妙法に生き抜けば
悩みに紛動されない
金剛の境涯が開かれる。
常楽我浄の人生を
共々に歩みゆこう!
衆生身心御書 P1595
『法華経の行者はいやしけれども守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる犬は師子をほゆればはらわたくさる』
◇寸鉄 2018年1月24日
「天晴れぬれば地明かなり」御書。偉大な智慧で社会を照らす太陽たれ!
尼崎の日。破竹の勢いで進む関西の心臓部の友。拡大の金字塔を断固再び
女子部ロマン総会を全国で開催。平和と幸の連帯広げる桜梅桃李の青春譜
各家庭の家電利用が地球温暖化の一因と。環境保全は足元の取り組みから
凍結路の運転、歩行に注意。慣れた道も焦りは禁物。賢く「前前の用心」を
☆藍よりも青く 「3・16」研さんのために 広布史(上)
◇いざという時、広布の戦場に駆けつけられるかどうかだ
本年は、戸田先生が広宣流布の一切を後継の青年に託した「3・16」の記念式典から60周年。この佳節を慶祝する「世界青年部総会」(3月)へ、青年部の友が広布拡大に挑んでいる。3面では、特集「藍よりも青く」の一環として「3・16」の意義と精神を学ぶ。今回と次回は、「3・16」の歴史を確認する。
いかなる事業も、後継者で未来が決まる。
広宣流布もまた、師弟の精神が、次の世代へと継承されてこそ、永続的な発展がある。
法華経の主題は、仏が弟子に付嘱して、滅後の広宣流布を託すことにある。
御書に「霊山一会儼然未散」(757ページ)と。法華経が説かれた霊鷲山の会座は、いまなお厳然として散らず、永遠に常住しているとの意味である。
1958年(昭和33年)3月16日の広宣流布の記念式典について、池田先生は、こうつづっている。
「『3・16』の大儀式は、『霊山一会儼然未散』(霊山一会儼然として未だ散らず)の姿さながらに、我らには思えた」
「この大儀式には、法華経に説かれる付嘱の儀式に通ずる意義がある。私は、そう深く心中に期していた」
師の不惜身命の精神を永遠にとどめ、師から弟子へと、広布のバトンが託された日——それが「3・16」である。
◆◇◆
なぜ、戸田先生は、「3・16」を、"後継の儀式の日"と定めたのか。
その理由の一つは、池田先生をはじめ、未来を託すことができる青年が育ち、広布の基盤が整ってきたから、といえよう。
戸田先生が第2代会長に就任した51年(同26年)5月、学会の会員数は実質、約3000人。2カ月後に行われた男子部の結成式の参加者は約180人、女子部結成式は74人である。
だが、わずか6年後の57年(同32年)12月、戸田先生の生涯の願業である75万世帯の弘教が達成された。
その拡大の先頭に立ったのが池田先生である。
52年(同27年)、蒲田支部の支部幹事として指揮を執った「二月闘争」では、当時の支部の限界を破る201世帯の弘教を達成。
53年(同28年)、男子部の第1部隊長に就任し、約4倍の陣容に拡大。文京支部長代理にも就き、「前進また前進」を合言葉に、第一級の支部へと発展させた。
さらに、55年(同30年)の「札幌・夏の陣」では、10日間で388世帯という日本一の拡大を成し遂げ、翌56年(同31年)の「大阪の戦い」では1カ月で「1万1111世帯の弘教」という不滅の金字塔を打ち立てた。この年から始まった「山口開拓指導」でも、10倍近くの拡大を達成した。
池田先生は述べている。
「弘教七十五万世帯は、師弟の誓願であった。それを実現するのが弟子の使命であり、勝利の結実をもって、初めて後継者たりうるのだ。
もし師弟の誓願が達成できていなければ、『3・16』の式典——あの後継の大儀式は完成されなかった」
広布拡大の勝利があったからこそ、「3・16」の式典は実現したのである。
◆◇◆
58年3月、静岡で大講堂落慶の祝賀行事が始まった。毎日約7000人、1カ月で20万人が集う、かつてない規模の行事である。
