2017年5月5日金曜日

2017.05.04 わが友に贈る

友情広げる好機到来。
大胆に動き 語ろう!
尊き広布の力走に
諸天の守護は厳然!
無量の功徳が輝く!

南条兵衛七郎殿御書 P1498
『二心ましまし人の聞にはばかりなんどだにも候はばよも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ』

☆女性に贈ることば 五月四日
笑顔は、幸福の結果というよりも、むしろ幸福の原因だともいえよう。

☆今日のことば365 五月四日
よく読め よく書け
そして 雄弁たれ
それが 偉大なる発展への推進力だ

☆誓いの天地 東京・大田区 2017年4月28日
◇師の故郷で躍動する青年 「広宣の源流」の誇りもて
1947年(昭和22年)3月、当時の大森区と蒲田区が合併して、「大田区」が誕生した。今年、区制70周年である。
大田区の特徴の一つは「ものづくりの町」。大森南、糀谷、羽田、下丸子、多摩川、矢口などには、高い技術力を持つ町工場が集まる。京浜島、城南島、昭和島にも工業団地が形成されている。
坂本勇一さん(大田池田区、男子部部長)は、本羽田で絶縁ゴムカバーの製造業を営む。
一昨年、先代の経営者が高齢を理由に引退を宣言。信頼されていた坂本さんが事業を引き継ぐことに。
「引き継ぐ」といっても、経営者から「君の力で、別の会社を立ち上げなさい」と。司法書士や事業継承の専門家と相談を重ね、昨年2月、会社設立にこぎ着けた。
開業当初は、売り上げが伸びなかった。必死に祈り、高品質・低コスト製品の提供、厳格な納期管理など工夫を重ね、取引先からの信頼を勝ち取った。
そうした経営努力が評価され、今年、中小企業庁の「はばたく中小企業・小規模事業者300社」の1社に選ばれた。
30代半ばまで転職を繰り返した坂本さん。新しい仕事に就くたび、人間関係で行き詰まった。
ある時は、銀行の預金残高が、700円しかなかった。どん底まで落ちた自身の情けなさに、涙が止まらなかった。
意を決して、学生時代からお世話になっていた学会の先輩に、数年ぶりに連絡を。すぐに、激励に駆け付けてくれた。その温かさに、信心で立ち上がろうと腹を決めた。
「学会活動に挑戦して、人生が百八十度、変わりました。試練に遭遇しても、"前に進もう"という勇気が湧いてくるんです」
今年、会社は「拡大」を目標に掲げる。「ものづくりの町・大田」を代表する会社を目指し、自身の人間革命に挑み続けている。

2010年(平成22年)10月、羽田空港に新国際線旅客ターミナルが開業。15年(同27年)には、世界1144の空港の中で、第5位の旅客数を記録している(国際空港評議会の報告から)。
今年、大田区は「国際都市おおた宣言」を発表。今後、国際交流拠点都市、多文化共生都市としての魅力を発信していくという。
門脇沙都紀さん(蒲田太陽区、女子部本部長)は、羽田空港国際線の免税店で働く。「海外のお客さまが、日本での最後の一時を過ごす場所です。だから、常に笑顔と真心で接客しています」
創価大学2年の時、学費を支払うため、飲食店や塾講師など、三つのアルバイトを掛け持ちしていた。だが、多忙な毎日のストレスで、摂食障害になった。
苦しみの渦中、何人もの同級生が声を掛けてくれた。友の励ましを胸に、1年の通院で摂食障害を乗り越えることができた。
その後、語学力を鍛えようと、アメリカのシアトルに留学。空港のインターンシップ(就業体験)も経験した。
就職活動では、大手航空会社をはじめ、空港に関係する会社の採用試験を受けた。その数、30社を超えたが、全て不採用。
"もう無理かな"と思っていた時、壮年から「諦めは、親不孝だよ」と。その一言に目が覚めた。"必ず就職を勝ち取ろう"と決意新たに御本尊の前に座った。卒業式を目前に控えた「3・16」に、今の会社で働くことが決まった。
卒業式では、学業・研究面で優れた業績を収めた学生・団体に贈られる「創価大学ダ・ヴィンチ賞」を受賞した。
今年、白蓮グループの総区委員長の任命を受けた。「女子は門をひらく」(御書1566ページ)の御聖訓を胸に、師の故郷・大田に、満開の勝利桜を咲かせゆくことを誓う。

