一つの出会いを大切に。
こちらが心を開けば
相手の心の扉も開く。
満々たる生命力で
周囲に友好の春風を!
四条金吾殿御返事 P1169
『夜廻の殿原はひとりもたのもしき事はなけれども法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をばみずきかずあるべし』
【通解】
夜廻りをしている同志の人たちは、一人も頼りがいがあるとはいえないが、法華経のために屋敷を取られた人々であるから、常に親しくしていきなさい。夜の用心のためにもなり、また殿の守りにもなるであろう。わが味方の人々のことは、少々の過ちがあっても、見ず聞かずのふりをしていきなさい。
〈寸鉄〉 2018年3月24日
どんな立場の人にも学会の真の姿を堂々語れ!—戸田先生。勇気と誠実で
福井師弟原点の日。関西の「北の砦」は厳然。常勝新時代の先駆けと光れ!
「智者とは世間の法より外に仏法を行ず」御書。信心即生活の実証の旗高く
小学1年の交通死者数は小学6年の8倍—調査。家庭や地域でも注意喚起
架空請求のハガキが頻発「訴訟最終告知」等の悪質な手口。声掛け合い撃退
☆「春季彼岸勤行法要」のために 2018年3月20日
「刑部左衛門尉女房御返事」
『一代聖教を■(てへんに檢のつくり)へて母の孝養を仕らんと存じ候間、母の御訪い申させ給う人人をば我が身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間あらあら・かきつけて申し候なり、定めて過去聖霊も忽に六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん、此の法門を知識に値わせ給いて度度きかせ給うべし』(1401ページ6行目〜9行目)
◇本抄について
弘安3年(1280年)10月の御述作とされる本抄は、尾張国(現在の愛知県)に住んでいたと考えられる刑部左衛門尉の妻が、母親の十三回忌に際して、日蓮大聖人へ銭二十貫文を御供養したことに対する御礼の返書です。
この中で大聖人は、父母の恩の中でも、母の恩がとりわけ大きいことを明かされた上で、内外の経典にも報恩の道は説かれているが、母の大恩に報いる真実最高の孝養は、万人成仏を説いた法華経以外にないことを示されます。そして、亡き母の追善を願う刑部左衛門尉の妻の心を称賛され、法華経によって追善供養することこそが真の孝養であることを教えられています。
◇追善回向の本義
日蓮大聖人は拝読御文で、"釈尊の教えの中で最もすぐれた法華経によって、(御自身の)母への孝養をしようと思っていた"と御自身の素直な心情を綴られています。そして、その法華経によって亡き母の追善供養を願った刑部左衛門尉の妻に対して、"亡くなられたあなたのお母さまの聖霊も、たちまちのうちに、苦悩に満ちた穢土を離れて、霊山浄土に参られるでしょう"と述べられ、包み込むように励まされています。
ここで、追善とは、故人に対して、故人が生前に積んだ功徳に追加して、遺族などが功徳を回向することをいいます。また、回向とは、"回らし向ける"こと、すなわち自身が仏法を実践・修行した功徳を、他の人々へ手向けることです。
真の回向は、法華経(その真髄である南無妙法蓮華経)を信じ実践する功徳によって可能であることは、御書に照らして明らかです。
ゆえに、私たち自身が妙法を信じ、仏道修行に励むことで境涯を開き、偉大な功徳をわが身に具えるとともに、その功徳善根を故人に回らし向けていくのが、日蓮仏法における「追善回向」にほかなりません。
御書に「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」(1429ページ)とあるように、「追善回向」の本義は、私たち自身が御本尊を信じ、今世の成仏を目指して信心に励んでいくことにあります。
現代において、大聖人の御遺命である広宣流布を進めているのは、創価学会しかありません。
この仏意仏勅の和合僧団の中で、勤行・唱題をはじめとする信心の実践に励んでいくことが、故人に対する最高の追善回向なのです。
◇「父母の恩」に報いる
