2015年2月10日火曜日

2015.02.10 わが友に贈る

学会の強さは
信心の団結にあり!
「水魚の思を成して
異体同心にして」
さあ心一つに躍進!

撰時抄 P288
『日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一?一微塵のごとし、法華経を二人三人十人百千万億人唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ』

◇人生の座標
立場等ではない。"信念に生きる"人が"本物の人間"なのである。また、一流の人間は一流の人間を見抜くものだ。

☆100文字の幸福抄
女性のもつ、愛するものの生命を慈しむ心、
家族を守ろうとする力の偉大さ。
女性が深い人間性に支えられて、
「母性」からの正義を叫び訴える時、
それはすべてのものを
破壊から建設へと

☆第40回「SGIの日」記念提言 「人道の世紀へ誓いの連帯」(上)�
◇人生の出来事の意味を練り直す
二つめの鍵は、人生の意味を紡ぎ直す営みが、悲惨の拡大を防ぎ、連鎖を断つ力となると、エリクソンが考えていたことです。
人生はやり直せない。しかし、その歩みを他の人に「語り直す」ことで、過去の出来事に新たな意味づけを行い、「練り直す」ことができる。その可能性に、エリクソンは人生の希望を見いだそうとしました(鈴木忠・西平直『生涯発達とライフサイクル』)。
この可能性は、私どもSGIが、信仰活動における大切な基盤としてきた体験談運動を通し、メンバーの一人一人が日々実感し、確信として深め合ってきたものにほかなりません。
それは、牧口初代会長の時代以来、「座談会」という少人数の集いを中心に行ってきた伝統です。
人生の喜びや生きがいはもとより、家族の喪失、病気や経済苦、仕事や家庭の悩みをはじめ、差別や偏見などに直面してきた体験を赤裸々に語り合うことで、「一人一人が生きてきた人生の重みとかけがえのなさ」を皆で一緒に受け止める場となってきました。
人生の喜びや悲しみに共に涙し、悩みを懸命に乗り越えようとする姿を全力で励ます。その体験の分かち合いを通し、体験の語り手は、どんな出来事も"今の自分を形づくる上で欠くことのできない一里塚"であったことに思いをはせ、今後の人生を切り開く糧へと転じることができる。
聞き手もまた、自分が抱える課題に立ち向かう勇気を、体験からくみ取り、わき立たせることができる。こうした同苦に基づく「エンパワーメントの連鎖」を、私たちは信仰を通して広げてきたのです。
その上で強調したいのは、エリクソンが自らの哲学の生きたモデルとしてガンジーに着目し、評伝まで手がけて描き出したように、苦悩を抱えながらも、それを使命に変えた一人の人生の物語(生きざま)は、国境を超え、世代を超えて、多くの人々に「希望と勇気の波動」を広げていくという点です。
評伝では、ガンジーのもとに集った若者たちの姿が、「打ち棄てられた者、迫害された者に対する、若い頃からの心痛む関心——それは初め彼らの家庭内にとどまっていたが、次第に広範囲にわたる強烈な関心になっていった——によって一つに結ばれていたように思われる」(『ガンディーの真理2』)とつづられています。
それは、ガンジーを突き動かしていた精神と同根だったに違いありません。
青年時代に受けた人種差別をきっかけに、南アフリカで人権闘争を開始し、インドでも非暴力闘争に挺身したガンジーの最大の願いは、人々が一人残らず抑圧から解放されることにありました。その尽きせぬ情熱が、若者たちにも深い感化を与えたのです。
その生きざまは、ガンジーが逝去した後も、キング博士や南アフリカのマンデラ元大統領をはじめ、人間の尊厳のために闘う人々にとっての"導きの星"となってきました。
マンデラ氏と再会した時(1995年7月)、私がガンジーの生誕125年を記念し寄稿した学術誌に、氏もガンジーの獄中闘争に関する論文を寄せていたことが話題になりました。
その氏の論文には、「今世紀の初頭、囚人ガンジーも、その苦しみに耐えた。時代は離れているが、ガンジーと私との間には、ひとつの絆がある。それは共通の獄中体験であり、不当な法律への抗議であり、平和と和解への私たちの志が、暴力によって脅かされたという事実である」と、記されていました。
マンデラ氏が27年半に及ぶ獄中闘争を勝ち越えることができたのも、自分と同じ茨の道を歩んでいた先人ガンジーの存在が、大きな心の支えとなっていたからではないでしょうか。
今から半世紀前、私がライフワークとしてきた小説『人間革命』の執筆を開始するにあたり、主題をこうつづりました。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」
この主題とも響き合う、国境を超える空間的広がりと、世代を超える時間的広がりにこそ、「エンパワーメントの連鎖」が持つ可能性の真骨頂があるのではないでしょうか。

◇個々の人権侵害を決して見逃さない
第三は、共生の世界を築くための「差異を超えた友情の拡大」です。
近年、紛争や内戦の様相に大きな変容がみられるようになる中で、新たな懸念が高まっています。
例えば、当事者以外に他の国や集団が関わる「国際化した国内紛争」の割合が増える中、シリアでの内戦などのように停戦や和平が難しくなってきています。
加えて、軍事行動の目的が、クラウゼヴィッツの『戦争論』で説かれていたような"力によって相手に自分たちの意志を認めさせる"という伝統的なものから、"敵とみなした集団の排除を進めること"へと重心が移る傾向がみられることも指摘されます。
また、遠隔攻撃などによって、子どもを含む一般市民を巻き込んでしまう事態が、紛争地域で多発するようになっています。
敵とみなす集団に属している人々も、自分と同じ「人間」であり、「生存の権利」があるのではないか——そんなためらいさえ、介在する余地が失われつつある状況の行き着く先は、一体何か。強い懸念を感じてなりません。
いずれにしても、兵器の飛躍的な発達と、排除の思想が相まって引き起こされる惨劇は、国際人道法のみならず、「人間としての道」に照らして許されるものではないと思います。
その意味で、昨年、国連で殺人ロボット兵器に関する議論が始まりましたが、紛争の現実は"戦闘の自動化"の一歩手前にまで進もうとしている実態に、目を向ける必要があるのではないでしょうか。
それと同時に、留意しなければならないのは、排除の思想が紛争地域だけでなく、世界の多くの場所で広がっていることです。
国連も2年前から「人権を最優先に」と題するイニシアチブを開始し、個々の人権侵害を警鐘として受け止め、大規模な残虐行為や戦争犯罪に発展する前に、できるだけ早く対処することを呼び掛けています。
昨今、多くの国々で社会問題になっているヘイトスピーチ(差別扇動)は、ヘイトクライム(憎悪犯罪)のような直接的な暴力を伴わないものの、明確な憎悪に基づいて他者を意図的に傷つけるという点で、根は同じであり、どの集団に対するものであろうと、決して放置してはならない人権侵害です。
そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、"彼らが悪いのだからやむを得ない"といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりもまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません。