「ほむれば弥功徳まさる」
一人一人の尊き挑戦を
皆で最大に称え合おう!
創価家族の連帯こそ
希望と躍進の原動力だ!
大悪大善御書 P1300
『大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをどりぬべし』
◇寸鉄 2018年1月19日
人間革命の思想が世界の変革への鍵—博士。「池田哲学」は平和世紀の道標
今日は誰を励ましたか—小さな積み重ねが拡大の源泉。全幹部が最前線へ
難が来たら喜べ!宿命転換の好機なのだ—戸田先生。猛然たる祈りで前進
冰は水より出でたれども水よりもすさまじ—御書後継よ自己の力信じ挑め
家庭消火器点検の日。容器の錆や変形、使用期限を確認。前前の用心こそ
☆四季の励まし 青年と共に偉大な人生を 2018年1月7日
大いなる理想に生きる——
そこに青年の証しがある。
そして偉大なる人生とは
"青年の心"で
一生を生き抜くところにある。
若き挑戦の魂に
行き詰まりはない。
全ては"行動"から始まる。
行動を開始すれば、知恵がわく。
「道」が見えてくる。
道があるから歩くのではない。
歩くから道ができるのである。
若いということは、それだけで、
いかなる権力者も敵わない
「無限の財宝」をもっている。
くよくよと
後ろを振り向く必要など、
まったくない。
まず今いる、その場所で、
自分らしく光っていくことだ。
信頼を勝ち取っていくことだ。
あの大歴史家トインビー博士の
「若さ」の秘訣は明快であった。
「次の世代に
起ころうとしていることに、
ほんとうに
関心をもつこと」である。
人生の総仕上げとは、
過去の肩書など取り払って、
未来のため、青年のために、
心を砕き、知恵を出し、
手を打つことなのだ。
私は青年を信ずる。
一点の曇りもなく、
わが弟子を信じている。
青年には、限りない宝がある。
それは誠実だ。正義だ。勇気だ。
青春には、誇り高き使命がある。
それは行動だ。前進だ。勝利だ。
君たちよ! あなたたちよ!
青春の生命の本領を
大いに発揮し、
私と共に、新時代を断固として
勝ち飾ろうではないか!
ジェット機が雲を突き抜け、大空へ上昇していくと、眼下に白雪のアルプス山脈が広がっていた。1994年(平成6年)5月、ドイツからイタリアに向かう機中、池田大作先生がシャッターを切った。
人生は、決して平たんな道ばかりではない。仕事の問題や病気、家庭不和など、次々と試練の山が立ちはだかる。そうした山々に挑むからこそ、自身の秘められた力を引き出せる。
スイスの思想家・ヒルティは叫んだ。「さあ、前進だ、断固として『より高きをめざせ』」(草間平作・大和邦太郎訳『幸福論(第三部)』岩波書店)
さあ、新しき勝利の峰へ出発しよう。青年と共に、青年の心で——。
☆池田先生の「第1部隊長」就任65周年 師の構想を実現してこそ弟子 2018年1月12日
池田先生が男子部の第1部隊長に就任して、本年で65周年。先生が指揮を執った1年余りで、第1部隊の陣容は約4倍に拡大した。いかに青年を糾合し、新たな人材を育てたのか。先生の行動から、広布拡大の要諦を学ぶ。
1953年(昭和28年)1月2日、25歳の誕生日の日、池田先生は男子部の第1部隊長に就任した。
この日の日記につづっている。
「健男子として、何ものにも恐れず、青年を率いて起とう」
戸田先生は各部隊に目標を示した。年末までに「各部隊1000人」の達成である。
この時、第1部隊の部員数は、337人。1年間で3倍の拡大である。
池田先生は、第1部隊の最初の班長会で力説した。
——「第1部隊」という名の通り、すべての戦いで「第1」になろう。
当時、先生の体調は万全とはいえなかった。「身体の調子すこぶる悪し」(53年1月25日)、「身体の具合、悪し。背中に、焼けたる鉄板を一枚入れたるが如し」(同年2月4日)等と日記に記している。
さらに、先生は4月に文京支部長代理にも就任。戸田先生の会社では営業部長の重責を担い、多忙を極めていた。
そうした状況の中で、自ら拡大の先頭に立ち、同志の激励に奔走した。
ある日、第1部隊の友が尋ねた。
「私なんかより、はるかに多忙なのに、どうしてそんなに悠然としていられるのですか」
先生の答えは明確だった。「戸田先生の構想を破綻させるような弟子には、絶対にならないと心に決めているからです」
そこには、「言われたから」「打ち出しだから」などという受け身の姿勢など微塵もない。
師の構想を断じて実現してみせる——25歳の青年の胸中には、誓いの炎が赤々と燃えていた。
◇「一人」を心から大切に
恩師が示した「部隊1000人」達成に向け、池田先生は目標を明確にした。
まず、新たな人材を登用し、六つであった班を、10班に再編・拡大。10人の班長を「部隊十傑」と命名し、中心者の団結を図った。
さらに、各班で10人の分隊長を登用して「部隊百傑」として、各分隊が10人の部員を達成することを掲げたのである。