◇栄光の共戦譜
池田先生は、大田で生まれた。
生涯の師・戸田城聖先生と出会ったのも、大田だ。
池田先生は大田で、「二月闘争」の指揮を執った。1955年(昭和30年)には、横浜・鶴見区と共に、大田で圧勝劇を飾った。世界広布へ旅立ったのは、羽田空港からである。
先生は新宿区信濃町に居を移すまで、ほぼ38年を大田で過ごした。その後の足跡も、区内のそこかしこに刻まれている。
90年(平成2年)11月1日に開館した大田池田文化会館に、これまで14回訪問。
第1次宗門事件の嵐の渦中だった79年(昭和54年)3月11日には、馬込会館(当時)へ足を運んだ。85年(同60年)6月14日には雪谷文化会館へ向かい、友を激励した。
また、96年(平成8年)5月15日には羽田平和会館、2002年(同14年)5月6日には蒲田文化会館、昨年8月28日には森ケ崎文化会館を訪れている。
数ある"黄金の歴史"の中でも、「4月29日」の感動は、大田の友の心に、今も輝き続ける。
1973年(昭和48年)のこの日、大田区体育館(当時)に5000人の友が集い、記念撮影が行われた。
撮影会が始まると、先生は「大田より 師子は育ちて 広布かな」など10句を詠み、川柳も一句、披露。さらに、伊豆諸島、小笠原諸島から駆け付けた友に励ましを。集った青年・未来部で「大田兄弟会」を結成することを提案し、満場一致で決定した。
その一人、石塚春好さん(蒲田広宣区、副総区長・区総合長兼任)は、この時の師との出会いが、生涯の原点だ。
「先生は、『五体から根性がにじみ出てくるような青年の中の青年の闘士であってほしい』と。その深い真心に、断じてお応えしていこうと決意しました」
石塚さん自身、「五体から根性がにじみ出る」人生を生きてきた。1歳半の時、ポリオ(小児まひ)にかかり、左腕の自由を失った。これがきっかけで、58年(同33年)に一家で入会した。
懸命に勉学に励み、創価高校に1期生として入学。創価大学卒業後、区の福祉事業に携わり、その向上に尽力してきた。現在、知的障がい者支援の活動に取り組んでいる。
学会活動にも全力を注いできた。総区壮年部長として一昨年12月、本陣長(ブロック長)、副本陣長が本部単位で、小説『新・人間革命』を研さんする「大田壮年『本陣大学校』」をスタート。信心の歓喜に燃える黄金柱の連帯が広がる。
「不屈の根性で、東京凱歌の歴史を切り開いていきます」

大田に新たな会館を——先生がこう提案したのは、83年(同58年)1月31日、大森文化会館(当時)を訪問した時のことだ。
大田池田文化会館が誕生したのは、この時から7年後。会館完成を祝し、先生は「天までも 功徳で築きし 大田城 富士もかなたに この城 守れや」など、3首の和歌を詠み贈っている。
90年(平成2年)11月7日、先生は同会館を初訪問。会館近くの鵜の木の商店街には、三色旗がはためき、「祝 大田池田文化会館落成」の横断幕が掲げられた。
開館記念勤行会で先生は、大田ゆかりの池上兄弟に与えられた御聖訓「未来までの・ものがたり(物語)なに事か・これにすぎ候べき」(御書1086ページ)を拝読。「大田もまた、『団結の勝利』の模範であっていただきたい」と念願した。
勤行会に参加した宮本純子さん(大田池田区、区副婦人部長、伊豆諸島栄光圏婦人部長兼任)。
「先生は会場に入られると、参加者に"学会の根本は師弟だよ"と。直後に第2次宗門事件が勃発。師弟の魂魄をとどめてくださったんだと知り、"何があっても先生と共に"と改めて誓いました」
結婚後、大田の地へ。流産や卵巣のう腫の手術などの苦難を乗り越え、2人の子どもを授かった。
支部婦人部長として奮闘していた時、先生から支部に「常勝の 城をかざりし 桜花 秋に散りゆく 落葉の香りよ」との激励の和歌が届いたことは、宝の思い出だ。
「皆が歓喜し、師恩を胸に、対話に走りました」。その感動を今も忘れず、夫・和徹さん(副区長・区書記長兼任)と、同志の激励に奔走する。
2人の子も、後継の道を真っすぐに進む。長女・和美さんは総区女子部長、長男・勇一さん(男子地区副リーダー)は広島の大学院で教育の研究に励む。

新たな広布の歴史を開く時、師と共に立ち上がり、戦い、勝利を刻んできた大田の友。先生は万感の思いを詠んだ。
「広宣の 源流 大田と 誇りもて 偉大な使命を 断じて忘るな」
日本も、世界も、大田を源流として、広布の潮流は千波万波と広がった。その「広布源流の地」の底力が、いよいよ発揮される。