絶対無事故の
有意義な連休を!
くれぐれも安全運転で!
戸締りや火の元も
指さし点検で厳重に!
兵衛志殿御返事 P1090
『今度はとのは一定をち給いぬとをぼうるなりをち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれ』
☆四季の語らい
自らの地位と権力の安泰のために、伸びゆこうとする青年の成長の芽を摘みとる指導者もいる。また、自分のために青年を利用し、その犠牲のうえに、自身の栄誉を築こうとする指導者もいる。
☆女性に贈ることば 四月三十日
今いる場所で
自分自身に負けず 勝ち抜き
人と比べることなく
自分自身の誇り高き使命の道を
実直に前進する人が
幸福着であり 人間としての勝利者だ
☆今日のことば365 四月三十日
男の一生は、どういう仕事をしたか、そしてまた、自分の選んだ仕事の上で、どれだけの功績を残したかによって決まると思う。要は、自分のありったけの力を仕事にぶつけたか、そして、生命を完全に燃焼させて、その時代、その社会に自己の燃焼エネルギーによっていかなる利益をもたらしたか、ということではないだろうか。
☆本紙創刊65周年 記念特集 池田SGI会長と聖教新聞�
◇苦闘の中での師弟の語らい
聖教新聞の「創刊原点の日」は、8月24日である。
戦後、創価学会の再建に奔走していた戸田第2代会長。だが、1950年(昭和25年)に入ると、経営する信用組合が危機に直面する。事業の破綻が決定的になると、それを聞きつけた新聞記者がやってきた。
同年8月24日——記者の取材を受けた後、戸田会長はSGI会長に語った。「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い時期に新聞をもたなければいけない」
師弟の最大の苦境の中から、聖教新聞の構想は生まれたのだ。
翌51年(同26年)3月には、戸田会長を中心に、初の企画会、そして編集会議を開催。「聖教新聞」の名称が決まる。
戸田会長は叫んだ。「この新聞をもって、広宣流布の火蓋を切っていくのだ。あらゆる意味で言論戦の雄とならねばならぬ!」
SGI会長は、この日の日記に記した。「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す」と。
51年4月20日、聖教新聞は産声を上げた。
当初の発行部数は、5000部。旬刊(10日に一度の発行)、2ページ建ての紙面である。程なく編集室は、戸田会長が顧問を務める会社の事務所と同じ、東京・市ケ谷のビルへ。机二つでいっぱいの小さな部屋だった。
聖教新聞は、旬刊から週刊、やがて週3回の発行となり、65年(同40年)7月15日付から日刊となった。
当初、日刊化は10月からの予定だった。だが、「もう少し、早くできないだろうか」というのが、SGI会長の思いだった。
「学会の前進は、日ごとに速まっている」「会員の皆さんからも、このところ、毎日のように、日刊にしてほしいという要望がきている」(小説『新・人間革命』言論城)
後に、SGI会長は本紙への思いを、随筆にこう記している。
「『真実の言論紙』たる『聖教新聞』には、希望の太陽となって21世紀を照らしゆく使命がある。私も書く。断じて書き続ける」
◇小説・随筆など間断なき執筆
SGI会長は本紙を舞台に、小説をはじめ随筆や講義、詩や和歌の執筆などを間断なく続けてきた。
編集を担当した記者は、かつて会長から原稿を受け取った際の様子を、こう述懐する。
1980年(昭和55年)、宗門事件の余波が続き、学会への烈風が吹き荒れていたころのことである。
「池田先生は、原稿について何度も『これでいいか』と尋ねられました。
私がそのたびに『はい!』と答えると、再度、『本当にいいのか!』と強く言われました。そして次のように語られたのです」
「私は真剣勝負なんだ。学会員はひとたび社会に出れば、周りから批判をされたり、苦しい立場で戦っている。私は毎回、原稿を書く時、『これで、皆が本当に勇気を持てるのか。希望を持てるのか』——そういう思いで、命を削って書いているんだ」
「もし、君が原稿を見て、こうしてほしいとか、こうやればみんなが立ち上がれるとか、そういうところがあれば、何回でも、何十回でも書き直すつもりなんだ。何かあったら、どんどん意見を言いなさい」
81年12月、SGI会長の大分訪問に同行した記者は語る。大分もまた、悪侶の圧迫によって同志が苦しめられた地だった。
「朝、池田先生との懇談の機会に、青年部が指針を求めているとお伝えした人がいました。これを聞かれるやいなや先生は、『青年が待っているのか』と言われました。
そして、直後から怒濤の詩の口述が始まったのです」
「先生は、その場に青年部の幹部も呼んでくださり、先生の口からほとばしる言葉を、皆で書き取りました。さらにそれを、先生が推敲してくださったのです。
ものすごい勢いでした。青年のために、ここまでしてくださるのかと、本当に感動しました」
その内容は夜の会合で即座に発表された。そして翌日、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」として聖教に掲載されたのである。
間断なく続く言論の闘争。SGI会長は、その真情を、"わが愛する同志への手紙をつづる思いである"と記している。
◇各国の識者と語り未来を展望
SGI会長は、これまで54カ国・地域を歴訪。世界の識者と対話を重ねてきた。
中国の周恩来総理、統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領、ソ連のゴルバチョフ大統領らをはじめ、大学の学長や著名な芸術家、科学者、宇宙飛行士など、あらゆる分野の要人と会った。
全てが、世界に平和と文化と教育の橋を架けゆく言論の闘争であり、その語らいの内容は混迷の時代を照らす英知と啓発にあふれていた。聖教新聞は、そうした珠玉の語らいを伝えてきた。
"外交戦"の連続のなかにあっても、SGI会長の心には、常に聖教の読者があった。
ある識者との会見の折には、次のように語っている。
「きょうは私が"記者"となって、さまざまな質問をさせていただきます。聖教の多くの読者が紙面を待っているんです。楽しみにしているんです」
また、海外の識者の寄稿などが掲載された際には、深い感謝の思いを伝えることもあった。
世界に広がるSGI会長への信頼と友情のネットワークは、国際色豊かな紙面の原動力となっている。
かつてSGI会長は、聖教への期待をこうつづった。
「わが聖教新聞は、師弟の心の金剛不壊の絆であり、世界の民衆を結ぶ架け橋である。民衆の、民衆による、民衆のための、かけがえのない言論城なのだ」
「聖教よ、邪悪の闇を斬る、破邪顕正の宝剣たれ! 勝利の道を照らす、民衆の希望の灯台たれ! 世界を結ぶ、人間主義の哲学の旗手たれ!」
聖教は、今後もSGI会長の思想と行動を伝えるとともに、希望と幸福の哲理を世界へ発信していく。