自身の境涯を開く
明確な目標を立てよう。
未来は今の決意にあり!
強き祈りと実践で
わが人生の勝ち鬨を!
兄弟抄 P1087
『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』
◇寸鉄 2018年1月4日
世界で新年勤行会。池田先生の「卒寿」を祝福。いや増す共戦の誇りと喜び
総本部に千客万来。各国の指導者から多数の祝電も。日の出の勢いで船出
「人は善根をなせば必ずさかう」御書。信心根本に"栄え光る"大福徳の年と
受験生よ負けるな!勝負は最後の一瞬まで。執念の挑戦で断固栄冠つかめ
交通事故が多発。「私は大丈夫だろう」の過信が大敵。絶対無事故の祈りを
☆誓いの天地 長野・諏訪市 2017年12月27日
◇地域を担う若きスクラムを
長野県の中部に位置する諏訪市。諏訪湖や霧ケ峰高原など、自然に恵まれた街は、「東洋のスイス」とも呼ばれる。
全国でも有数の規模を誇る諏訪湖の花火大会は夏を彩る風物詩。湖畔一帯には温泉旅館が立ち並び、多くの観光客が訪れる。先端技術産業の集積地でもある。
市の甲州街道沿いには、500メートルの間に5軒の酒蔵があり、それぞれが個性的な酒を醸造している。5軒の酒蔵が、協力して諏訪を盛り上げようと、"酒蔵巡り"も行われている。
丸山正典さん(長野第5総県、総県男子部長)は、創業1662年の老舗の醸造会社に勤める。
高校卒業後から働き始め、20年目。製造されている日本酒は、長野県が誇る歴史と伝統ある銘柄だ。
「だからこそ、会社の発展が即、地域の繁栄に直結するとの思いで、仕事に取り組んでいます」
5年前、営業へ異動に。長野をはじめ、群馬、栃木、茨城、埼玉、千葉、東京と広範な地域を担当する。取引のある企業の発展を祈り、誠実な営業を積み重ねている。
丸山さんは10年前、離婚を経験した。その直後、座談会に参加。同志の温かさに触れ、"今こそ自分を変える時"と決意し、学会活動への挑戦を開始した。
2011年の総長野の創価青年大会では、太鼓演奏チームの責任者を務めた。メンバーと共に対話に奔走し、全員が弘教を実らせた。
昨年、総県男子部長に就任した。出張が多く、活動との両立の悩みは尽きないが、"1日で1週間分の戦いを"と決め、同志の激励に駆けている。
日本酒は、低温で時間をかけて発酵させることで、質が良くなる。そのため、「寒造り」といわれるように、酒造りは冬が適している。その例を挙げ、丸山さんは力を込めた。
「あえて苦労を求め、地域広布を担う青年の陣列を拡大していきます」
◇
増澤つばささん(諏訪圏、女子部副本部長)は、電子部品を製造する会社で、役員秘書として活躍する。
学生時代、アルバイトで接客業の楽しさを知った。卒業後は、松本市内のホテルに勤務した後、レストランで働いた。
だが、職場の人間関係に行き詰まった。同僚が次々と去り、増澤さんも実家のある諏訪市に戻ってきた。
転職で悩んでいた時、女子部の先輩が「具体的に祈る大切さ」を教えてくれた。増澤さんは、希望する会社の条件を細かく書き出し、御本尊の前に座った。
現在の会社は、祈った通りの職場だった。畑違いの仕事ではあったが、心機一転、挑戦することに。地道に信頼を広げている。
6年前、父・正則さん(同、副支部長)が脳梗塞で倒れた。家族が一丸となって祈り、半年後に退院。右半身にまひが残ったものの、座談会などで元気な姿を見せている。
父の介護と学会活動で多忙な母・道代さん(同、圏副婦人部長)を支えるため、増澤さんは積極的に家事も手伝う。
「何があっても負けない母のように、私も力強い信心を貫いていきます」——そう語って、増澤さんは、ほほ笑んだ。
◇栄光の共戦譜
●一人ももれなく 将の将たれ
長野は、池田先生が小説『人間革命』執筆の決意を固め、その続編である小説『新・人間革命』を起稿した使命深き天地である。
その長野で、20年前の1997年(平成9年)、『新・人間革命』を学ぶ「創価信濃大学校」が発足。
淵源は76年(昭和51年)、諏訪圏(当時)の青年部が開始した小説『人間革命』の読了運動である。翌年、「信濃大学校」として長野全体へと展開され、現在の運動へとつながっている。
創価の"精神の正史"を通した、長野の人材育成の伝統は、諏訪圏青年部から始まったのである。
