2018年3月18日日曜日

2018.03.18 わが友に贈る

今日から明日へ
強き祈りから出発し
毎日を誓いの原点に!
生まれ変わった決意で
挑戦の日々を歩もう

四条金吾釈迦仏供養事 P1146
『日蓮も又此の天を恃みてたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず』

【通解】
日蓮もまた、この天(日天子)を頼みとして、日本国と戦って数年になる。すでに日蓮は「勝った」という気持ちである。このように利生のはっきりしていることは、ほかに求められない。

〈寸鉄〉 2018年3月18日
皆が周囲の幸福に尽くす学会は平和の模範の団体—総長。偉大な誇り胸に
東京・杉並の日。信心とは勇気の異名なり!勇んで対話に走る創価の名門よ
福井婦人部の日。郷土に友情の花は爛漫。信強き母達ありて幸の城は盤石
ストーカーの被害相談が過去最多と。女性の10帰運動を励行。幹部は配慮
日顕宗坊主が供養収奪に蠢く彼岸。謗法への布施は与同罪に。共々に銘記

☆3月度座談会拝読御書 寂日房御書
一人一人が尊い誉れの大聖人門下
地涌の菩薩の自覚で勇んで広布の拡大へ

◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が弘安2年(1279年)9月16日、弟子の寂日房を介して在家の門下に送られたお手紙です。
内容から、お手紙を頂いた人は、大聖人の御両親との縁がある女性門下であると推定されます。その縁故から、この女性は大聖人の故郷の安房(千葉県南部)方面に住む人である可能性が高いと考えられます。
本抄の最後で大聖人は、衣が肌を覆い隠すように、死後も自身の身を包み守ってくれるのが御本尊であるとされ、妙法の現当二世にわたる功徳を説かれています。このことから、大聖人は御本尊を、この女性門下に授与されるに際し、本抄を送られたと拝察することができます。
本抄は、大聖人が地涌の菩薩の上首(指導者、中心者)である上行菩薩に当たることを示され、師匠である大聖人と共に妙法弘通に生き抜く尊さを教えられています。

拝読御文
『かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり』御書全集 903ページ7行目〜9行目

◇上行菩薩
上行菩薩は、法華経従地涌出品第15で出現し、如来神力品第21で釈尊から仏滅後における仏法弘通の使命を託された地涌の菩薩の上首です。
従地涌出品で、他方の国土からきた菩薩たちが釈尊に仏滅後の法華経弘通を申し出ますが、釈尊は「止みね。善男子よ」(法華経451ページ)と、その申し出を厳しく退けます。そして娑婆世界には六万恒河沙という無数の菩薩がいて、その菩薩たちこそが仏滅後に法華経を弘めるのであると宣言します。
その時、娑婆世界の三千大千世界が震動し、大地の下から涌出してきたのが地涌の菩薩です。この菩薩の身は金色であり、三十二相を備え、釈尊よりも偉大な姿であったと説かれています。
如来神力品で釈尊は、無量無数色の光を放って十方世界を照らすなどの十神力を現した後、地涌の菩薩に法華経の要法を付嘱します(これを結要付嘱といいます)。この「法華経の要法」とは、法華経の文の底に秘し沈められた、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経のことであり、その弘通を上行菩薩に託したのです。
この結要付嘱は重大な意味をもっています。仏滅後なかんずく末法には地涌の上首である上行菩薩が出現して南無妙法蓮華経を弘通することを予言する内容になっているからです。
つまり結要付属は、釈尊から地涌の菩薩、なかんずくそのリーダーである上行菩薩へと教主が交代することを示す儀式といえます。
この法華経の予言通りに上行菩薩として末法に出現し、南無妙法蓮華経の大法を弘通されたのが、末法の御本仏である日蓮大聖人です。

