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日厳尼御前御返事 P1262
『叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』
◇寸鉄 2018年1月13日
人生を価値創造していく学会の哲学を時代は希求—博士。幸福建設の指標
創価班・牙城会大学校生が弘教に挑戦。生涯の原点を築く時。負けるな!
活動が活発になるか否か長たる者で決まる—戸田先生。最前線を走り抜け
大学入試センター試験が今日から開始。受験生の健闘祈る。執念で栄冠を
車の子供座席、59%が不適切な取付と。命守る為、今一度確認。事故は一瞬
☆紀行「SGIの源流を訪ねて」 グアムから始まった平和の潮流 第1回 2018年1月4日
◇深い使命担う「発足の地」 太平洋戦争の惨禍を刻印
「世界広布新時代 栄光の年」が始まった。昨年9月に創価学会会憲が制定され、世界教団として新たな出発を切ったSGIは1975年1月26日、太平洋の楽園と称される美しい島・グアムで発足した。平和と希望の連帯は、今や世界192カ国・地域に広がる。昨年11月下旬、SGIの平和活動の「源流」を訪ねて、グアムを取材した。短期連載「紀行『SGIの源流を訪ねて』 グアムから始まった平和の潮流」を、きょう1月4日付から3回にわたって掲載する。第1回は原子爆弾を搭載したB29が広島と長崎へ飛び立った島・テニアンでの取材と併せて、リポートします〈第2回は5日付6面、最終回は6日付4面に掲載〉。(記事、グアム・テニアンの写真=光澤昭義)
◇日本人旅行客でにぎわう観光地
11月25日午後、グアムの国際空港に降り立った。
常夏の島で知られるグアムは、年間の平均気温が約28度。日中は汗ばむほどの暑さだ。照りつける太陽がまぶしい。砂浜には海水浴を楽しむ人々も大勢いた。
米国の準州であるグアム。人口は約17万、島の面積は日本の淡路島とほぼ同じの小さな島だ。美しい自然と水資源が豊富であり、日本では観光地として、よく知られる。古くは1970年代、海外新婚旅行に出掛けた日本人の6割がグアムに集中する年もあったという人気ぶりだった。
グアムのホテルや市街地では、多くの旅行客が日本語を交わし合っていた。
米国本土の他の都市を出張した時には「中国から来たの?」と街角やタクシー内で聞かれたが、グアムでは、市街地の大通りやホテル前のベンチで休憩していると、地元の住民から「日本人ですか」と時々話し掛けられた。日本及び日本人は"身近な存在"なのだろう。
多民族・多文化が共生するグアムだが、先史時代からずっと先住民チャモロ人が暮らしてきた。航海技術や生活様式など独自の文化を高度に発達させたといわれる。だが、16世紀にスペインの植民地となり、文化、風俗などの西欧化が始まる。19世紀末の米西戦争後には米国の統治に。太平洋戦争が始まった1941年12月から約2年7カ月間は日本が占領し、支配した。
街には今も、各国の統治・占領時代をしのばせる史跡や建造物が残っており、観光で訪れる日本人旅行者も多い。
◇多数の民間人が戦闘の犠牲に
現在は、南国の楽園という明るいイメージが強いグアムだが、太平洋戦争の爪痕が深く刻まれた地でもある。グアムは激戦地の一つであり、日米決戦は凄惨を極めた。
米軍はグアム奪還作戦の初日で、日本軍に壊滅的な打撃を与えた。守備隊の約8割が戦死。窮地に陥った日本軍に残された戦術は「玉砕」以外になかった。一か八かの夜襲作戦に出るも惨敗。グアムの日本軍総兵力2万810人のうち、捕虜になった兵も含めた生還者は1304人だったという(旧厚生省資料)。
日本軍の部隊が壊滅したのち、ジャングルで潜伏生活を行い、餓えをしのぎつつ生き延びた兵士もいた。終戦から28年後、グアム中南部のタロフォフォに潜伏していた日本兵・横井庄一さんが発見され、日本国中が騒然となったことを覚えている人も多いだろう。
また、日本軍が真珠湾での奇襲作戦を敢行したハワイでは、攻撃目標が米軍だったために米国側の死者・犠牲者が主に軍人だった一方、グアムでは、44年7月からの米軍の進撃を受け、チャモロ人も含む多くの民間人が戦闘の犠牲となった。
グアム最北端のジーゴには「叉木山(マタグアク山)」がある。標高180メートルの小さな山だ。この地がグアム最後の激戦地となり、旧日本軍司令部は壊滅した。
現在のグアムといえば、大型リゾートホテルや高級ブランド店が林立し、多くの観光客でにぎわう市街地が思い浮かぶが、その華やかさからは、全く想像しがたい歴史の悲話だ。
山麓に立つ戦没者慰霊碑から山頂へ移動すると、林を挟んで向こう側に、グアム屈指の美しさを誇るリティディアン岬の砂浜が広がる。
さまざまな「顔」をもつグアム。その一つ一つが強く印象に残る。
◇75年1月26日、待望の結成
74年4月、池田先生(当時、創価学会会長)は、米国での諸行事に出席するため、ハワイを訪問した。そこでグアムからやって来たメンバーと出会う。
代表のメンバーと懇談する中、池田先生は、グアムで「世界平和会議」を開催し、日蓮仏法を実践する国際的な団体の発足を構想。グアムのメンバーからは"ぜひ開催していただきたい。ここから平和の波を起こしたい"との強い要請があった。
池田先生は、小説『新・人間革命』第21巻「SGI」の章に綴っている。
「戦争の悲惨な歴史が刻印されたグアムを、なんとしても、世界平和の発信地にしなければならない」と。
翌75年は、終戦から30年の節目を刻む年だった。
