広布の労苦は全て
わが身を飾る福運に。
陰徳あれば陽報あり。
誰が見ていなくとも
朗らかに誓いの道を!
閻浮提中御書 P1589
『願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ師子は値いがたかるべし』
◇人生の座標
どんなに立派な夢をもち、どんなに立派な理想をもち、どんなに素晴らしい希望を抱いていても、「実行」するのは「勇気」です。心の中に、素晴らしい考えや、計画、思いやりをもっていたとしても、それを「実行」する勇気がなければ、現実には、何も実を結ばない。結局、心に何もなかったことと同じになってしまう。
☆100文字の幸福抄
人を傷つける心ない言葉が
氾濫している現代だからこそ、
思いやりのある言葉を
かけ合うことを大切にしたい。
その第一歩は、「あいさつ」である。
始めは硬い表情でも、あいさつから笑顔が生まれ、
心の通った対話が広がる。
☆希望の虹〜世界の偉人を語る〜 第11回 南アフリカマンデラ元大統領
新しい一年が始まって1カ月。
みんな、元気かな?
はりきって目標を立てたけど、「三日ぼうず」でとぎれてしまったという人もいるかもしれない。
でも、たとえ三日でも、がんばったことは、それだけ前進できたということです。だから、また、きょうから、挑戦すればいいんだ。
あきらめないチャレンジのくりかえしのなかで、強くなるんです。
本当に強い人というのは、たおれない人ではありません。何度、たおれても、また立ち上がって、前へ進んでいく人です。
その人間の「真の強さ」を示し切ってこられた偉人が、私も尊敬する、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領です。
マンデラさんの国・南アフリカは、長い間、まちがった法律で「白人が上」「黒人が下」と決められていました。その国を、だれもが同じ人間として平等に大切にされ、だれもが夢や目標をもって生きられる「虹の国」に変えることを目指して、立ち上がったリーダーが、マンデラ青年です。
そのために、いじめられ続け、自由をうばわれました。それでも、断じて負けませんでした。そして、自由を勝ち取り、黒人初の大統領となって、夢を実現したのです。
多くの人は、何十年も続いてきた差別をなくすのは「むりだ」「むずかしい」と思っていました。しかし、マンデラさんは、「必ずできる!」と心に決めていました。
あきらめない人には、希望がある。希望があるから、がんばれる。その人が、まわりに希望を広げるのです。
私は2度、お会いし、平和のために語り合いました。おととし、95歳で亡くなられましたが、マンデラさんの笑顔は、今も私たちの心にかがやきわたっています。
1918年の7月18日、マンデラ少年は、南アフリカの小さな村で生まれました。外で友だちと遊ぶのが大好きな、元気な男の子でした。
9歳のころ、お父さんが病気で亡くなったため、父親の友人のところへあずけられました。お母さんや妹たちと、はなれて暮らし、さびしい思いもしましたが、新しい家族や友だちと仲良くなり、すくすくと成長していきました。
しかし、そのころの南アフリカには、肌の色のちがいによる差別がありました。それは、マンデラさんの青年時代に「アパルトヘイト」という、もっときびしい「国のきまり」になってしまいます。
白人と黒人は、同じ所に住めない。結婚できない。黒人は教育も満足に受けられず、政治にも参加できませんでした。レストランや乗り物やトイレも別々。「黒人と犬は立ち入り禁止」という、ひどい、ひょうしきが立っている場所もありました。
マンデラ青年は、こうした差別を目の当たりにし、多くの正義の友と語り合いながら、平等を勝ち取るために、力をつけていきます。
学びに学んで弁護士となり、苦しんでいる人によりそいながら、行動を開始しました。そして"すべての南アフリカ国民の権利を守ろう"と人々に呼びかけ、連帯を広げていったのです。
しかし——白人の政府は、人々が団結するのをおそれました。抗議をするために集まった、武器を持たない人々に向かって、警官が銃をうち、死人やけが人が出るような、悲しい事件も起こりました。
世の中がくるっている時は、正義の人がいじめられます。
太平洋戦争中、民衆の幸福を訴えた創価学会の初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長の戸田城聖先生も、正しいゆえに、ろうごくに入れられました。それでも、お二人は信念をつらぬき通して、牧口先生は、ろうごくで亡くなられたのです。
1962年、マンデラさんたちもまた、国家にさからった罪でたいほされ、裁判にかけられました。
マンデラさんは、そこで堂々と主張しました。
——南アフリカは、そこに住むすべての人々のためのものであり、この理想のために私は生きぬく。理想を実現するためなら、私は死ぬこともおそれない、と。
判決は、刑務所から一生、出られないという「終身刑」。マンデラさんが46歳の時のことでした。
刑務所の生活は、ひどいものでした。体の大きさに合わない服に、そまつな食事。ひとりぼっちにさせられ、お母さんが亡くなっても、息子を事故で亡くしても、お葬式にいけませんでした。
それでもマンデラさんは、屈しませんでした。大変になればなるほど、ほがらかでした。
なぜなら、「苦難は希望に変えられる」と信じていたからです。
マンデラさんは、ろうごくでも「通信教育」で、大学の勉強をしていきました。たくさんの本も読み続けました。人間は、どんな環境でも学ぶことができるのです。その姿は、困難ななかで学ぶ人々にとって、大きなはげましとなっています。
そうしたマンデラさんの生き方に、見はり役の看守たちでさえ、味方に変わっていきました。
入獄して16年後、マンデラさんは、ようやく娘のゼニさんと面会できました。彼女は産んだばかりの赤ちゃん、つまり、マンデラさんの孫を連れてきて、名前をつけてほしいと頼みました。
彼がつけた名前は「ザジウェ」。「希望」という意味でした。この子が大きくなるころには、差別が昔話になり、みんなが仲良く暮らす「虹の国」になっているという希望を、その名にたくしたのです。
断じて正義の戦いをやめないマンデラさんをはじめ、南アフリカの民衆の戦いは世界の人々の知るところとなり、政府へ、ひなんの声が続々とあがりました。その声におされて、政府はついに、マンデラさんをかいほうすることにしました。
じつに27年半、1万日におよぶろうごくでの戦いを勝ち越え、1990年2月11日に、マンデラさんは新たな一歩をふみ出しました。
私もひときわうれしく、そのニュースに大拍手を送りました。その日は、生きておられれば、私の師匠である戸田先生の"90歳"のお誕生日だったからです。(今年は生誕115年)。
マンデラさんは、その後、応援してくれた方々への感謝を伝えるために、世界を回りました。
私が初めてお会いしたのは、この年の10月。ろうごくで読んだ雑誌の中に私の言葉が紹介されていて、マンデラさんは私をごぞんじだったのです。
私は、多くの青年たちと熱烈に歓迎しました。72歳のマンデラさんは「英知の思想は不滅です」と出会いを喜ばれ、私たちは固い友情を結びました。
生きているかぎり、希望はあります。希望がなくなる時は、自分で自分のことを「もうダメだ」とあきらめた時だけです。
苦しみだって、成長するためのバネになる。もしも、希望がなければ、自分で希望をつくろう! 見つけよう!
マンデラさんは叫びました。
「人生最大の栄光は一度も転ばないことではなく、転ぶたびに立ち上がることにある」と。
ししの子のみなさんが一人ももれなく、希望あふれる人生を歩みゆくことを私は信じています。
日蓮大聖人は、『冬は必ず春となる』(P1253、「妙一尼御前御消息」)とはげまされています。
君よ、あなたよ、平和な未来の春を呼ぶ、希望の太陽たれ!