◇今週のことば
「ほむれば弥功徳まさる」
尊き友の健闘を
最大に讃え励まそう!
喜びと感動を増して
いよいよ勝利の波動を!
2017年5月7日
同生同名御書 P1114
『大闇をば日輪やぶる女人の心は大闇のごとし法華経は日輪のごとし』
☆女性に贈ることば 五月七日
お金や栄誉を得ることよりも、人間としていちばん大事なのは、学ぶことです。
いくら有名人でも、学ぶ心のない人は尊敬できません。一生涯、学び続ける−−−その人を尊敬すべきです。
☆今日のことば365 五月七日
幸福は、外からやってくるものと思いこんではいけない。特に青春時代には、そのような追随主義や消極性、あるいは付和雷同の人であってはいけない。自らを革命し、さらに、自分の境遇を改革しきっていこうという積極主義とその勇気なくしては、悩みを切り開くことはできないのである。
☆誓いの天地 東京・豊島区 2017年4月30日
◇育ててくれた地域に尽くす 勇敢な魂で民衆凱歌を
4社8線の鉄道が乗り入れ、1日250万人以上が利用する池袋駅。同駅周辺は2020年春に向け、八つの劇場を含む国際的な文化拠点へと整備が進む。
一方で、"おばあちゃんの原宿"として有名になった巣鴨の地蔵通り商店街もある。南長崎には、手塚治虫や石ノ森章太郎が青春を過ごした漫画の聖地「トキワ荘」があった。
東京・豊島区は、さまざまな文化が一体となり、魅力あふれる都市として発展を続ける。
現在、駅周辺の整備が進む大塚。毎年8月になると、駅前の大通りで1000人以上の踊り手が集う「東京大塚阿波おどり」が行われる。学会の男子部員も、運営・整理役員として積極的に関わり、行事を支える力となっている。
参加団体の中でもひときわ人気の高い「新粋連」で太鼓を担当するのが菊池健一さん(豊島戸田区、男子部副本部長)だ。総務として団体の運営に携わる。
1995年に地域の先輩に声を掛けられ、数人で立ち上げた。地道に技術を磨き、昨年、阿波踊りの本場・徳島で行われた全国コンテストで「新粋連」が優勝を果たす。今では"日本一の団体"として地元住民の誇りに。老人ホームの慰問など、地域貢献にも取り組んでいる。
"生まれも育ちも豊島"の菊池さんは顔が広く、誰とでもすぐに打ち解ける。"地元愛"も人一倍強い。
"学会2世"として生まれたが活動には消極的だった。25歳で豊子さんと結婚。しかし、生活のすれ違いから、夫婦関係がうまくいかなくなった。
落ち込む菊池さんのもとへ、多くの友人が心配して来てくれた。その中に、心に残る励ましが。学会の男子部だった。力強い言葉に、"自分もこの人たちのようになりたい"と学会活動に挑戦。創価班大学校にも入校した。
"一番、仏法を伝えたい人は誰か"と考えたとき、すぐに豊子さんの顔が浮かんだ。あらためて一対一で向き合い、仏法対話を。豊子さんは、菊池さんの真心と前向きに変わった姿に信心への理解を深め、入会した。その後、2女に恵まれ、和楽の家庭を築くことができた。
シャッター等を製造・販売する会社に勤務。学会の設営グループである栄光会の総区委員長を務める。
「信心に目覚めさせてくれた妻、そして何より、師匠・池田先生への感謝は尽きません。育ててくれた地域のために動き、報恩の道を貫きます」
◇
市原友莉さん(豊島池田区、女子部副本部長)も豊島で育った。自宅は広布の会場。いつも明るい母と、創価家族の姿から自然に信心を学んだ。
"人の役に立ちたい"と勉学に励み、看護師になった。最初に配属されたのは、がんなどの終末期の高齢者が暮らす病棟。毎日のように「死」を目の当たりにする。"昨日、会話した人が今日はいない"という現実に、ついていけないこともあった。
苦しい時こそ、学会活動に挑戦し、御書を繙いた。白樺グループの会合では仏法の「抜苦与楽」の精神を学んだ。"池田先生ならどうされるか"と考えて患者に接することができるように。ある患者から、「あなたが私の担当でよかった」と言われたことが忘れられない。病棟では看護師のリーダーを務め、昨年、新たな病棟へ移った。
不規則な勤務の中でも、学会活動する日を決め、真剣に取り組む。この2年間で、市原さんが担当する部から5人の白蓮グループが誕生するなど、総区でも模範の人材育成が光る。地域のバレーボールチームにも所属し、友情の輪を大きく広げてきた。