同年1月26日、「世界平和会議」は盛大に開催され、創価学会インタナショナル(SGI)が結成。この日から、SGIによる世界平和の潮流は始まったのだ。
他人の不幸のうえに自身の幸福を築かない——。
SGIはこれまで、仏法哲学の実践を通じて一人一人の幸福を実現する中、平和の連帯を世界に広げてきた。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは「平和とは、生じ得る諸々の貪慾に対して、これを制圧し得る諸々の力の収める潜勢的な、黙々とした、連続した勝利の謂である」と語っている(「ヨーロッパの盛衰に関する覚え書」)。
人生と誠実に向き合い、自身の境涯を高めていく。それが"平和の心"を豊かに育むことにつながっていく。
眼前に広がるリティディアン岬の鮮やかな景色を眺望しつつ、グアムがSGIの「発足の地」に選ばれたことの意義について、しばし思いを巡らせた。
世界広宣流布の歴史のうえで、グアムがもつ平和への深い使命を学びたいと願いつつ取材を重ねていった。
◇テニアンの誓い——「核の悲劇」を二度と起こさない
◇爆撃機が発進 広島・長崎へ
1944年の夏、米軍のグアム進撃と同じ時期、日本領だったテニアンも激戦地となった。その直前には、サイパンで激しい戦闘が繰り広げられた。グアム以外の2島は現在、米自治領の北マリアナ諸島に属する。
マリアナ諸島の中でも、グアム、サイパン、テニアンは日本軍の要衝だったが、ここを米軍が奪還したことで戦況は一気に逆転した。
11月28日、グアムから空路でサイパンを経由しテニアンを訪れた。飛行時間は1時間ほどという近さだ。セスナ機から見えるテニアンの海岸が美しかった。
テニアンの面積は101平方キロメートル、日本の小豆島の3分の2ほどと小さい。この地には旧日本海軍の第一航空艦隊司令部や通信所の建物が今も残存しており、戦争の痕跡を生々しく物語っていた。
戦後、昭和49年(1974年)生まれの記者にとって、戦時の記憶は映像や写真に頼るしかないが、戦跡を目の当たりにすると、歴史を追体験することができる。実際、テニアン南部のスーサイドクリフ(追い詰められた日本人が自殺した崖)の上に立つと、民間の人々を襲った恐怖と絶望に思いが及び、戦慄を覚えた。テニアン在住だった一般邦人1万3000人のうち、自ら命を絶った犠牲者の数は3500人に上ったという。
米軍の奪還後、テニアンから「超空の要塞」と呼ばれるB29爆撃機が連日のように、日本本土に向けて飛び立っていった。航続距離5230キロ以上のB29は、日本との往復が可能であり、テニアンは日本本土への戦略爆撃の拠点となった。
45年8月、広島と長崎に原子爆弾を投下したB29もテニアンから出撃した。
広島、長崎へのB29が離陸した全長2600メートルのエーブル滑走路と、原爆の搭載ピットは今も残されている。
11月28日午前、テニアンの役所を訪問し、北マリアナ諸島のジュード・ホフシュナイダー上院議員(テニアン選出)にインタビューした。
原爆投下の歴史について触れると、ホフシュナイダー議員は「テニアンに住む私たちにとって極めて心痛む出来事です。テニアンでは毎年、戦没者の追悼行事を開催しています。もちろん原爆で犠牲になった方々も含まれます。そのたびに、二度と原爆の悲劇を引き起こしてはならないと誓っているのです」と沈痛な表情だった。
◇水爆実験の実施 北朝鮮が示唆
テニアン・リーダーシップ公園には、池田先生の箴言を刻んだ「平和の碑」が立つ。
日本の軍国主義と戦い、獄死した初代会長の牧口先生、遺訓の第一として「原水爆禁止宣言」を発表した第2代会長の戸田先生、そして恩師の魂を受け継ぎ、世界平和の実現に献身的に取り組んできた池田先生——創価の三代会長に敬意を表する地元テニアンからの要請を受け、建立されたものだ。
〈碑は、赤御影石でつくられた幅2・5メートル四方、高さ1・5メートルのピラミッド型〉
2000年11月17日、「平和の碑」除幕式の席上、フランシスコ・ボーハ市長(当時)は力強く訴えた。
「テニアンは、きょうから、変わるのです。これからは、人類最悪の出来事である原爆投下をもたらした爆撃機の発進地としてでなく、世界平和への勇気ある挑戦の発信地として、人々に記憶されゆくでしょう」
ホフシュナイダー議員は、「尊い平和活動に貢献するSGIと協力し合うことは、テニアンにとって喜ばしいこと。SGIとのパートナーシップが継続していくことを、私たちも心から望んでいます」と語った。
核兵器の使用は人類史上かつてない惨劇をもたらしたが、太平洋戦争が終結した後も「核の悲劇」は収まらなかった。
1946年から58年にかけて、米国は北太平洋上のマーシャル諸島において、67回にわたる核実験を実施。54年3月1日、ビキニ環礁での水爆実験では、日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被曝した。この事件は日本国内でも大々的に報道され、反核運動が全国的に巻き起こった。
核実験が繰り返されたことで大気中には著しい放射能が検出され、放射性降下物の広がりは、同じ北太平洋上のグアムを含む広範囲に及んだという。
また、グアムには50年代以降、核兵器が配備された事実も公文書から明らかになっている。
そして今日、核・ミサイル開発を強行している北朝鮮は太平洋上での水爆実験の実施を示唆している。
パシフィックとは「太平洋=平和」を意味する。この地域が平和を享受し続けることを願う取材となった。