目標は定まった。では、それを遂行するための鍵とは何か——先生は「一人」を心から大切にした。
形式的に人数が増えることが広宣流布ではない。
この信心で何人の人が幸福になったのか。何人の青年が広布の使命を自覚し、自らの人間革命に挑んでいるのか。
ここに広布の実像があることを、池田先生は第1部隊の戦いで示した。
第1部隊の活動の舞台は、墨田・江東・江戸川区など、いわゆる下町を中心とした地域であった。
先生は同志から自転車を借り、路地を走っては、一軒また一軒と、班長と共に訪問激励に回った。
会えない友には、移動の合間を縫って、はがきを書き送った。会合の前には、部員のもとへ足を運び、不在の場合には、激励の言葉や御書の一節をつづったメモを残した。会合の後にも参加できなかった友への激励に走った。
また、壮年・婦人部の対話で信心を始めた家庭に青年がいれば、あいさつに行った。同世代の友として、成長を誓い合った。
下町で働く同志は残業が多かった。先生は日曜日に自宅を開放し、集ってくる友に励ましを送った。
時には、レコードをかけて親しく語り合い、戸田先生から作り方を教わったカレーを振る舞ったこともあった。
こうした懇談の場が、自然と"勝利への作戦会議"の場となった。
さらに、先生は教学に力を注いだ。第1部隊には、読み書きが苦手な青年もいた。先生は友を自宅に招き、「観心本尊抄」「撰時抄」「当体義抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」などを共に研さん。部隊独自の弁論大会も企画した。
教学の研さんを通し、第1部隊のメンバーは、自らの深い使命を自覚し、現実を変革する仏法の哲理を生命に刻んだ。
こうして、第1部隊の戦いは、日を追うごとに勢いを増していったのである。
◇友を奮い立たせた檄文
同年10月、2カ月後の12月20日に行われる第2回男子青年部総会に、各部隊1000人の結集目標が発表された。
この時点での第1部隊の部員数は約600人。1月のスタートから2倍近くの拡大である。
しかし、「1000人の結集」という目標達成のためには、わずか2カ月で、それまで以上の拡大が求められる。
浮足立つメンバーに、先生は確信を込めて語った。
「そんなに大変なことじゃないよ。簡単なことなんだよ。一人があともう一人を連れてくれば、目標は完遂することができる」
戦いが終盤に差し掛かった時点で、再び「一人」を焦点にした拡大を訴えたのである。
先生は自ら最前線の友を励まし続けた。共に戦ってきた班長一人一人に激励のはがきを書いた。
第1部隊の拡大は加速し、10月の1カ月間で、部員数は800人を突破。そして翌11月、ついに「部隊1000人」を成し遂げた。
同年11月20日、第1部隊の臨時の決起大会が開催された。この場で、参加者に1枚の印刷物が配られた。「我が親愛なる同志諸君に告ぐ」と題する、先生自らが自費で作った活版刷りの檄文である。
そこには、部隊1000人の結集の意義とともに、広布の使命を果たすための心構えが、4点にわたって示されていた。
1点目は、御本尊を信じ、自分は折伏の闘士であると確信すること。
2点目は、教学に励むこと。
3点目は、行動に当たっては、勇気をもち、沈着にして粘り強くあること。
4点目は、学会精神を会得し、自ら広宣流布の人材たらんと自覚すること、である。
男子青年部総会を目前に控えた同年12月7日にも、先生は総結集を呼び掛ける檄文を送った。先生の大情熱に、友は奮い立った。
ある班は、4月の時点で部員数は20人ほど。メンバーは東京のほか、埼玉にもいた。だが、総会には、埼玉で50人、東京で50人を超す部員を結集した。
ほかの班も次々と壁を破り、第1部隊は1000人を超す結集を果たした。
池田先生は、翌54年(同29年)3月に青年部の室長に就任するまで、第1部隊長として指揮を執った。その間に、部員数は当初の4倍近くにまで拡大した。
さらに、第1部隊からは、多彩な人材が陸続と育っていった。それは、「一人」を大切にする行動の持続が、新たな歴史を開くという証明でもあった。
◇積み重ねの上に勝利が
53年(同28年)という年は、「創価学会の発展の歴史にあって、最も折伏意欲のみなぎった年であった」と池田先生はつづっている(『人間革命』第7巻「翼の下」の章)。
事実、この1年で、学会の世帯数は約2万から7万世帯にまで伸びている。
前年の「二月闘争」で、「201世帯」の弘教という当時の支部の限界を突破する拡大を達成し、53年に青年拡大の金字塔を打ち立てた池田先生の戦いは、学会の飛躍的な勢いを生み、恩師の願業である75万世帯の弘教へとつながった。
第1部隊の戦いを通し、池田先生は語っている。
「会合も、個人指導も、御書講義も、一回一回が真剣勝負だった。
疲れて、ペンを握ることさえ辛い夜もあった。だが、必死に書いた激励の手紙ほど、同志は奮い立ってくれた。
勝利は突然やってくるものではない。
日々の、懸命な『小勝利』の積み重ねの上に『大勝利』があるのだ」