「心こそ大切なれ」
何事も受け身ではなく
主体的にチャレンジを!
その勇気の実践が
限りない成長の源だ!
御講聞書 P843
『然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん』
☆女性に贈ることば 五月十六日
憂鬱な人生よ、去れ!
悲惨な人生よ、去れ!
愚かな人生よ、去れ!
無駄な道を歩むな!
絶望の道を歩むな!
賢く生き抜いてこそ、青春だ。
☆今日のことば365 五月十六日
夢は どこまでも夢である
故に 私はながめるだけでなく
厳しい批判のなかにあっても
実践という悔いのない一点を持続する
☆日蓮仏法の視座 御書根本こそ学会の正道 2017年5月9日
◇「不動の信心」を青年が継承 「行学の二道」に徹する鍛えの青春を
「どうすれば教学の力がつきますか?」「広布拡大の原動力として、御書をどのように学ぶべきでしょうか?」——御書講義を担当した折、参加者から、こうした質問をよく受ける。先月、「SGI春季研修会」で来日したアフリカ各国のSGIメンバーと森中教学部長による質問会に同席した際も、御書の内容を通した質問が相次ぎ、その求道心に感動した。本年は御書発刊から65周年。御書根本こそ学会の正道である。本稿では、私たち創価の青年が継承すべき「御書根本」の生き方について考察したい。
◇心肝に染めた御金言
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)
第2代会長・戸田城聖先生は御書の「発刊の辞」で、この「諸法実相抄」の一節を引き、「剣豪の修行」を思わせる「行学の二道」の厳格なる鍛錬が、学会の伝統と名誉ある特徴であると述べている。
学会は創価三代の会長のもと、常に「御書根本」「御本尊根本」で世界広布を進めてきた。また、多くの同志は「行学の二道」に徹し抜く中で、御書の一節を心肝に染め、襲い掛かる宿命や苦難の嵐を乗り越え、信心の確信を深めてきたのである。
私が19歳の時に、学生部の先輩から教わった御聖訓がある。
それが「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(同1351ページ)との「祈祷抄」の一節である。
当時、折伏に挑戦しても実らずに悩んでいた私に、先輩はこの御文を通して「大事なのは『法華経の行者』の祈りだよ。祈りとしてかなわざるなしの信心だ。必ず折伏はできるよ!」と励ましてくれた。この一節を何度も拝して挑戦を続け、初めて弘教が実った時の感動は今も忘れられない。
その後も、悩みや壁にぶつかるたびに、先輩は御書の一節や池田先生の指導を通して激励してくれた。当時の御書の書き込みは、20年以上過ぎた今も鮮明に残っている。
◇一度もしりぞく心なし
御書には、日蓮大聖人の正義の叫びや迫害にも屈しない御境涯がつづられる一方、苦境にある門下への真心こもる同苦や、慈愛の励ましがあふれている。
大聖人の御生涯は、民衆の胸中に潜む「無明」を打ち破り、妙法を流布していく大闘争の日々であった。
大聖人は御自身の生涯を振り返り、「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(同1224ページ)と仰せである。また、別の御書では「今に至るまで軍やむ事なし」(502ページ)、「然どもいまだこりず候」(1056ページ)とも述べられている。
妙法流布に立ち上がられてから、一度も退くことなく障魔と戦い続けられた大聖人。その舞台は常に現実社会であり、眼前の課題と向き合いながら、「不退の心」で広布に生き抜かれたのである。
大聖人は門下に対しても、"私と同じ心を起こしていきなさい"と呼び掛けられている。「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(同1190ページ)との御聖訓は、「熱原の法難」の渦中の弟子に送られたお手紙である。
当時の門下も、迫害や試練に直面するたびに大聖人の励ましを受け、信心根本に難と立ち向かい、勝利を開いていったに違いない。
いかなる状況においても、「勇気」や「執念」の心で、信心根本に戦い続ける——。これこそ私たち学会員が実践する「人生勝利の要諦」である。学会員の偉大さとは、苦難に直面しても逃げずに向き合い、挑んでいけることではないだろうか。
◇八風に負けない賢人
大聖人は弟子の四条金吾に、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」(同1151ページ)と仰せである。
「八風」とは、仏道修行を妨げる八つの働きのこと。それは皆が望み求める「四順」と、皆が嫌がり避ける「四違」とに分かれる。
「四順」とは、利益を得て潤う「利い」、世間から誉められる「誉れ」、人々からたたえられる「称え」、心身が楽しい「楽しみ」のこと。また「四違」とは、さまざまに損をする「衰え」、世間から軽蔑される「毀れ」、人々から悪口を言われる「譏り」、心身にわたって苦しむ「苦しみ」のことである。
大聖人は、この八風に侵されない人こそ、「賢人」であると述べられている。
生きていれば、楽しみや苦しみがあるのは当然である。いわば、八風のない生活はあり得ない。大事なことは、順風であっても、逆風であっても、それを自分自身の成長と勝利のための「追い風」「原動力」へと変えていけるかどうかである。
その方途が「南無妙法蓮華経」の唱題行であることも、大聖人は明確に教えられている。
いかなる苦難にも負けずに戦い、不動の自分自身を作り上げる——。これが私たちの信仰の目的である。また、大聖人が示された「戦う心」「不動の信心」を継承していくことこそ、青年部の使命であろう。
◇戦いの中での研さん
私は本紙の記者として、これまで数多くの同志を取材する機会に恵まれた。その中で、自身の病と闘いながら、同志を励まし続けた大阪・豊中の男子部員が忘れられない。
彼は38歳で末期がんの宣告を受け、抗がん剤治療を開始。「5年生存率は13・2%」という厳しい現実と対峙しながら唱題に励み、学会活動に走った。
病気になって、彼は池田先生の『生死一大事血脈抄講義』を熟読し、真剣に御書を研さんするようになったという。そして、学会や同志と共に生きるありがたさを実感。自身の生きる意味や使命について考えた。
取材で彼は語っていた。「昔は『いい車に乗りたい』『金がほしい』ということばかり考えていた。でも病気になって、それらが全く意味のないものに思えてきた。むしろ、限りある『生』を病や困難で苦しむ人々のため、広布のために使えることが本当にうれしい。病気になって池田先生の指導や御書の一節が、自身の心にびんびん響いてきます」と。
取材後も彼とは連絡のやりとりが続き、東京にも来てくれた。死への恐怖や限られた生への執着といった率直な思いも聞いた。
昨年1月、彼は多くの同志に惜しまれながら安らかに霊山へと旅立った。最期まで病魔と戦い、不退の青春を歩んだ彼の姿は、間違いなく勝利の人生だったと確信する。
仏法には「生老病死」という人間の根源的な苦悩を乗り越えていく方途も全て示されている。だが、それは知っていれば良いというものではない。「大聖人の仰せのままに実践しよう」「広宣流布のために戦おう」との決意で、自他共の幸福に尽くす信心の実践の中で、体得すべきものだ。
池田先生は語っている。「御書を学べば、勇気が出る。智慧がわく。大聖人の大精神が、わが生命に脈打つからだ。そこにこそ『難を乗り越える信心』の炎が燃えあがる」と。
さまざまな苦難に直面しながら、一歩も引かずに戦っている男子部の友も多い。私たちは、今こそ御書をひもときながら眼前の戦いに挑み、青年の月・7月を勝利で荘厳していきたい。