2018年3月6日火曜日

2018.03.06 わが友に贈る

季節の変わり目。
激しい寒暖差に注意し
賢明な体調管理を
誓願の祈りも強く
はつらつと進もう!

四条金吾殿御返事 P1164
『すこしもへつらはず振舞仰せあるべし』

【通解】
少しもへつらわずに振る舞い、語っていきなさい。

〈寸鉄〉 2018年3月6日
世界に向かってまことの信心の力を示す時—戸田先生。これ後継の大使命
一対一の対話こそ友情の実行と成就に欠かせない—哲人。颯爽と友の中へ
「年は・わかうなり福はかさなり」御書。信心一筋の多宝会は"幸齢社会"の鑑
利他の行動の源は「痛み」の脳領域に—研究。今の苦闘がわが人格を錬磨す
"冬春同居"、融雪による雪崩、屋根からの落雪等に警戒。「前前の用心」を

☆藍よりも青く 「3・16」研さんのために 池田先生の指針に学ぶ 下 2018年2月24日
◇自分の中に学会がある
世界の池田門下の青年たちが、「世界青年部総会」へ向けて、広布拡大に駆けている。ここでは、前回に続き、「3・16」に関する池田先生の随筆やスピーチ等を、後継の誓いに燃える友の指針として紹介する。また、長谷川理事長に「3・16」の精神などについて聞いた。

◇毎日が決意の出発
師匠の教えを実現してこそ弟子である。誓いを果たしてこそ弟子である。そこに、私の最大最高の誇りがある。
日蓮大聖人は、「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231ページ)と仰せである。
決意の一念が、現在の行動が未来を決する。
「3・16」とは、弟子が立ち上がる、永遠の「本因の原点」の日だ。
私にとっては、毎日が新しき決意の出発であり、毎日が「3・16」であった。
(『池田大作全集』第129巻所収、随筆「新・人間革命」 「3・16」の大儀式を偲びつつ)

◇重厚な人材群
青春には翼がある。嵐の海をも過り、天空の奥まで翔ける。
青空には果てがない。青春の力にも限りがない。
青空は世界を包む。青年の気概には全世界さえも狭い。
たとえ雲厚くとも、天の高みには「永遠の青空」が輝いている。
広布の遠征に風強くとも、「永遠の青春」の翼ある限り、目的地へと烈風をも自在に操れる。
学会の「永遠の青春」の原点。師から弟子へ、生命から生命へ、御本仏の御遺命たる「世界広宣流布」への魂を伝えゆく日、それが「3・16」である。
三十三年前(一九五八年=昭和三十三年)のこの日、恩師のもと、広布の模擬的儀式が行われた。
六千の地涌の若人の集ったこの日を、私どもは「広宣流布記念の日」と名づけた。
この年の初め、恩師はつぶやいた。
「もう何もいらない。ただ、人材が欲しい」
今、私もまったく同じ気持ちである。いな戦野が世界に広がった現在、それ以上に、何百倍、何千倍の重厚な人材群が必要となっている。
(1991年3月16日付聖教新聞、池田先生のメッセージ「『魂の炎のバトン』を君たちに」)

◇誇り高き魂
五十年前の三月十六日も、わが音楽隊、わが鼓笛隊の友は、「少しでも師匠に喜んでいただきたい」「同志を鼓舞したい」と、渾身の演奏を続けてくれた。
この日、儀式の場には入らず、終日にわたって駐車場でバスの整理や警備に当たった青年もいる。人知れぬ陰の舞台で、幾多の精鋭たちが、私の分身となって同志に尽くし、この歴史的行事を美事に無事故で運営してくれた。
師を思い、心で題目を唱え、真剣に大成功と無事故を祈り抜きながら——。
この誇り高き「3・16」の魂が、創価班、牙城会、白蓮グループなど、学会の宝の人材群に厳として受け継がれていることが、私は何よりも嬉しく、何よりも頼もしい。
(『池田大作全集』第139巻所収、随筆「人間世紀の光」 永遠の師弟の原点「3・16」)

◇連続勝利のリズム
式典から満一年の三月十六日。私は恩師を偲び、青年たちに万感の心を語った。
「この日を、広宣流布への記念の節にしていこう。青々とした麦のような青年の季節たる三月に、師のもとに青年部が大結集したことに、不思議な意義があるんだよ」
さらに、私は、二周年の三月十六日には、創価学会は、「3・16」「4・2」そして「5・3」と、連続勝利のリズムで、永遠に勝ち進むことを宣言したのである。
勝つことこそが、後継の最大の証であるからだ。
仏典には、仏の尊称として「戦勝」「勝導師」「勝陣」「健勝破陣」等々と説かれている。すべてを勝ち切っていく最強最尊の人間王者こそが、「仏」なのである。
(『池田大作全集』第138巻所収、随筆「人間世紀の光」 「3・16」に弟子は立つ)

◇主体者の自覚
私は、今、わが弟子である全青年部員の、広布に戦う尊き一人ひとりの頭に宝冠を捧げたい心境である。
ともあれ、戦いに勝ってこそ、栄えある後継の冠を受ける資格がある。
そのために大事なことは、第一に、生涯にわたって、仏勅のわが学会と共に生き抜いていくことだ。
生涯、わが使命を貫き、信念の大道を堂々と走り抜いた人には、なんの悔いもない。
古代中国の歴史家・司馬遷が叫んだごとく、「万ず戮せ被ると雖ども、豈に悔い有らんや」(必ず殺されようとも、どうして後悔などしようか)である。
第二に、広宣流布の全責任を担って立つことである。
「学会の中に自分がある」のではない。「自分の中に学会がある」という、主体者の自覚が大事なのである。
青春時代より、私も、そうしてきた。たとえ、役職が最前線の一幹部であっても、学会のことは全部、わが課題であるととらえ、どうすれば一番、広宣流布が進むのかを悩み、考え、祈った。
また、戸田先生ならどうされるだろうか、どうお考えになるだろうかと、広宣流布の大将軍である先生のお立場に立って、万事に対処していった。それが、勇気ある広宣流布の王者の道である。
(『池田大作全集』第130巻所収、随筆「新・人間革命」 創価の戴冠式「3・16」)

◇会座は永遠
創価学会の「宗教界の王者」の大行進は、あの昭和三十三年(一九五八年)の三月十六日、戸田城聖先生と私たちの峻厳なる師弟の誓願から始まったのだ。
そして、新たな五十年へ、壮大な勝利の大遠征が、今、私と君たち本門の青年部との不二の結合によって始まっているのだ。
「御義口伝」には「霊山一会儼然未散」(霊山一会儼然として未だ散らず=御書757ページ)と引かれている。
過去、現在、未来を貫いて、師と共に広宣流布を誓い、決然と師子奮迅の行動を起こしゆく生命の中に、「三・一六」の会座は永遠に蘇り、継承される。
その弟子の赤誠をば、師は王者の山・富士の如く厳として見守っているのだ。
(『栄光への指針』)