2018年1月26日金曜日

2018.01.26 わが友に贈る

時代は深く強く
仏法を求めている。
信念貫く振る舞いが
共感と納得を生む。
善の連帯を広げよう!

四条金吾女房御書 P1109
『夫婦共に法華の持者なり法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ』

◇寸鉄 2018年1月26日
提言を発表。「人権の世紀」の建設へ。大生命哲学語る青年が時代の最先端
東北女性の日。負けじ魂で進む太陽の友!わが地域に励まし対話の大光を
真の幸福は土地を選ぶものではない—詩人。環境ではなく自身の変革から
折伏は慈悲の行為である—戸田先生。勇気即慈悲の確信で勇み友のもとへ
記憶力向上などをうたう医薬品の規制強化と。依存症等の危険周知も急げ

☆虹を懸ける 池田先生と香港� 2018年1月18日
◇励ましの世界を広げよう
世界広布は今、池田先生と同志の絆によって、192カ国・地域へと広がった。あの国にも、この地にも、先生の励ましの足跡が刻まれ、師との原点を胸に「友情の虹」「幸福の虹」「平和の虹」を懸けてきた、誇り高き地涌の友がいる。本連載では、世界宗教として、大いなる飛翔を果たしたSGIの師弟のドラマを紹介する。

戸田先生は詠んだ。
「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」
日蓮大聖人の未来記である「仏法西還」、そして恩師が遺命された「東洋広布」は、香港から始まった。
日中に友好の橋を架ける初の中国訪問も、出発地は香港だった。
今や58カ国・地域の194大学と学術交流協定を結んでいる創価大学の第1号の締結校は、香港中文大学。海外初の創価幼稚園の開園も香港である。
まさに名実ともに、アジアにおける平和・文化・教育運動の起点となった香港。先生の訪問は20度に及ぶ。

◇団結は拡大の力
諸天も寿ぐ快晴に包まれた1961年1月28日。池田先生を乗せた飛行機は香港に向かって離陸した。
この前年、第3代会長に就任した先生は、北・南米指導へ。世界広布のうねりが高まる中、次なる焦点と定めたのがアジアだった。
約5時間後、九龍半島の啓徳空港に降り立つと、送迎デッキから手を振る同志の姿が。当時、現地の会員は10世帯ほどだった。
その夜。香港で初めての座談会が先生一行を迎えて行われ、アジアで第1号となる地区が結成された。
集ったのは十数人。日本で入会はしたが、組織もなく、大半が自分なりの信心を実践してきたメンバーばかりだった。勤行を「キンコウ」と言い間違える人がいたほどである。
先生は同志の質問に答えつつ、信心の要諦を示していった。
「人間が成長していくには、独りぼっちではなく、互いに切磋琢磨していくことです。特に信心の世界にあっては、常に連携を取り合い、励まし合っていける同志が大事になります」「皆で力を合わせれば、大きな力になる。団結の力は足し算ではなく、掛け算なんです」
学会は、どこまでも励ましの世界である。そして、真の団結は、何倍、何十倍という勢いを生む——先生の指導は明快だった。
終了後、ホテルに戻った先生は、遅くまで「大白蓮華」の巻頭言の執筆に当たった。タイトルは「東洋広布」である。
翌日には、次の目的地であるセイロン(現・スリランカ)へ。以降、インド、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、カンボジアを歴訪し、2月13日には再び香港に戻った。
歴史的なアジア平和旅は、香港に始まり、香港に帰着した。
香港はアジア広布の「原点」となり、「玄関」ともなっていったのである。