池田先生は、運営の全責任を担った。列車やバスなどの輸送機関の確保、整理・誘導の役員体制など、検討しなければならない課題は山積していた。
すでに、前年の秋から打ち合わせが始まっており、年が明けてからは、幾度も輸送会議が開かれている。
当時の日記には、こう記されている。
「午後二時より、輸送会議。最高首脳(理事)は、その実態を知らず、現場の青年のやりにくきことを心配する」「夕刻、先生とお目にかかる。『やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ』と、厳しき指導あり」(58年1月18日)
思うに任せぬ状況の中で、池田先生は祝賀行事の無事故・大成功の指揮を執っていたのである。
迎えた同年3月1日、大講堂落慶の式典が開催された。戸田先生は衰弱した体を押して参加。多くの同志の前に姿を見せるのは、4カ月ぶりである。
終了後、エレベーターで、峻厳な師弟の場面が刻まれた。戸田先生が、池田先生に後事を託す遺言をしたのである。
「これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
祝賀行事終了後、大講堂前の広場では、音楽隊・鼓笛隊が演奏を続けていた。
大講堂から出てきた戸田先生は、池田先生に支えられながら音楽隊の方へ歩み寄った。
ぼくが太鼓を打とう——戸田先生は自ら大太鼓をたたいた。池田先生は即座に反応し、指揮を執った。学会歌の演奏が始まり、周囲にいた青年たちは、音楽に合わせて歌い始めた。
この一こまを、本紙は「"この師匠あればこそ"とみんなが誓ったひとときだった」と報道している。
さらに、戸田先生は、北海道・夕張の女子部員にも渾身の励ましを送った。
◆◇◆
同年3月5日、池田先生は大阪へ。祝賀行事が続く中、「大阪事件」の裁判に出廷するためである。
あいさつに来た池田先生に対し、戸田先生は病床から身を起こして言った。
「裁判は容易ならざる戦いになるだろう。しかし、最後は勝つ。金は金だ。真実は必ず明らかになる」
恩師の言葉の通り、84回の公判を終え、62年(同37年)1月25日に、無罪判決が出ている。
祝賀行事が始まって1週間が過ぎた頃、3月16日に時の首相が来訪することが決まった。
戸田先生は、池田先生に告げた。
「いい機会だ。その日は、青年部を呼ぼう。将来のために、広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典をやろうじゃないか!」
池田先生は、祝賀行事に加え、記念式典の指揮も執ることになった。
式典の開催が正式に発表されたのは、11日の男子部幹部会。同じ日、女子部にも連絡が流れ始めた。
携帯電話やメールはもちろん、固定電話すら少ない時代である。だが、訪問や電報などを通して、瞬く間に伝えられた。
交通費の工面や、仕事の都合をつけることも容易ではなかった。「今から戸田先生のもとへ行こう!」と、前日の15日に連絡を受けた人もいる。それでも、皆、喜び勇んで師のもとに馳せ参じた。
戸田先生は常々、語っていた。「いざという時、広宣流布の戦場に駆けつけられるかどうかだ」
いざという時に、人間の真価が現れる。記念式典に駆け付けた6000人の青年は、恩師の指導を体現したのである。
◆◇◆
御書に「大梵天王・帝釈等も来下して」(1022ページ)と。梵天、帝釈とは、法華経の行者を守護する諸天善神のリーダーである。現代でいえば、社会的な指導者層を指しているとも捉えられる。
広宣流布の暁には、その指導者たちの共鳴と称賛を得る、との仰せである。
今、世界中の、あらゆる分野の指導者が、SGIの理念と行動をたたえ、多くの顕彰が贈られる時代が到来した。
池田先生は述べている。
「その一つ一つの儀式は、あの『3・16』の儀式の、精神の継承といってよいだろう」((下)に続く)