感謝の思いも
言葉に表してこそ。
「いつもありがとう」
「あなたのおかげです」と
心を込めて伝えよう!
種種御振舞御 P911
『さりし程に念仏者持斎真言師等自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎尼ごぜんたちにとりつきて種種にかまへ申す』
【通解】
時が推移してくると、念仏者や持斎や真言師等は、自分自身の智が及ばず、訴状を提起しても叶わなかったために、幕府上層部の尼御前たちに取り入って、日蓮に対する種々の讒言を構えた。
〈寸鉄〉 2018年3月29日
『新・人間革命』を学び歓喜の前進!青年を先頭に今こそ師弟の共戦譜綴れ
東京「目黒の日」45周年。有縁の地に人材城は盤石さあ勇敢に対話を拡大!
広布を支える支部長・婦人部長の奮闘光る。功徳燦然。朗らかに名指揮を
「強言なれども人をたすくれば実語」御聖訓。語り切れば必ず信頼が残る
昨年多発した異常気象による災害は温暖化が原因と。環境保全へ協働更に
☆友のもとへ 池田先生の激励行 第2回 草創の激闘の地 東京・文京(上)
◇支部長代理 就任65周年
◇"必ずこうする"と意地を出せ
「僕の懐刀を出そう」
65年前の1953年(昭和28年)4月初旬、戸田先生は文京支部の支部長を務めていた田中都伎子さん(故人)に語った。
文京支部は伸び悩んでいた。前月の折伏成果は、トップの蒲田支部と大きな開きがあった。
同年4月20日、戸田先生の命を受け、25歳の池田先生が文京支部長代理に就任。5日後、支部の班長会が開催された。
「一緒に題目を唱えましょう」——池田先生の提案で、題目を三唱したが、皆の声が揃わない。もう一度、やり直したが、まだ合わない。10回ほど繰り返し、ようやく声が揃った。
池田先生は語った。
「信心は呼吸を合わせることが大事です。皆の個の力は小さいが、力を合わせれば、一人の力が5にも10にもなる」
戦いの開始に当たって、祈りを根幹とした団結の重要性を強調したのである。
さらに、「文京は人柄がいい。しかし、それだけではいけない」と語り、「必ずこうなるのだ、こうするのだという意地を出そう」と訴えた。
いざ戦いとなれば、勝利への執念を燃やし、力強く前進する——その魂を、25歳の若き広布の闘将は、文京の友に打ち込んだ。
◆◇◆
前年の「二月闘争」で、池田先生は一人と会い、語り、励ますことに徹した。文京の戦いでも、率先して友の輪の中に飛び込んだ。
支部に所属する神奈川県の相模原や横須賀、保土ケ谷、静岡県の沼津、さらには長野県の松本にも足を運んだ。
先生は時を惜しむように、列車の中、駅のホーム、会合の帰り道など、あらゆる機会を捉え、友の心に勇気の炎を灯し続けた。
事業が行き詰まっていた経営者に対しては、「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず」(御書1192ページ)の一節を拝しつつ、人生には福運が大切であることを語り、「どこまでも信心根本に、前進しましょう」と激励した。
ある時は、青年に対して、列車を例えに、「一等車、二等車、三等車、どの列車に乗っても必ず目的地に着く。目的地に着けばよいのだ」と語り、環境や境遇に負けず、青年らしく、朗らかに人生を歩むことを望んだ。
こうした一対一の語らいと同時に、先生は座談会に全力を注いだ。折々に、文京の友に座談会の要諦を語っている。
�参加者が来てよかったと思う座談会�時代感覚を捉えた斬新な企画�中心者の話が一方通行にならないこと、などである。
先生は座談会に出席すると、"どうすれば幸福になれるか""学会員はなぜ喜々として活動するのか"などを理路整然と語った。率直な語らいを通し、慈愛を込めて信心を勧める姿に、多くの人が入会を決めた。
53年8月21日、樋田敏子さん(故人)の自宅で行われた座談会に、先生が駆け付けた。
長男の修廣さん(副本部長)は当時、中学1年生。終了後、見送りに立った。将来の決意を伝えると、先生は"ゆっくりでもいいから、地道に進んでいくんだよ"。シャツの胸ポケットにあったペンを手渡した。
