苦難や逆境と闘う友よ
我らには信心がある。
試練の「冬」は必ず
栄光の「春」となる!
今こそ大確信の題目を!
盂蘭盆御書 P1430
『悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代下七代上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う』
【通解】
悪の中の大悪は、その報いの苦しみを、わが身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのである。
善の中の大善もまた同じである。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのである。
また上七代、下七代、上無量生、下無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである。
〈寸鉄〉 2018年3月22日
学会には最良の社会を築こうとの目的と行動が—識者。絆結ぶ語らい更に
関西男子部の日。勇将よ新たな拡大の金字塔を!不撓不屈こそ常勝の魂と
「法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して」御書。誠実・忍耐こそ対話の要
個人を狙うサイバー攻撃が増加。怪しいメールは絶対開くな。警戒忘れず
子の将来不安、親の7割と。だから今戦うのだ!輝く未来を大人の責任で
☆世界宗教の仏法を学ぶ 池田先生の指導・励ましから 第2回 衆生所遊楽——揺るぎない大境涯の確立
連載「世界宗教の仏法を学ぶ」では、池田先生の指導や励ましを教学のテーマ別に紹介。併せて、それらに関する仏法用語や日蓮大聖人の御書などを紹介します。第2回のテーマは「衆生所遊楽」です。
小説「新・人間革命」第26巻「法旗」の章
【あらすじ】1978年(昭和53年)1月6日、新春本部幹部会で広布第2章の「支部制」の実施が発表される。山本伸一会長は、1月14日には、東京・立川文化会館で行われた第2東京本部の婦人部勤行会に出席。伸一は、婦人部の小単位の学習・懇談に一段と弾みをつけ、皆が歓喜の信心に励めるようにと願い、語り掛ける。
「われわれは、なんのために、この世に生を受けたのか——」
一瞬、場内は静まり返った。思案顔の人もいれば、早く伸一の次の言葉を聞きたいと、瞳を輝かせる人もいた。
「それは、『衆生所遊楽』と御書にもあるように、この人生を"楽しむ"ためであります。そして、苦渋の人生から、遊楽の人生へと転換していくための信心なんです」
ここで伸一は、遊楽へと転ずる具体的な実践が、御本尊への唱題であると結論を述べたうえで、その原理を明らかにしていった。
「御本仏の生命の当体である御本尊に、南無妙法蓮華経と題目を唱えていくならば、自身の生命が仏の大生命と境智冥合していきます。それによって、己心に具わっている仏の生命を開いていくことができるんです。
その生命境涯が『四徳』、すなわち『常楽我浄』であると説かれています。
『常』とは、常住であり、仏、衆生の心に具わる仏の生命は、三世永遠であることを示しています。『楽』とは、苦しみがなく、安らかなことであり、『我』とは、何ものにも壊されない強靱な生命です。『浄』とは、この上なく清らかな生命をいいます」
自身の胸中に、「常楽我浄」の生命が滾々と湧き出ているならば、何ものをも恐れず、何があっても、悠々と、歓喜にあふれた日々を送ることができる。
伸一は、仏法で説く「遊楽」とは、単に財産や地位、名声、技能などがあるということでもなければ、健康であるといった相対的なものでもないと述べた。そして、それは、自らの生命の奥底から湧きいずる充実と歓喜であり、絶対的幸福境涯であると訴えた。
「皆さんは、ご主人の月給がもう少し高ければとか、もっと広い家に住みたいとか、子どもの成績がもっと良ければなど、さまざまな思いをいだいているでしょう。
その望みを叶えようと祈り、努力して、実現させていくことも大切です。しかし、最も大事なことは、どんな大試練に遭遇しても、決して負けたり、挫けたりすることのない、自身の境涯を築いていくことです。
すべての財産を失ってしまった。大病を患ってしまった。最愛の人を亡くしてしまった——そんな事態に遭遇しても、それを乗り越え、幸福を創造していける力をもってこそ、本当の遊楽なんです。
日蓮大聖人は、いつ命を奪われるかもしれないような佐渡流罪の渦中にあって、『流人なれども喜悦はかりなし』(御書1360ページ)と言われている。この大境涯の確立こそ、信心の目的なんです。
したがって、遊楽の境涯には、広宣流布のために、大難にも堂々と立ち向かっていく勇猛心が不可欠なんです。勇猛心なきところには、崩れざる遊楽はありません」
理解を深めるために
●「楽しむために生まれてきた」
ここでは仏法で説かれる「衆生所遊楽」という言葉について説明します。
法華経如来寿量品第16には、「衆生の遊楽する所なり」(法華経491ページ)とあります。「衆生」とは凡夫、「遊楽」とは遊び楽しむことで幸福境涯を指し、「所」とは娑婆世界(現実社会)のことです。
法華経以前の爾前経では、仏の住む世界を「浄土」とし、苦悩に満ちた現実世界である「穢土」とは懸け離れた別世界であると説いてきました。それに対して、法華経では、仏は娑婆世界に常住するのであり、この娑婆世界が実は、衆生が楽しむ所であると説き明かしたのです。
第2代会長の戸田城聖先生は、「衆生所遊楽」の経文を通して、「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです」と語られていました。
池田先生も、「仏の眼で見るならば、また衆生が胸中の『仏の境涯』を開くならば、この娑婆世界が即、衆生の遊楽する楽土となる。いわば、この世の舞台で、私たちは『楽しく生きぬく』という人生の劇を演じているのです」と語っています。
私たちは本来、誰もが悠々と人生を"遊び楽しむ"力を持っています。幸福になるために、私たちは生まれてきました。どんな苦難をも勝ち越えゆく力——その偉大な"生命の力"を引き出すための実践が「信心」なのです。
日蓮大聖人の御書から 「四条金吾殿御返事」について
●「苦楽ともに」思い合わせた祈り
日蓮大聖人は、「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」の中で、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云、此の文・あに自受法楽にあらずや」(御書1143ページ)と仰せです。
また、同じ御書で「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(同ページ)とも述べられています。
四条金吾が、このお手紙を頂く2年前、金吾は主君の江間氏を折伏したことを機に、主君から遠ざけられてしまいました。さらに、金吾に嫉妬していた同僚からの讒言などによって、江間家の中で苦しい立場に立たされていたのです。
大聖人は、苦境のまっただ中にあった金吾に、深き信心を起こして南無妙法蓮華経と唱える以外に真の遊楽はないことを強調され、そこに法華経に説かれる「衆生所遊楽」の本当の意味があることを教えられています。
この大聖人の指導を忠実に守り、実践していった金吾は、主君からの信頼を回復し、それまでの3倍の領地を賜るなど、勝利の実証を示していったのです。