�張りのある勤行
�無理と無駄のない生活
�献身の行動
�教養のある食生活
これが健康長寿の要諦!
四条金吾殿御返事 P1151
『申すままにて候あいだいのり叶いたるやうにみえて候』
☆女性に贈ることば 五月十七日
家族のため、近隣のために、自分らしく、誠実に精一杯の努カをして生きてきた女性の一生は、平凡であっても、尊く美しい。
☆今日のことば365 五月十七日
会議は、議論のための議論であってはならない。本当に真剣であれば、おのずから知恵が湧いてくる。
☆誓いの天地 東京・足立区 2017年5月9日
◇青年に光る「地域貢献の心」 「覚悟の信心」ここにあり
東京23区の最北端に位置し、埼玉県川口市、草加市、八潮市に隣接する足立区。建設業や運送業関連の事業所が数多くある。
近年、「つくばエクスプレス」「日暮里・舎人ライナー」が整備され、沿線の住宅建設が進む。新住民が増えているが、人情味あふれる気風は変わらない。
「庶民の街」であることに誇りを持ち、地域のために汗を流す。その"地元愛"は、壮年・婦人部とともに、青年部にも息づく。
塗装業を営む黒岩高志さん(足立戸田区、男子部本部長)。2年前から地元町会の青少年部長を務める。
2002年(平成14年)、父・幸博さんが肺がんで亡くなった。父も町会の青少年部長を務めていた。
地域の多くの人から「お父さんには本当に世話になってね」と声を掛けられた。周囲から慕われた父の「地域貢献の心」を、黒岩さんは受け継いだ。
父に肺がんが見つかった当初、"なぜ"との思いが抑えられず、御本尊の前に座れない日々が続いた。入院2カ月ほどが過ぎたある日、父と2人で会話を。
「信心だけは絶対に負けないから」。父の力強い言葉に、自身の姿勢を猛省した。最後の最後まで生き抜こうとした姿を、黒岩さんは深く心に刻んだ。
その後、父が立ち上げた塗装業の会社が、多額の負債で廃業に追い込まれた。だが、懸命に祈り、再出発。丁寧な仕事ぶりが評判を呼び、それまで取引のあった会社からの信頼を回復し、新規顧客の開拓にも結び付いていった。
6年前には自宅を改築。2年前に、個人会館「黒岩栄光会館」が誕生した。
「発展する街と共に、自らも成長し、これからも地域に尽くしていきます」
◇
齋藤裕子さん(竹の塚牧口区、女子部副部長)は、地元町会の和太鼓チームのリーダーだ。
小学1年の時、チームに入った。現在、子どもから高齢者まで、幅広い年齢で構成され、夏祭りなどに出演。先月は地域の桜祭りで、軽快なバチさばきを披露した。
「和太鼓の活動を通して、地域に貢献する多くの学会員さんがいることを知りました。私自身も、皆さんに喜んでもらえる演奏をし、地域活性化の役割を果たしていきたい」
幼い頃から、学会が大好きだった。地域の壮年・婦人部が、いつも優しく声を掛けてくれたからだ。
小学生の時、足立総区少年少女部の「ドリーム合唱団」に入団。中学1年からは、鼓笛隊で信心の薫陶を受けた。
高校卒業後、ホテル業界を目指して専門学校へ。週末は一日中、ホテルでの実習が続き、学会活動に参加することが難しくなった。ホテルに就職した後も、本部幹部会中継行事へ行くのがやっとだった。
だが、一昨年、女子部の先輩の温かい激励に、"私も先輩のようになりたい"と発心。昨年からは、白蓮グループの一員として、対話拡大にも率先する。
「自分の姿を通して、地域に学会理解の輪を広げていきたい」。齋藤さんの笑顔が輝いた。
——「足立」には昔、見渡す限り「葦」が生えており、「葦立ち」と呼ばれた。それが転じて、現在の地名になったという説がある。
池田先生はかつて、この由来に言及。「世界第一の『模範の信心』で、東京全区をリードしゆく『人材の足立』『団結の足立』を」と念願した。
今、名実共に東京をリードする足立。後継の青年たちの凱歌の前進は、加速度を増している。
◇栄光の共戦譜
学会草創期から、常に激戦に臨み、勝利し、新たな歴史を開いてきたのが、「王者・足立」である。
1955年(昭和30年)3月1日、池田先生は足立の座談会に参加。以来、幾度も励ましを送り、手づくりで人材を育んできた。
71年(同46年)12月18日、足立区体育館(当時)で記念撮影が行われた。「足立の日」の淵源である。
撮影の合間、先生はマイクを手に参加者を激励し、さらに、役員のための撮影会を提案。翌72年(同47年)1月8日に、役員の友の撮影会が行われた。