「母がケガをした時も、先生はすぐお見舞いに駆け付けてくれました。こまやかな心遣いに感動しました」
その後、修廣さんは、3・16「広宣流布の記念式典」にも参加。社会や地域で実証を示してきた。
敏子さんの次男・隆史さん(副本部長)の妻である千佳子さん(総区婦人部総主事)は、女子部の部隊長に就いた折、文京の先輩から、部員のもとに足を運び、"皆で呼吸を合わせる"大切さを教わった。
84年(同59年)、文京区の区婦人部長に就任。直後、先生は「会員に尽くしていくんだよ」と励ましを送った。その原点を胸に、一人一人と誠実な語らいを重ねてきた。
広布に尽くした祖母と母の思いを継ぎ、4人の子も後継の道を歩む。
樋田宅は、現在も広布の会場として、文京の前進を支えている。
◆◇◆
池田先生が支部長代理として指揮を執り始めてから、3カ月後の7月。文京は140世帯の拡大を達成。8月には188世帯、9月には275世帯と、「壁」を破り始めた。
それでも、時には思うように弘教が進まないこともあった。焦る支部のリーダーに池田先生は語った。
「皆、よくやっているじゃないか。毎日、真剣に動いているじゃないか。いい支部なんだ、みんな戦っているんだ、という視点から、支部全体を見直してみてごらん」
リーダーは、はっとした。あの地区はもう一歩、この地区もまだまだ——そう思っていた。だが、違った。先生の激励を受け、行き詰まっていたのは、自身の一念であることに気付いた。こうした「一念の変革」のドラマが、支部の隅々で展開された。
53年11月1日、戸田先生が出席して、文京支部の第2回総会が開催された。その模様を本紙は、「破竹の勢い文京支部総会——前進、前進の合言葉で」との見出しで報道している。
短期間で、見違えるように元気になった文京の友。戸田先生は、池田先生に語った。
「大作、すごいじゃないか。文京は大発展した。すごい力になった」
その後も、破竹の前進は続いた。54年(同29年)7月、文京の集いに60人ほどの新来者が集まった。
急きょ、予定していた内容を変更。池田先生が担当し、新来者に仏法の偉大さを語った。40人以上の人が入会を決めた。
ある班では1カ月に42世帯の弘教を実らせた。意気揚々と会合に集う班のリーダー。だが、先生はたたえるどころか、声も掛けてくれない。彼は不満を抱えつつ帰った。
数日後、池田先生が彼のことを「よく頑張ってくれている」とほめていたことを、支部幹部から聞かされた。その時、リーダーは、慢心に陥っていた自分自身に気付いた。猛省し、決意新たに戦いを開始した。
◆◇◆
池田先生が支部長代理に就いた時、文京支部は約700世帯。7年後、先生が第3代会長に就任する頃には、約7万世帯と100倍の発展を遂げた。
会長就任直前の60年(同35年)4月、文京は「日本一」の拡大を成し遂げた。広布の実証で、師の会長就任を祝賀したのである。
この月、先生は田中支部長宅へ。当時、小学生だった長女の高木博子さん(区婦人部議長)も、その場にいた。
「"池田先生が会長になられる"と、集まった方々の喜びでいっぱいだったことを覚えています」
父・正一さん(故人)、母・都伎子さんの信心を受け継いだ。現在、地元町会で防火防災部長、会計として尽力。水泳のサークル活動を通して、友好の輪を広げる。2人の娘も、広布の人材に成長している。
母が晩年に語った言葉を、高木さんは心に刻む。
「先生が支部長代理になるまでは、"数"に追われる日々だった。先生が広布に生き抜く喜び、師弟の偉大さを教えてくださった」
「支部には頑固な人、個性の強い人もいたけれど、先生が皆のいいところを引き出してくださったのよ」
都伎子さんは亡くなる数年前、文京の青年部に、池田先生が語った言葉を伝えている。
「私と口をきいたこともないし、会ったこともない。そういう人の中に、本当に学会を守って、頑張ってくれている人がいるんだ。そういう人の信心が、私は本物だと思っている」