本抄では、親への孝養の大切さを述べるに当たり、子を産み育てる親の労苦が具体的に描かれています。そうした苦労を踏まえて「父母の恩」を示された上で、拝読御文の直前では、「日蓮は、母の存命中、母の言うことに背いてばかりいたので、先立たれた今になって、深く後悔しています」(1401ページ、通解)と、御自身のことを顧みられています。
現実には、大聖人は親孝行をしなかったわけではありません。文永元年(1264年)には、病身の母を見舞うために、故郷の安房(現在の千葉県南部)へ足を運ばれています。そして、大聖人の祈りによって、「(母は)4年の寿命を延ばしました」(御書985ページ、通解)と仰せになっています。そこまでしていながらも、「もっと親孝行をしたかった」と振り返られる大聖人の言葉に、どこまでも母を思う温かなお心が伝わってきます。
池田先生は、「報恩の人生に、行き詰まりはありません。父母や師匠をはじめ、今の自分を築かせてくれた一切の人々への感謝と報恩の決意が、自身を向上させる原動力となります」と述べています。
親の恩に報いるために孝養に励むことは、人間として大切な徳目の一つです。
「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり」(同1528ページ)。万人成仏を説く法華経こそ、最高の父母孝養の経です。だからこそ、大聖人は、最もすぐれた法華経をもって母への孝養を果たそうとされました。
自身を生み育ててくれた親への感謝を胸に、私たち自身が広布のために尽くし抜いていく——そこに真の孝養の道があることは、御聖訓に照らして間違いありません。
◇悪侶に供養すれば悪道に
葬儀や法要、戒名などの化儀を悪用し、仏法を醜い金もうけの道具にしているのが「日顕宗」です。"坊主を呼んで追善しなければ成仏しない""塔婆を立てないと追善回向できない"などと日顕宗は主張しますが、それらは御書に一切書かれていない邪説です。これらの化儀は日蓮大聖人御自身が定められたものではなく、後の時代に作られたものにすぎません。
御書に、「亡くなった御尊父は、存命中に南無妙法蓮華経と唱えたのですから、即身成仏の人なのです」(1423ページ、通解)等とあるように、大聖人は、各人の成仏は生前の信心・実践によることを強調されています。
言葉巧みに仏法を利用して供養集めをする日顕宗。堕落した悪僧を、大聖人は「法師の皮を著たる畜生」(同1386ページ)、「食法がき」(同1111ページ)と痛烈に破折されました。
大聖人が、「たとえ供養しても、真実でないことに供養すれば、大悪とはなっても善とはならない」(同1595ページ、通解)と仰せの通り、謗法に供養することは、かえって自身が悪業を積むことになります。
広布を破壊し、大聖人の教えに違背する日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となります。謗法への布施を断つことは、日蓮仏法の本義にかなった正しい実践です。
★池田先生の指針から
題目の力は、計り知れないほど大きい。私たちが唱える題目の"光明"は、全宇宙のすみずみにまで届き、無間地獄の境涯で苦しむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。
「さじき女房御返事」には、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(御書1231ページ、通解)と仰せである。広布に生きる信心の偉大な功徳は、亡くなった人や、子孫末代にまでも伝わっていく。
真の追善は、妙法によるしかない。妙法の功力は、今世だけでなく、三世にわたって人々を救いきっていくからである。(『池田大作全集』第100巻)
◇ ◆ ◇
「霊山浄土」は、信心を貫き通して、一生成仏を果たした人が、等しく到達できる大境涯の仏の世界である。
したがって、そこでは、深き生命の次元で、師弟が出会い、親子・夫婦・兄弟が出会い、わが同志たちが出会うことができる。これが真実の法則なのである。
たとえ、今世で相まみえることができなかったとしても、「霊山浄土」において、妙法の師弟、妙法の同志、妙法の家族として巡り会うことができるのである。
これが真実の生命の実態なのだ。(2006年9月22日付、「霊鷲山」と「彼岸」を語る)