2015年2月14日土曜日

2015.02.14 わが友に贈る

青年と女性の意見に
真剣に耳を傾けよ。
それが時代の流れだ。
若い感性と聡明な声こそ
社会の発展の力なり!

法華証明抄 P1586
『いかなる過去の宿習にてかかる身とは生るらむと悦びまいらせ候上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が法華経計りをば用いまいらせず候いけれども仏くやうの功徳莫大なりければ謗法の罪に依りて貧賎の身とは生れて候へども又此の経を信ずる人となれりと見へて候』

◇人生の座標
見栄を張り、虚栄を追い求めるような人生は、結局、確かな法則から外れてしまう。自分らしく、人知れず、地道にこつこつ努力しぬいた人が、最後は勝つ。

☆100文字の幸福抄
いじめを受けている子どもたちは、
わが身をすり減らして
社会や大人に警鐘を鳴らしてくれている。
そのサインを見逃さず、
子どもたちが伸び伸びと成長していけるよう、
学校と家庭と地域が協力できるか否か、
そこに「教育力」の真価が問われている。

☆第40回「SGIの日」記念提言 「人道の世紀へ誓いの連帯」(下)�
◇ロートブラット博士の高い評価
そこで私は、検討を進めるための視座を、「兵器としての破壊力」だけにとどまらず、核兵器が他の兵器とはまったく性質の異なる存在として帯びている「より広い意味での非人道性」に関し、さまざまな角度から掘り下げることで提起したいと思います。
一つめの観点は、「核兵器が地上から一瞬にして何を消し去るのかという重み」に根差した非人道性についてです。
ウィーン会議の討議結果をまとめた文書で、私が強い共感をもって受け止めたのは次の一節です。
「人間性を打ちのめし、今となっては誰にとっても受け入れがたいものである拷問のケースと同じく、核兵器使用による惨禍は法的問題に留まらず、道徳的観点からの評価を必要とするものである」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第462号)
なぜなら、この問題提起は、私の師である戸田第2代会長が、冷戦対立の深まりで核開発競争が激化した頃(1957年9月)に発表した「原水爆禁止宣言」(『戸田城聖全集第4巻』所収)で、最も強調していた点と重なり合っていたからです。
その中で戸田会長は、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」と訴えました。
仏法では、人間の尊厳に対する最も深刻な脅威は、一人一人の存在の重みを無に帰し、生きていることの意味そのものを奪い去る、「他化自在天」という生命の根源的な迷妄から生じる悪にあると説きます。
戸田会長は、核兵器の奧に隠されているのは、この最も深刻な悪にほかならないと指摘し、核実験の禁止はもとより、問題の根本解決のためには、多くの民衆の犠牲を前提にしなければ成り立たない核抑止の思想からの脱却を、世界の民衆が持つ「生存の権利」の名において求め抜くしかないと主張したのです。
この宣言発表と同じ年に発足したパグウォッシュ会議で、長らく中心者を務めたジョセフ・ロートブラット博士が、以前、次のような評価を寄せてくださったことがあります。
「核兵器への対応には二通りあります。一つは法律的なアプローチで、もう一つは道義的なアプローチです。後者が、宗教者として戸田氏がなされたことであると思っています」(『地球平和への探究』)と。
拷問に関し、どんな理由でも正当化できない禁止規範が確立してきたように、核兵器についても道義的な問い直しを本格的に深めるべきではないでしょうか。

◇高度な技術でも復元できぬもの
戦後、アメリカに続いてソ連が核開発に成功し、その後、イギリス、フランス、中国が続き、NPTが発効した後も核拡散がやまない中で、核兵器の対峙が、あたかも国際社会にとって"動かし難い基本的与件"であるかのような状態が続いてきました。
しかし、その土台にある核抑止政策が究極的にもたらすのは、「敵側に属する民衆の殲滅(せんめつ)」と「核攻撃の応酬に伴う自国民への甚大な被害」です。
それは、戸田会長が剔抉(てっけつ)していたように、「敵—味方」の範疇(はんちゅう)を超えて、一人一人が生きてきた証しや、社会や文明の営みを一瞬にして無にし、あらゆるものから存在の意味を奪うものにほかなりません。
NPT再検討会議での上映に向けて、原爆投下以前の広島の復元映像を製作するプロジェクトの代表を務める田邊雅章氏は、「いかに高度なCG(コンピューター・グラフィックス)技術を用いても決して復元できないものがある」と述べています。その一言が、失われたもののかけがえのなさを、かえって物語ってはいないでしょうか。
また、核抑止のもとで生きるということは、あらゆるものを"かりそめの現存在"に貶める不条理が、絶えずつきまとう世界に生きることを意味します。そうしたニヒリズム(虚無主義)によって、社会や文明が蝕まれるような状態が、これ以上続くことを決して許してはなりません。
しかもウィーン会議で焦点の一つとなったように、核兵器が存在する限り、人為的ミスや技術上の欠陥、サイバー攻撃などによって「偶発的に核爆発が引き起こされる可能性」は常に残るといえます。
何より、その問題は、核抑止政策にとって想定外の事態であるばかりか、核抑止政策を続ける国の数だけ危険性が増す構造であることに、留意する必要がありましょう。
キューバ危機の際には、米ソ首脳が解決を模索し、熟慮を重ねる「13日間」という時間がありました。
一方、何らかの理由で偶発的に核ミサイルが発射される事態が生じた場合に、攻撃目標に達するまでに残された時間は、わずか「13分」ほどしかないといわれます。その結果、多くの人々が避難もままならず、尊い命が容赦なく一瞬にして奪われ、攻撃目標となった地域の営みも、なすすべなく丸ごと破壊されてしまうことになるのです。
幸福な人生を歩むためにどれだけ人間が努力を重ねようと、長い時間をかけて文化や歴史を育もうと、一切合切、無意味なものにしてしまう——この言語に絶する"理不尽さ"にこそ、圧倒的な破壊力という数値だけでは推し量ることのできない、「非人道性」の核心部分があるように思えてなりません。