◇
諏訪は、師が幾度も青年育成に心血を注いできた人材錬磨の天地である。
池田先生の諏訪初訪問は、58年(同33年)8月16日。この日、文京支部(当時)に所属する友を中心とした大会が行われた。
4カ月前に恩師が逝去し、"学会は空中分解する"と冷笑する声も聞かれた。その中で、先生は全国を駆け巡り、諏訪の地でも、友の心に希望の灯をともした。
翌17日、先生は霧ケ峰高原へ。美しく雄大な景観に、「戸田先生を、ぜひとも、お連れしたかった」と語り、"未来を開く青年たちと訪れよう"との思いを深くする。
それから3年後の61年(同36年)7月29日、人材グループ「水滸会」(男子部)の研修が霧ケ峰高原で開催された。翌日には「華陽会」(女子部)の研修が行われ、先生は全身全霊で青年を薫陶した。
89年(平成元年)、長野青年研修道場がオープン。同年8月20日、先生が出席して、諏訪圏記念幹部会が開かれた。
席上、先生は「足元の現実の地域から広布は始まる」と強調。「世界の『模範』となる大いなる歴史を」と呼び掛けた。
高橋美保さん(長野第5総県、総長野副婦人部長)は幹部会に参加した一人。
師との初めての出会いは、67年(昭和42年)10月7日、塩尻市で行われた4000人の記念撮影会だ。
この時、女子部の友は「諏訪の湖」という歌を作り、皆で披露。高橋さんも、誓いを込めて歌った。
先生は「いい歌だね」とたたえ、「もう一度、歌おう」と提案。再び、女子部のさわやかな歌声が会場に響いた。
「温かく女子部を包み込んでくださる先生の真心に、感動で胸がいっぱいでした」
79年(同54年)8月、先生は軽井沢の長野研修道場を初訪問。多くの友に励ましを送り、高橋さんも家族で出会いを刻んだ。
会長辞任から4カ月という激動の中で、どこまでも一人を大切にし、渾身の励ましを送る師の姿を目に焼き付けた。
師から数々の激励を受けてきた高橋さんが98年(平成10年)、突然の試練に襲われた。中学生の長女・幸恵さん(同、女子部員)がいじめに遭い、不登校になった。
夫・利幸さん(同、副本部長)と、娘の幸福を祈り続けた。幸恵さんは少しずつ元気を取り戻し、今、働きながら、創価大学通信教育部で学ぶ。
高橋さんは、これまでの経験を生かし、子どもへの暴力防止プログラムの活動に尽力。また、学会では、長野県女性平和委員会の委員長を兼任し、平和の連帯を広げる。
「先生の励ましがあったからこそ、あの苦しい日々を乗り越えることができました」。師への感謝を胸に、報恩の人生を誓う。
◇
89年の長野青年研修道場の開所以降、先生は同道場を5回訪問。河出学さん(長野第5総県、副総県長)は、その全てに役員として駆け付けた。
「道場での先生との出会いは、私の生涯の『宝の歴史』です」
その中でも、97年(同9年)7月の師との出会いが忘れられない。
先生は河出さんの姿を見つけると、「仕事は大丈夫?」と声を掛けた。
前年、河出さんは、キャンピングカーの販売・修理などを行う専門店を立ち上げていた。
「先日、キャンピングカーを1台契約することができました」と報告すると、先生は「"あそこは、さすがだな"と言われる商売をするんだよ」と語った。
この師の言葉が、仕事の指針となった。顧客の視点を大切にした営業に力を注いだ。師の励ましから20年が経過した今、国内有数の専門店に発展している。
2003年(同15年)、圏長の任命を受けた。その直後、本紙に「随筆 新・人間革命」〈霧ケ峰の誓い〉が掲載された。先生は、紙面に「諏訪広布の英雄たれ」と赤ペンで記し、河出さんに贈った。
師の万感の期待を胸に、河出さんは広布拡大に奔走。"諏訪広布の流れをつくろう"と未来部の励ましにも力を尽くした。現在も総県未来本部長として、後継の人材育成に率先する。
「生涯、先生のご期待にお応えする戦いをしていきます」
"師弟一筋"の父の背中を見て育った3人の子どもにも、その心が受け継がれている。
◇
1999年(同11年)8月、長野青年研修道場を訪問した折、先生は詠んだ。
「広宣の 人材王国 長野かな 一人ももれなく 将の将たれ」
明「世界広布新時代 栄光の年」は、『新・人間革命』執筆開始から25周年の佳節。師弟の大叙事詩に学びながら、長野の友は、栄光の大道を力強く進む。