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誇り高き「無冠」の友に
栄光と福徳は燦然!
健康と安全第一で!
兵衛志殿御書 P1095
『あはれ平の左衛門殿さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん』
【通解】
気の毒にも、平左衛門尉殿や相模守(さがみのかみ)殿が、日蓮の言うことをさえ用いておられたならば、先年の蒙古国からの使者の首を、よもや斬ることはなかったでしょう。今になって後悔しておられることと思います。
名字の言 「功徳」とは、どういう意味でしょう? 2019年12月27日
"対話の名手"と仰がれた釈尊には、一言も発せず、自らの姿だけで相手を説得したという逸話がある▼釈尊を侮っていた人々がある時、こう示し合わせた。"彼が来ても、あいさつしてはならない。立って迎える必要もない"。だが釈尊の姿を目にした瞬間、皆が思わず立ち上がり、教えを請うたという▼"超人的な力"と思いがちだが、決してそうではない。仏教学者の中村元氏は、釈尊の教化を「広々としたおちついた態度をもって異端をさえも包容してしまう」と表現した(『釈尊の生涯』平凡社)。釈尊の人格の深みから生まれる表情や振る舞いが、相手の心を動かしたのだろう▼対話は議論とは違う。互いに心を開き、理解し合うことが目的である。話の中身も大事だが、誰もが話し掛けやすい雰囲気、何かを聞いてみたいと思わせる人柄こそ、豊かな語らいをもたらす力といえよう。仏教で言う「功徳」とは、サンスクリットの「グナ」が音訳された言葉であり、"すばらしい性質"との意味。すなわち「人徳」を指している▼日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と。信行学を真面目に貫いた人の確信と慈愛は、振る舞いで伝わる。"人格こそ雄弁なり"と心得たい。(之)
寸鉄 2019年12月27日
皆が人材との確信が必要—恩師。一人ももれなく幸福に!激励を絶やさず
「知恩をもて最とし報恩をもて前とす」御書。師弟の道こそ人生最極の軌道
生命を千倍生きよ—楽聖無量の「心の財」を積みゆく信心だ。勇敢に貫け
帰省の時期。長距離運転は無理なく。無事故第一の余裕ある計画・行動で
空気の乾燥続く。建物周辺に可燃物を置かない等入念な点検で火災予防を
☆地域を歩く 山口・下関市 2019年12月23日
◇新時代を開く天地
新元号「令和」とともに新たな時代を迎えた日本。間もなく第2年が始まろうとしている。
日本の歴史において、山口県の下関は、時代転換の舞台となった天地である。
源氏と平家が雌雄を決し、最後の合戦場となった壇ノ浦。
そして、明治維新を駆けた志士・高杉晋作による「奇兵隊」が結成された地でもある。
今、広布の前進においても、民衆の新たな時代を開こうとする友の活躍が光っている。
◇「奇兵隊士之像」をデッサン
陣笠をかぶり、右手に鉄砲、腰に刀を差した勇ましい立像——奇兵隊の拠点となった陣屋跡(下関市吉田)には、「奇兵隊士之像」が凜々しく立つ。このデッサンを手掛けたのが、下関出身の画家・原野啓次さん(下関圏、圏書記長)である。
中学校の美術教師を務めていた17年ほど前、地元から依頼が。「奇兵隊は市民の誇り。この像で地域おこしのお役に立てれば」と引き受けた。歴史博物館に通っては、奇兵隊士のいでたちを調べ、デッサンを描き上げた。その後、市民の意見も取り入れ、像が完成した。
大学生の時に入会した原野さんは、「山口開拓指導」の歴史がつづられた小説『人間革命』第11巻「転機」の章を学び、心が揺さぶられた。池田先生が下関から開拓指導を開始したからだ。「この使命の地で育った弟子として、自身の可能性を開きたいと思いました」
国立の美術大学の大学院を修了後、フレスコ画を学ぶため、イタリアへ留学。1997年に郷里の下関へ帰ってきた。
その後、青木繁記念大賞公募展で入選。市立美術館で造形教室を開くなど、絵画の楽しさを広げる中、2010年に下関市芸術文化振興奨励賞に輝いた。現在も市美術協会の一員として、市民に絵画を教えている。
「池田先生は『芸術は人間の生命の発露である』と言われています。この生命の発露を表現し、社会に希望を送りたい」
◇フグの魅力を全国へ
下関といえば、取扱量が日本一のフグ。その"フグの街"で食文化を支えるのが、蒲生正博さん(下関圏、地区部長)だ。仲卸会社で営業部長を務める。
「刺し身や唐揚げはもちろんのこと、特に冬場はフグの身が締まり、白子も大きくなるので、鍋料理が絶品です。多くの人に食べてもらいたい」
毎日、深夜に出社し、午前3時ごろに始まる競りで、良質のフグを仕入れる。除毒処理等を施した後、全国の卸売市場や料理店に出荷する。年に数カ月は全国を飛び回り、販路を開拓。だが、近年は"魚離れ"が進み、売り上げが伸び悩んでいた。
そこで、会社の信頼度を高めるため、食品衛生管理の国際基準「HACCP」の取得を目指すことに。蒲生さんがその中心的な役割を担った。資料作りや従業員への指導などに尽力し、2016年、フグ業界で先駆的となるHACCPの認証を得た。
「信心で培った"負けじ魂"を燃やしました。これから、ますますフグの魅力を発信し、地元を活気づけたい」
◇ダンスで街を盛り上げる