「"一人を大切にする"精神を胸に、大好きな豊島に華陽のスクラムを広げたい」と決意する。
三代会長が不滅の足跡を刻んだ豊島。その地に今、後継の青年の陣列が躍動している。
◇栄光の共戦譜
今月26日、池田先生ご夫妻が、豊島区巣鴨の東京戸田記念講堂を訪れた。
同講堂が開館したのは1979年(昭和54年)6月。第3代会長辞任の直後だった。以来、わずか半年で18回の訪問。
先生は、この講堂で、幾多の同志と出会いを重ねつつ、創価の"反転攻勢"の指揮を執った。
今回で、66回目の訪問となった。
先生は初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長・戸田城聖先生の肖像が掲げられた講堂で勤行・唱題した後、豊島の広布史を紹介する展示を丹念に見学。そこには、間もなく迎える5・5「豊島の日」の淵源も記されていた。
73年(同48年)の5月5日。池田先生と豊島の同志3400人との記念撮影が行われた。
先生は撮影の合間にマイクを取り、参加者に語り掛けた。
「勇気ある信仰を貫くことです。そのために何が大事か、一にも二にも迷わぬ信仰の姿勢を確立することです」
「私と一緒に楽しい人生を送ろう。しかし、邪悪とは断固、戦おう!」
記念撮影に参加した志村三千子さん(豊島戸田区、婦人部副本部長)は、初めて先生と出会いを刻んだ。「"信心のことで夫婦げんかをしてはいけないよ"との言葉が、今も胸に残っています。あの日、先生こそ人生の師匠だ、と深く心に決めました」
64年(同39年)、母の病を機に入会。母は寿命を延ばし、安らかに霊山へ旅立つ。志村さんは、信仰の確信を胸に広布に走った。
記念撮影から6年後の79年(同54年)4月24日、突然の会長辞任の報。同じ団地の住民から、「会長やめちゃったね」と言われた。志村さんは「先生の舞台は世界ですから!」と言い切った。
同年、東京戸田記念講堂の落成を控え、生け花の心得があった志村さんは、会館を花などで飾るグループの一員となる。
10月のある日、講堂の入り口で花の手入れをしていた志村さん。そこへ池田先生が訪れた。
「女子大生?」
「婦人部です!」
先生のユーモアに笑顔の輪が広がる。先生は、志村さんや夫・仙十郎さん(副支部長)の近況を聞いた後、純粋な信心の大切さを語った。
その後、志村さんは民生委員を21年務めた。誠実に地域に尽くす姿に信頼が広がり、友情を結んだ婦人に後年、真心の弘教も実った。2年前からは居住する団地の自治会長として奮闘する。
「"先生と共に"との思いで苦難を乗り越えてくることができました。恩返しの人生を歩みます」
◇
記念撮影で整理役員を担った谷山守さん(総区主事)。当時、男子部の部長。「輸送班(現在の創価班)での薫陶が人生の礎です」と胸を張る。
69年(同44年)、夏季講習会の役員だった谷山さんに先生と勤行する機会が。「師匠の気迫に触れ、五体に電流が走るようでした」。その翌年の講習会でも再び師と勤行を。前年も共に勤行させていただいたと報告すると、先生は喜び、谷山さんを心から励ました。"先生を中心とする広布の奔流のまっただ中に生き抜く"と深く誓った。
その後、大病を何度も経験するが、その度に信心で乗り越えた。
本部長時代に始めた壮年部リーダーによる御書と池田先生の指導を研さんする集い「剣豪塾」は200回を超え、人材の流れが大きく広がる。さらに初代の豊島池田区長に就き、拡大の先頭に立った。
仕事は弁理士として、77歳の今も現役だ。
「偉大な師匠に出会い、広布の理想に人生を懸けることができた。いよいよ師恩に報いる時です」
豊島は、三代会長に有縁の地である。
牧口先生は、「サンシャイン60」が立つ地にあった東京拘置所で殉教した。戸田先生は豊島公会堂で学会再建の師子吼を放った。
池田先生もまた、文京支部長代理として豊島の地を駆けた。そして宗門事件の嵐が吹き荒れた時には、邪悪を打ち砕く正義の大闘争を、ここ豊島の地で展開したのである。
池田先生は94年、豊島の同志に詠み、贈った。
「勇敢な 魂吹き込む 豊島かな 恩師の叫びの 源忘るな」
師弟の魂が脈打つ豊島。池田門下の不二の叫びで、民衆凱歌の新時代を築く時は今である。