2016年1月16日土曜日

2016.01.16 わが友に贈る

我らの対話は
「励ましの力」
「希望の光」
「生命蘇生の新風」
勇んで友のもとへ!

開目抄下 P236
『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり』

☆こころに響く言葉 人間にとっての出発点であり帰着点
人間であるということは、私たち人間にとっては、
いっさいの出発点であるとともに、
いっさいの帰着点であり、
あらゆる生き方の規範と言うべきであろう。
この自明の理が見失われ、どこかに置き忘れられているところに、
現代人の最大の不幸があるとも言えるのではあるまいか。

☆女性に贈ることば 一月十六日
どんなに忙しい毎日であっても、口元に出そうになる愚痴をニッコリと笑顔に変え、家族や周囲の人をほめたたえていけるような心のゆとりをなくさないでほしい。

☆今日のことば365 一月十六日
人の心の、移り変わりの激しさを、憤りたくなることがある。所詮、唯一人、強く生き抜くことだ。堂々と、伸びのびと、大地を闊歩して。

☆辻武寿指導の要点 胸中の御本尊
「我が如く等しくして異ならしむること無けん・・・如我等無異」とある。
「御本尊様、あなたと同じ命を私にも顕わせて頂けるのですか」と感謝して題目をあげていくべきだ。題目をあげていけば、我が身、南無妙法蓮華経になるのだ。
「皆成仏道の法華経と久遠實成の釈尊と我等衆生、全く差別なしと悟りて南無妙法蓮華経と唱うるところを生死一大事の血脈とは言うなり」とあるではないか。それを本当かなと思ったり疑えば、自分と御本尊は、もう離れている。差別ありとしているから血脈がうすい。したがって功徳も少なくなるのだ。
「此の御本尊全くよそに求むることなかれ、只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり」
と、我々自身の中に南無妙法蓮華経があるのだ。
しかし、その南無妙法蓮華経は、なかなか出てこない。出せない。出せないから凡夫というのだ。
では、どうすれば出るのか、それは声で出すのだ。
桜の花を見て「綺麗だなあ」、
月を見て、「いい月だなあ」
またゴキブリを見て「いやだなあ」と思うのも目で見る事によって、そうした生命が出るし、感じるのだ。
いい音楽を聞いて「ああいいなあ」。
また会長のテープを聞いて感激し決意する。
これは耳を通してそうなるのだ。
御本尊に対しては、声で関係するのです。即ち南無妙法蓮華経と声を出して唱える事によって、我が身の仏性が涌現するのだ。
「声仏事を為す」とある。題目をあげていけば仏性が涌現するのだ。爆発するのだ。
詐欺や泥棒に会えば、この野郎という命が爆発する。悩みの命が爆発すれば、自殺もする。
仏の生命や貧乏の悩み等、全て解決するのだ。
何故なら「いかなる病、障りをなすべきや」とあるではないか。貧乏は「幸を万里の外より集むべし」とある。「自我得仏来」だ。そのためには、いい加減な題目ではダメだ。誰かが与えてくれるだろうと思うのは間違いだ。それなら「他我得仏来」になる。そんなものではない。