◇誓願
「法華経を弘むべきなり」(御書903ページ)と仰せのように、拝読御文は、人々を救う広宣流布の実践を門下に教えています。
仏や菩薩が民衆を幸福にしたいと誓い、その成就を願う「誓願」——釈尊は法華経において、「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(法華経130ページ)という誓願を胸に仏法を弘めてきたことを明かしています。
この言葉は、全ての人を自身(釈尊)と同じ仏にして異なることがないようにしたいという意味です。すなわち、万人の生命に具わる仏の境涯を開かせたいとの趣旨です。
また、法華経如来寿量品第16の最後には、釈尊の永遠の願いが、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(同493ページ)と述べられます。「仏は常に、どのようにすれば、衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏の身を成就させることができるかと念じている」という意味です。
法華経では、さらに釈尊滅後の悪世に妙法弘通を担う地涌の菩薩が登場します。如来神力品第21で地涌の菩薩は、滅後弘通を勧める釈尊に応えて、成仏の肝要の法を人々に教え弘めていくことを誓願します。
そして末法において、日蓮大聖人は自らが地涌の菩薩であるとの自覚に立ち、どこまでも民衆救済の誓願を貫いて大難を乗り越え、御自身の生命に仏の境涯を開き、末法広宣流布を進められました。
大聖人の仏法は「誓願の宗教」です。人々を苦悩から救おうとする誓願を何があっても貫く中に、自らの一生成仏と広布の前進があり、民衆の幸福の拡大があるのです。

◇「日蓮と同じく」
日蓮大聖人は諸御抄で繰り返し、門下に向かって"私と共に広布に進もう"と呼び掛けられています。こうした呼び掛けは、拝読御文の「日蓮と同じく」(御書903ページ)との仰せのほか、例えば次のような御金言があります。
「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(同989ページ)
「日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同1360ページ)
これらの仰せには、仏法の根幹ともいうべき"師弟の精神"が脈打っています。
そもそも法華経には、師である仏の心が、次のように描かれています。
"一切衆生を自身と等しい仏の境涯にまで高めたい""師である仏と同じ側に立って、民衆を救いゆく「不二の弟子」の生き方を歩んでほしい"と。
創価学会は草創以来、「日蓮と同じく」「日蓮が如く」との仰せの通り、末法の御本仏である大聖人を根本の師と拝し、大聖人の御精神を体現した三代の会長を師として広布への前進を続けてきました。
創価学会は、"師弟の道"を貫いてきたゆえに、大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布(世界広宣流布)を現実のものとすることができたのです。

★池田先生の指針から 人々の幸福に尽くす最極の人生
日蓮大聖人は、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書903ページ)と仰せである。
広宣流布こそ、大聖人の大願であり、その実践にこそ、門下の根本要件がある。したがって、日蓮仏法の仏道修行とは、自行化他であり、布教が不可欠な実践となるのである。
日興上人の御遺誡にも、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(同1618ページ)とある。広宣流布に生き抜く人こそが、本当の大聖人の弟子であり、信心の継承者となるのだ。
いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した"死せる宗教"に等しい。
広宣流布の使命を自覚し、人びとに救済の手を差し伸べる、弘教という行動のなかに、大聖人の大精神が、地涌の菩薩の大生命が脈動するのである。(小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章)
◇ ◆ ◇
「あなた方が法華経の行者と言われていることは、もはや不運なことである」と仰せです。ここでは大聖人の門下となり、法華経のゆえに難を受けることは、世間の価値観からすれば不運であり、災難であるとの趣旨です。
しかし、仏法の眼から宿縁の深さを見る時、地涌の菩薩として大聖人の御精神の通りに、広布に前進できること以上の喜びはありません。使命の道を貫くがゆえに、大闘争の途上において難に遭うことは、必然の名誉であり、ゆえに、決定した信心に立つことが重要となるのです。
私たちは、どこまでも「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」との仰せのままに、縁する友に仏法を語っていくのです。
この世に生まれて、人々の幸福に尽くし、多くの人から「あなたのおかげで救われた」と言われる貢献の人生を歩むことができる。ここに人間としての最も尊い価値があります。(中略)
大事なのは、相手が信心してもしなくても、誠実に堂々と仏法を語り抜くことです。粘り強く、真心を込めていくことです。そうすれば、相手の生命に植えた仏の種は、必ず大きく育っていくのです。(『信仰の基本「信行学」』)

参考文献
○…『希望の経典「御書」に学ぶ』第3巻、「寂日房御書」(聖教新聞社)
〇…『信仰の基本「信行学」』51ページ(同)