わが地域こそ
広宣流布の本舞台だ。
足元から信頼の拡大を!
近隣から慕われる
誠実と真心の人たれ!
☆四季の語らい
「自分のために、皆を使おう」という心では、人も自分も伸びない。「皆のために、自分が戦おう」という心であれば、皆も伸びるし、自分も成長する。この微妙な一念の違いが、重大な違いをもたらすのである。
☆女性に贈ることば 四月十六日
「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きます。あわただしさのなかで、ただ追われる生活に流されてしまえば、大切なことまで見えなくなってしまいます。
その時こそ、「何のため」という問いかけを思い起こすことです。
☆今日のことば365 四月十六日
愛というものは、人間の内から発する真実の告白であるということだ。たんなる言葉だけの愛、あなたを利用して、自己を満足させればよいといった仮面の愛は、見破っていかねばならない。
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 開目抄� 2016年4月9日
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が佐渡に着いた直後から構想され、文永9年(1272年)2月に四条金吾を介して門下一同に与えられました。
題号の「開目」とは、文字通り「目を開く」ことであり、末法の一切衆生を救いゆく「大聖人に目を開け」との呼び掛けとも拝されます。本抄は、大聖人こそが末法の御本仏であることを明かされた「人本尊開顕の書」です。
当時、大聖人だけでなく、門下にも迫害が及び、弾圧を恐れた多くの門下が退転しました。
本抄では、当時、弟子たちが抱いていた"大聖人が法華経の行者であるならば、なぜ諸天の加護がないのか"等の疑問に対し、法華経を経文通りに実践すれば三類の強敵が競い起こることは必然であり、その通りの難に遭っている大聖人こそ真の法華経の行者であると示されています。
初めに、人々が尊敬すべきものとして主師親の三徳を示され、儒教・外道・仏教の主師親について述べられます。さらに、釈尊のあらゆる教えの浅深を検討され、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが成仏の法であることを明らかにされます。
そして、当時の諸宗が、謗法の教えによって人々を不幸に陥れていることを指摘し、こうした中で大聖人が妙法弘通に立ち上がり、大難を受けてこられたことを述べられます。
その上で、大聖人が法華経の行者であるならば、どうして諸天善神の守護がないのか、あるいは大聖人は法華経の行者ではないのか。本抄は、こうした門下の疑いに答える書であると示されます。
◇御文
『我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ』(P200)
◇通解
「我々のような力のない者が須弥山を投げることができたとしても、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って、劫火の中で焼けることはなかったとしても、また、我々のような無智の者がガンジス河の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることができたとしても、たとえ一句一偈であっても末法において法華経を持つことは難しい」と説かれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強い求道心をおこして、断じて退転するまい、と誓願したのである。
◇解説 不退転の決意が苦難を乗り越える力に
「誓願」こそ、法華経の行者の魂であり、日蓮仏法の根幹です。今回の御文の前段で日蓮大聖人は、立宗宣言の直前の模様を回想されています。
具体的には、諸宗が謗法の教えを説いて人々を悪道に堕とす悪縁となっていることを知ったのは、大聖人お一人であると述べられます。
この謗法を責めれば三障四魔が競い起こることは必然であり、しかし一方で、言わなければ無慈悲のゆえに無間地獄に堕ちることも経文に照らして明らかである——大聖人は、このように考えて、「言うべきである」と決心されました。
しかし、法を説き始めて権力者からの難を受け、その結果、退転するくらいなら思いとどまった方がよいと、思索を続けられます。こうした中で大聖人は、法華経宝塔品に説かれる「六難九易」を思い起こされます。
六難九易は、釈尊滅後に法華経を受持し弘通することがいかに困難であるかを示しています。これは、およそ不可能なことを九つ挙げて、法華経を受持・弘通する等の六つの事柄に比べれば、九つの方がまだ容易であるというものです。
掲げた御文では九易のうち、"須弥山を他方の無数の仏土に投げ置く""枯れ草を背負って大火に入っても焼けない"などが挙げられています。どれも、実現が不可能な難事です。しかし、これ以上に難事なのが、釈尊滅後に法華経を受持・弘通することなのです。それは、釈尊滅後に法華経を受持・弘通すれば、釈尊が受けた以上の激しい難を受けるからです。
その上で釈尊は法華経の会座で弟子たちに向かって、民衆救済のために滅後弘通の誓いを述べるよう促します。
大聖人は、この宝塔品の説法に込められた仏の民衆救済の心を思い起こし、「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ」との不退転の誓願を立て、末法広宣流布に立ち上がられました。「強盛の菩提心」とは、何があっても成仏を求めていく求道の心です。
大聖人は、どこまでも民衆救済を願う法華経の心に生き抜く中に成仏があると決めて、妙法弘通に立ち上がられました。この大聖人の広布の闘争を支えた原動力こそ、民衆救済の誓願です。誓願を立てて貫いていく中で、生命の奥底から限りない智慧や勇気が湧き、いかなる大難も乗り越えることができるのです。
栄光の「5・3」へ、師弟の誓願を貫き、広布の黄金の歴史をつづっていきましょう。
◇理解を深めよう 主師親の三徳
『夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり』(P186)——日蓮大聖人は本抄の冒頭で、一切衆生の尊敬すべきものとして、「主の徳」「師の徳」「親の徳」という仏の三徳を挙げられています。
主の徳は、人々を守る力・働き。師の徳は、人々を導き、教化する力・働きであり、親の徳は、人々を育て、慈しむ力・働きのことです。
この三徳を兼ね具えた存在は誰かを明らかにすることが、本抄全体のテーマの一つです。
本抄の結論部分で大聖人は、『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり』(P237)と述べられ、民衆救済へ戦い抜く御自身こそ、主師親の三徳を具えていることを断言されています。
法華経には仏の主師親の三徳が、それぞれ"この現実世界は、全て私の所有するところである""私一人のみが、彼らを救い護ることができる""その中の衆生は、ことごとく、わが子である"等と説かれます。
大聖人のお振る舞いで言えば、国土の安穏を実現するための立正安国の実践が主の徳、凡夫成仏の大法である南無妙法蓮華経を末法万年の民衆のために顕し残されたことが師の徳、さらに謗法を責めて民衆の苦しみを取り除かれた実践が親の徳に当たると拝せます。
末法の御本仏である大聖人をどこまでも尊び、御本尊への真剣な祈りを根本に、広布のため自行化他の実践に励む中に無上の幸福があると確信し、報恩感謝の心で前進していきましょう。
◇SGI会長の講義から
力なき凡夫でも、悪世において誓願をもって信を貫けば、自分の生命の奥底から仏界の力を涌現して、苦難を越え、自分を変革していける。
反対に言えば、どんなに"大力"の者も、"神通力"の者も、"智慧"者であっても、成し遂げ難いのが、一人の人間の生命の変革なのです。
仏教において「誓願」は、宿業の鉄鎖を切り、過去に縛られた自分を解放して、新しい未来に向かう自分をつくる力と言えます。仏の教えで自分を磨きつつ、確立した心によって、未来の自分を方向付け、それを実現していく努力を持続していけるのが「誓願の力」です。
誓願とは、いわば「変革の原理」です。
それは、自分自身の変革はもちろんのこと、薬草喩品の仏の誓願に見られるように、全民衆を変革していくための原理であると言えます。
(『開目抄講義』上巻)