◇強く生きるのだ
1年後、香港は倍増以上の発展を見る。中東からの帰途に立ち寄った先生のもとには、40人ほどの友が駆け付けた(62年2月)。
日本に帰国するまでのわずかな滞在だったが、空港内の一室で香港支部の結成が発表されると、皆の喜びは最高潮に達した。
さらに63年1月、64年の5月と10月にも、先生は香港を訪れている。この時、案内役を務めたのは、初代理事長の故・周徳光さん。草創の忘れ得ぬ功労者の一人である。その歴史は、小説『新・人間革命』第7巻「早春」の章などに詳しい。
周さんは九州出身。若き日に日本から中国へ渡り、戦後に移り住んだ香港で信心を始めた。貿易会社を営む多忙な日々の中、妻の周余佩珍さん(香港婦人部最高参与)と二人三脚で香港広布に奔走。東南アジアに点在する同志の激励にも献身してきた。
「いつも両親から信心の素晴らしさ、先生の偉大さを聞かされてきました。一家で先生とお会いした思い出は生涯の宝です」。そう語るのは、長女の呉周鳳兒さん(本部副婦人部長)。父に続いて家族と共に入会し、先生と初めて出会ったのは、10代の時だった。
以来、一貫して学会の庭で成長し、まだ少なかった女子部の同志と仲良く信心に励んできた。
次に先生が香港に足を運んだのは、74年である。それを見届けた父は、天寿を全うし、霊山へと旅立った。
後年、先生は周さん宅を訪れ、追善の勤行を。「母子して 諸仏に守らる 金の家」と色紙に揮毫し、居合わせた家族に真心からの励ましを送った。
「後に残った皆さんが強盛に信心を貫き、幸せになることです。強く生きることです。じっと見守ってくれていますよ」
これが、一家の永遠の指針となった。
鳳兒さんは結婚後、2人の子を育てながら広布の舞台で奮闘。夫の仕事でイギリスに駐在した際には、自家用車が横転する大事故に遭ったが、不思議と命は守られた。だからこそ感謝を忘れず、信仰体験を語りながら新たな人材育成に注力する日々だ。
弟の洲崎周一さんをはじめ、2人の妹は創価大学などを卒業し、SGI公認通訳として世界広布の一翼を担っている。

◇皆と良き友人に
6度目の訪問となった74年1月下旬。5泊6日の滞在中には、幾つもの行事が予定されていた。
初日の深夜まで友を励まし続けた先生は、2日目となる27日、約1000人との記念撮影会に出席。会場に着くや、この瞬間を待ち望んでいた同志の輪の中へ飛び込んだ。一人一人に声を掛け、握手を交わしていく。整理役員や受付の女子部員のところへも。
鄭彩容さんも役員として激励を受けた。「先生は私に『皆と良き友人になりなさい』と言われました。誰とでも仲良くしよう。香港中に友情を広げよう——この誓いは今も全く変わることはありません」
鄭さんは、この出会いの5年前に入会。まず母が信心を始め、父の大病が回復したことがきっかけで、信仰への確信を深めた。
洋服製造会社で働く中、77年に香港女子部長に就任。部員一人一人と良き友人となり、師弟の道を真っすぐに歩んできた。
香港副婦人部長として拡大の最前線を駆けていた3年前、ステージ3の卵巣がんに。激痛が体を襲った。御本尊の前に座るが、思うように声も出せない。何度も心がくじけそうになった。
そんな鄭さんを支え続けたのは、青春時代の誓いだった。
"必ず宿命転換してみせる!"と、痛みに耐えながら、必死に唱題を重ねた。すると治療が功を奏し、病状は徐々に好転。家族や同志の祈りもあり、以前のように元気に活動できるまでになった。
「病気のおかげで、苦難に負けない信心の大切さを改めて学びました。香港に仏法を弘めてくださった先生と共に、いつまでも健康で、充実した人生を生き抜きます!」
——74年までの10年間で、香港は大きく飛躍を遂げた。
途中、根強い反日感情から"日本から来た宗教"という、マスコミによる悪意の誹謗中傷もあったが、同志は微動だにしなかった。むしろ、良き市民として社会に貢献し、学会を取り巻く環境を変えていった。
毎月毎年、メンバーは増加し続け、支部から総支部、本部へと発展。妙法の功徳と確信が香港中に満ちていった。機関紙「黎明聖報」や、香港会館も誕生している。
10年ぶりとなった先生の香港訪問は、広布の盤石な基盤を築く中で実現した。地元4紙は写真入りで先生の到着を報じ、歓迎の意を表明したのである。