室町時代から江戸時代にかけ、日本へ派遣された「朝鮮通信使」。下関は、本州で最初に上陸した地である。県内最大の「馬関まつり」では毎年、朝鮮通信使の行列を再現したパレードが行われている。
この祭りをダンスで盛り上げているのが、下関大勝圏で女子部長を務める松崎佐代子さん。
小学4年からダンスを始め、毎年のように馬関まつりに出演。高校卒業後はアルバイトをしながら、ダンサーを目指して、数々のオーディションを受けた。しかし、あと一歩のところで合格に届かなかった。
自信を失いかけていた時、山口県の創価青年大会でダンス部門の責任者を任された。「皆と練習する中でダンスの素晴らしさを再発見しました。どんな小さな舞台でも、踊れることに感謝できるようになったんです」
ダンス指導員とヨガのインストラクターの資格を取得。4年前には、市内でダンス教室を開いた。母校の中学校で授業を持ったり、ダンス教室の生徒と地域行事に出演したりするなど、活躍の幅を広げている。
◇人と人をつないでいく
本州最西端の下関は、関門橋や関門トンネルで九州とつながる交通の要所でもある。
市内の運送会社で働く清川政人さん(下関大勝圏、男子部部長)も仕事で九州に渡る一人。
2003年に結婚し、2人の子宝に恵まれた。しかし仕事が多忙で家庭を顧みることができず、07年に離婚。下関の実家に戻った。家族に会えない寂しさと悔しさが募り、涙を抑えきれなかった。そんな時、男子部の先輩が訪ねてきた。10年ほど学会活動から遠ざかっていたが、先輩は温かく包んでくれた。
清川さんは子どもたちとの再会を目標に掲げ、御本尊に祈った。趣味のギターを会合で披露すると、皆が笑顔になった。その姿に「かえって、こちらが元気をもらいました」。
壁にぶつかるたび、同志が一緒に題目を唱えてくれた。
"自分も人のために尽くす生き方をしたい"と、仏法対話に挑戦。昨年8月、友人を入会に導いた。その友は、男子部大学校2期生として活動している。
清川さんは声を弾ませる。「今は子どもたちと毎月、会えるようになりました。どんな時も寄り添ってくれた先輩のように、今度は自分が励ましの輪を広げていきます」
◇地域の火災予防に尽力
県内一の人口を有する下関だが、市街地では車が入れない高台も多いことなどから、若者が離れ、高齢化が進む。その中にあって、和田末子さん(総県副総合婦人部長)は地域の"なくてはならない存在"と輝く。
木造住宅が密集する丘陵地に住む和田さん。「道が狭いため、消防活動困難区域となっています。だから、火災への注意が欠かせません」
結婚後、下関へ。1987年から32年間、貴船本町自治会婦人防火クラブの会長を務める。97年に近隣のアパートが全焼する火災が起き、"絶対に火事を出してはいけない"と決意。消火訓練の実施や住宅用火災警報器の共同購入の推進など、住民の防火意識の向上に努めてきた。
こうした功績が評価され、和田さんは本年7月、総務大臣から表彰された。「やっていることは、日頃の学会活動と同じです。一軒一軒訪ね、一人一人と対話する。その絆が、火災予防にもつながっています」
◇地歌・箏曲で文化振興
箏や三味線を弾きながら、伝統音楽の「地歌」を披露する箏曲演奏家・柳瀬和子さん(下関圏、支部副婦人部長)。九州系地歌箏曲演奏家だった母の影響で小学5年から箏を習い始めた。
結婚後、1男3女の子育てに追われ、一時は箏曲から離れた。しかし、300年続く伝統を絶やすまいと、母のもとへ。その柳瀬さんの姿を見て、3人の娘も演奏家の道へ進んだ。
柳瀬さんは現在、下関邦楽協会や下関三曲連盟で会長の重責を担う。「子どもたちが育った下関の地に、恩返しできたらと思って、引き受けました」
定期的に演奏会を行うとともに、毎年、市内の芸術祭に出演。後進の育成にも取り組む。
本年10月には、韓国の「釜山芸術祭」に出演し、娘たちと共に美しい音色を奏でた。柳瀬さんは文化交流を通して、日韓友好の橋を架ける。
◇"友好の橋"を架けよう
下関駅東口から少し歩くと「釜山門」と書かれた門が現れる。この門から約800メートルにわたって、キムチの食材店や焼き肉店など韓国風の店舗が続く。
「ここは『リトル釜山』と呼ばれているんですよ。韓国紙幣が使える店もあります」
そう教えてくれたのは、下関広域日韓親善協会会長の友松弘幸さん(下関大勝圏、副圏長)。
下関は釜山まで約220キロ。1905年には連絡船が開業し、韓・朝鮮半島への玄関口となった。70年には関釜フェリーが就航。旅行者や物資の往来が盛んに。76年、下関市と釜山広域市は姉妹都市になった。
友松さんが所属する親善協会では毎年、講師を招いて韓国文化論講座を開催。また年数回、釜山を訪れ、交流を重ねている。「日韓関係が悪化している今こそ、民間交流でつながり続けることが重要です。池田先生が『韓国は文化大恩の国』と語られている通り、韓国を敬い、友好を深めていきたい」
地元では、長府東部自治連合会の会長としても奮闘。地域の清掃や認知症への理解を深める催し等を行い、同連合会は先月、「生活環境改善模範地区」として県知事表彰を受けた。
「日韓友好も地域交流も、『目の前の一人』を大切にすることから始まります。それは全部、学会で学んだことです」
かつて池田先生は山口開拓指導を振り返り、下関についてこう記した。
「広宣流布という新・民衆革命の発進地として、これほどふさわしい場所はない」
新たな民衆革命の発進地・下関から、次代の夜明けは始まる。