◇核開発と近代化がもたらす歪み
二つめの観点は、「核開発や近代化の継続が世界にもたらす歪み」に基づく非人道性についてです。
先月のウィーン会議で、核実験の影響が初めて議題に取り上げられました。
「ヒバクシャ」という共通語が示す通り、世界各地には2,000回以上にわたって行われてきた核実験の影響で、深刻な被害を受けてきた人々は少なくありません。
例えば、マーシャル諸島共和国が、12年間にわたって経験することになった核実験の爆発規模を換算すると、1日あたり、広島型原爆1.6個分に相当するといいます。
この事実が示すのは、核兵器の使用を防いできたと主張される核抑止政策が、実際、何をもたらしてきたかという点です。
つまり、核抑止政策は、脅威がさらなる脅威を呼ぶ核軍拡競争を引き起こし、実験という形での核爆発が何度も行われたために、「いかなる国家や民族も背負ってはならない重荷」(マーシャル諸島のデブルム外相)を世界に積み増す結果を招いてきたのです。
包括的核実験禁止条約(CTBT)が96年に採択されて以来、核爆発を伴う実験はゼロでないものの、ほぼ行われなくなりました。しかしこの状態は、183カ国が署名しながらも、CTBTが発効をみていない中、辛うじて保たれているにすぎません。
また、CTBTでは「核兵器の近代化」は禁じられていませんが、ある国が近代化を図ると他の国も追随する構造は、核抑止政策が続く限り避けることはできず、世界全体で年間1,050億ドルにも達する核兵器の関連予算がさらに増額する恐れもあります。
その莫大な資金が、保有国の福祉や保健の向上のために充当され、また貧困などに苦しむ他の国々の支援に向けられれば、どれほど多くの人々の生命と尊厳が守られることにつながるか計り知れません。
そもそも核開発を継続すること自体、世界の経済資源と人的資源の軍備転用を最少にすることを求めた国連憲章第26条の精神に反するだけでなく、助けることが可能な人々の窮状が続く状況を結果的にもたらしているという面で、「地球社会の歪み」を半ば固定化させる非人道性を生じさせてはいないでしょうか。

◇軍事的な緊張に周囲を巻き込む
三つめの観点は、「核態勢の維持が多くの国を常に軍事的な緊張に巻き込む」という面での非人道性についてです。
2010年のNPT再検討会議で核保有国は、速やかに取り組む課題として、安全保障政策における核兵器の役割と重要性の一層の低減を誓約しました。
昨年、その進捗状況が報告されましたが、ほとんど変化はみられません。多くの保有国の指導者が、核兵器の使用が想定される状況は極めて考えにくく、今日的な脅威に核兵器では対応できないとの認識を示しているにもかかわらず、「核抑止政策の維持」を理由に誓約が果たされない状態が続いているのです。
保有国にとって、自国と同盟国が核攻撃に脅かされる懸念を、現段階で完全に払拭(ふっしょく)することは難しいかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、あくまで先決なのは、緊張の要因を一つ一つ粘り強く取り除くことであり、「核兵器使用の威嚇」による対抗が唯一の方法とならない状況をつくりだす努力ではないでしょうか。
そもそも、核兵器の使用はもとより、その威嚇も、国際司法裁判所の96年の勧告的意見で示された通り、一般的に違法とされるものにほかなりません。
審理にあたったフェラリ・ブラボ判事が意見書で、「国連憲章第二条第四項と第五一条の間を隔てる川が、核抑止論という大きな石のために広がった」(NHK広島 核平和プロジェクト『核兵器裁判』)と述べたように、核抑止政策の存続は、憲章が当初想定していた自衛権をめぐる状況を大きく変えたと思われます。
つまり、第2条第4項で「武力による威嚇または武力の行使」が原則的に違法とされているものの、甚大な被害をもたらす核兵器の対峙が続くために、武力攻撃を受けた場合のみの例外であって安全保障理事会が必要な措置をとるまでの期限付きとされる、第51条の「個別的または集団的自衛権」に基づく備えを、常に必須のものとする状況——いわば、原則と例外の逆転現象を招いてきたのではないかという点です。
冷戦の終結以降も、この構造は変わっていません。国家間で武力衝突はおろか、対立が深まっていなくても、核抑止に基づく威嚇はそのまま背景において機能し続けるため、多くの国が軍事的緊張に常に巻き込まれてしまうのです。
その結果、保有国や同盟国の間で、核兵器の機密保護や核関連施設の保安を淵源とする、セキュリティー第一主義ともいうべき態勢が敷かれるようになる一方、核兵器の威嚇にさらされる国の間で、核開発や軍備増強への誘因が高まる状況もみられます。それがまた最悪の場合には、他国による予防的な武力行使の検討さえも誘発しかねないという悪循環を生んではいないでしょうか。