ魂」が、勉学の意欲を駆り立てた。
そして、創価大学に進学。大学を卒業する頃には、一家の経済苦を乗り越えることができたのである。

◇「負けじ魂」で再起
社会に出てからも「苦闘と精進の歳月」は続いた。
"会社を辞めたい"と思ったこともあった。そんな時に再起できた原動力は、青春時代に心に刻んだ「負けじ魂」だった。
仕事が多忙な中も、"負けるものか"と祈り、学会活動に走った。すると、置かれている環境に感謝できるようになったという。
「あらゆる業務を任されるというのは、考えてみれば、すごいことですよね。全てが自身の血肉となり、大きな経験となります。
人のために祈り、動く学会活動を通して、苦労の大切さを身に染みて感じ、職場に感謝できる自分に変わりました。未来会での"学会の庭で戦い切っていくんだよ"との師匠の言葉は、社会、地域で勝利するための大切な指針となっています」
どんな仕事も誠実に遂行する姿勢によって、職場での信頼は増し、97年(平成9年)、会社の役員に就任。
それまで培った手腕を発揮し、不良債権の処理などにも尽力し、会社の財務体質は改善。同社は、無借金の黒字経営を10年以上続けている。
「派手な結果は出せなくても、自分の置かれた場所で、地道に信心根本に挑戦し抜いていく。その『負けじ魂』を未来部時代に育んでいただきました」
温和な笑みをたたえる藤原さんの表情に、さっと力がこもった。「報恩感謝を胸に、いっそうの決意をもって、職場、地域で後継者育成に励んでまいります」