2014年6月23日月曜日

2014.06.23 わが友に贈る

◇今週のことば
苦労は即「充実」
忍耐は即「栄光」
青年よ 負けるな!
友情と感動のドラマを
思う存分に綴れ!
2014年06月23日

華果成就御書 P900
『よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたりあしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず』

◇希望の明日へ
ボーダーレス時代にあっては、新たな"知"のあり方が求められている。知識のみが独り歩きして、核時代や地球規模の環境破壊を招き寄せてしまった旧来の"知"ではなく、世界の平和や民衆の幸福に奉仕し、国益よりも、むしろ人類益にこそ奉仕しゆく全体知、総合知をめざすべきであろう。
平2・8・23

☆「仏法は勝負である」 本部幹部会 S28.12.21
わたくしは、毎月諸君らの確信を聞くたびに、悲しい気がする。
というのは、折伏をするのが、まるで数字の計算のようであるからだ。
どこそこが勝った、やれ負けたと相撲か、野球でも見るような気持ちで来る人が、この中にいるんです。しかし、折伏は遊戯のようにやっても功徳がある。相撲を見て、自分のひいきが負ければ悲しいし、入場料を損する。ここは、ただで見られる。

仏法は勝負で、国法は正邪、世法は評判である。
この三つがわからぬと戸田の哲学がわからない。

やみの米を運ぶことが、良いか悪いかと聞かれる。病に病んでいる夫を持ち、子を持っているならば、どうするのだ。どしどし、やみ米を運びなさいという。
国家できめた国法では悪いが、仏法では悪くない。国民の生活を維持できないのは、国の政治が悪いのではないか。つかまらないようにやるのが仏法だ。
国法と仏法とけんかして、仏法は必ず勝つ。戸田は悪人であると評判しても、罰することは出来まい。

罰せられるようなことをしないわたくしは、こんど謗法しました。いままで謗法しないと思うた。しかし謗法はよくやるが、わからぬのだ。
わたくしは、病気で気持ちが悪いときがあった。声がでなくなり、のどがつまり、息ができぬ。その原因は、本部ができて、嬉しくてたまらなかった。さぞかし、静かであろうと思ったら、毎日題目でわんわんであり、うるさいと思った。とたんに謗法でこのとおりになっていた。
ただ題目をとなえれば良い。うんとあげなさい。

もうひとつ、謗法しては悪いから言うとくそれは子どもがきていろいろこわす。
どんどんきてこわしている。これを、こわされる方も謗法であれば、こわす方も謗法である。
ゆえに、いま懺悔している。ほんとうに懺悔しているのは、御本尊様に向かう以外にない。
いまぼくが三百円盗んだとする。懺悔できない。言ったらいけない。キリストと違う。
これを「まさに懺悔せんと欲せば端座して実相を想え。衆罪は霜露の如し。慧日良く之を消除す」といわれている。
これがほんとうの懺悔といわれる。題目を唱えれば良い。こんどの病気は懺悔してなおった。きょう、支部長がほらを吹いたから、きみたちもほらを吹くのだ。仏法ではほらの貝を法羅という。
本年十八万というが、そんなにやらなくてもよい。八万で結構だ。十五万できれば広宣流布できることを知っている。いくらやっても、学問教育がなかったら、なにごともできぬ。虱の集団である。
来年二十五万世帯になったら、手に負えない。わたくしが教学を立てなければつぶれる。会長の願いは、十八万やらなくてもよいから、八万やってもらいたい。