「仏の力」は無限だ。
勇敢な信心たれ
その人が
必ず勝利する!
弥三郎殿御返事 P1451
『構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』
◇四季の語らい
最大の苦境の時にこそ、最大の勝利の因が刻まれる。
◇今日のことば365
青春は一生の土台を築く時代である。土台が、立派に仕上がっていなければ、その上に何を積み重ねても崩れてしまう。将来の、大きな花を咲かせるために、その土台を建設している時代だと思えば、勉強も、仕事も、すべてが有意義にならないわけがない。
利己主義のみでなく、つねに社会に目を開き、社会のなかで、自分を大きく成長させようという人生は、もっとも充実した、青春といえよう。
☆「指導者」 戸田先生の指導より
学会は指導主義である。指導と教授は違う。教授とは教えることであり、指導とは導くことである。創価学会は、最初から、御本尊を信ずることに導くのである。
したがって、御本尊を教えることは、第二次的なのである。しこうして、信じた後には、信心のあり方を進んで指導するのである。また、信仰即生活であることを指導して幸福へと導くのであって、指導者とは、一日も早く会員一同が、幸福であらんことを
願うべきである。
人生は険難であり、その行路は多難である。なかなか、普通の生命力では押し切っていけない。ゆえに、大指導者として、偉大なる御本尊の功徳を受けさせ、強き生命力を得させるように指導するのである。
されば、学会の指導者は、大御本尊のお姿を心の奥に刻みつけて、一般民衆の指導に当たらなくてはならない。
学会の指導者とは、なにをもって一般より高しとしうるのだろうか。いうまでもなく信心の力である。その人自身の持っている才能、財力、社会的位置等ではない。ただただ信仰の道においてのみであることを深く自覚しなければならぬ。
されば、大御本尊のこと以外においては、謙遜であって、決して傲慢な姿であってはならない。また、上長の位置を誇ることなく、なにごとも命令的であってはならぬ。指導である以上、相手の納得いくようにしてやらねばならぬ。そうして、御本尊の尊さ、功徳の偉大さを十分に納得させねばならぬ。
要するに御本尊を信ずる力と、慈悲とに満ちて、友として指導するものこそ指導者の自覚を得たものというべきではないか。
昭和30年3月1日
▽名字の言 2009.02.14
何のために信仰するのか。学会の歴史と精神とは。師弟不二とは。伝えるべき時機を逃さず、一つ一つ、丁寧に話していくしかない。さらに肝心なのは確信と情熱。懸命に祈り、戦う心、広宣流布への熱い心で語ることだ。その真剣さが若い命に届く。
大切な後継者だ。偉大な使命を持つ友だ。誠実にかかわり、創価のバトンを確実に手渡しする責任を果たしたい。
先生は「親から子へ、先輩から後輩へ、そして、師匠から弟子へ、正しい信念を、正しい哲学を、正しい信仰を脈々と継承していく−−そこにこそ、人間の最も崇高な永遠性の劇がある」と
さて、わが家は!