この撮影会に参加した平田恵美子さん(梅島正義区、婦人部副本部長)。77年(同52年)、夫が胃がんで亡くなった。撮影会のことを思い返しては、自身を奮い立たせ、女手一つで、3人の子どもを育てた。
90年(平成2年)、右目が網膜剥離に。その後、左目も黄斑上膜を患い、両目の視力を徐々に失っていった。99年(同11年)には甲状腺がん、4年前には腹部大動脈瘤、大腸がんの手術を。数々の病魔を、全て信心で勝ち越えてきた。
「目は不自由ですが、心は自在です。広布に歩む人生こそ、無上の幸福です」
今も対話に歩く平田さん。広布に情熱を燃やす姿は、多くの同志を鼓舞している。
◇
足立は、師弟の絆を断ち切ろうとした第1次宗門事件の反転攻勢の暁鐘を打ち鳴らした地である。
81年(昭和56年)10月25日、1万5000人の友が集い、創価大学で足立区友好総会が開催された。
先生の「私は何があっても、富士山のごとく不動です」との師子吼に、足立の友は勇み立った。
三津木基之さん(大谷田創価区、副本部長)も、その一人。「"私は皆さん方の避雷針です"との言葉に、どこまでも報恩感謝の心で進もうと誓いました」
中学卒業後、精肉店で働き始めた。そこで仏法の話を聞き、59年(同34年)に入会した。
白雲会(飲食業に携わる壮年・男子部の人材グループ)の一員として、幾度も師との出会いを刻んだ。その"宝の思い出"を胸に、広布の道を駆けてきた。
現在、1人暮らしの高齢者などに、食事を届ける仕事に従事。地域活動にも率先する。
3人の子ども、4人の孫にも"学会一筋"の心が受け継がれている。
81年の友好総会後、先生は足立を"首都圏の中心軸"と見定め、師弟の魂魄を留めてきた。中でも、多くの友が"足立の魂"として心に刻むのが、85年(同60年)の歴史だ。
同年1月18日、先生は千住文化会館を訪問。「『覚悟』とは、あらゆる人生の局面にあって、あくまで自らの力と意志で、難局を開き、希望の曙光をつかみとっていこうとする強き一念のことである」と強調した。
5カ月後の6月21日、先生は足立平和会館へ。懇談会が行われた。
伊藤昌子さん(綾瀬前進区、総区婦人部総主事)は、その場に居合わせた。
勤行を終えると、先生は「大勝利の万歳をしよう」と。ところが、全体の声がそろわず、弱々しい。すると、先生は再び万歳三唱を提案。今度は全員の呼吸が合った、勢いのある万歳になった。
「先生は"もう一度!"と言われ、私たちの臆病な一念を打ち破ってくださったんです」
師の"呼吸"は、すぐに足立の隅々にまで伝わった。翌月、足立は未曽有の拡大を達成。新たな勝利の金字塔を打ち立てた。
同年8月、伊藤さんは足立区(当時)の婦人部長に。だが、88年(同63年)1月、子宮がんを発症した。
闘病の間、師から「生きて生きて生き抜くんだ」との激励が。"絶対に広布の陣列に戻る"と祈り、1年後に学会活動を再開した。
「今の人生があるのは、全て先生のおかげ。報恩の誠を尽くしていきます」
◇
足立池田記念講堂(当時、足立池田講堂)が開館したのは、87年(同62年)4月。今年、30周年の佳節である。翌年6月19日、先生が出席しての支部長会が開催された。
会合に集った三輪由美さん(江北常勝区、区副婦人部長)。当時、夫の征四郎さん(同、副本部長)が勤めていた会社の経営状況が厳しく、転職せざるを得ない状況だった。
しかし、この時の師との出会いに改めて決意し、夫婦で祈りから出発。家族が団結して、経済的苦境を乗り越えていった。
高校生の時、父を亡くした。悲しみの中、参加した夏季講習会で師との出会いがあった。
「先生は、父親を亡くしたメンバーに『私をお父さんと思って、頑張りなさい』と。この激励が、自身の原点となりました」
看護の専門学校を卒業後、看護師に。白樺グループで薫陶を受け、"妙法の看護師"として目の前の一人に尽くしてきた。
その"献身の心"は今、地域活動に。4月には、居住する団地の自治会長に就任した。
「愛するわが団地に、幸の花を咲かせていきます」
3人の娘も、後継の道を朗らかに進んでいる。
——83年(同58年)12月20日、「足立の日」記念幹部会で、先生は語った。
「足立の地に、日本で初の広宣流布の縮図をつくりあげていただきたい」
いかなる激戦であろうとも、断じて勝つ。その「覚悟」が、足立の友には脈打っている。