2019年12月19日木曜日

2019.12.19 わが友に贈る

「年は・わかうなり
福はかさなり候べし」
生涯青春の同志に
無量の福徳は燦然!
ますます健康長寿で!

富木尼御前御返事 P976
『我れ等は仏に疑いなしとをぼせばなにのなげきか有るべき、きさきになりてもなにかせん天に生れてもようしなし、竜女があとをつぎ摩訶波舎波堤比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれしあらうれし』

【通解】
私たちは必ず仏になると思えば、何の嘆きがあろうか。たとえ妃になっても何になろう。天上界に生まれても何の意味があろう。我らは(女人成仏の道を開いた)竜女の跡を継ぎ、(釈尊の最初の女性の弟子である)魔訶波舎波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。何と嬉しいことであろうか。

名字の言 2019年12月19日
一人静かに楽しむ読書もあれば、本を巡って誰かと語り合う読書もある。年間のべ9000人が参加する日本最大規模の読書会コミュニティーが「猫町倶楽部」。主宰する山本多津也氏は、"本の内容を理解し、自分の考えを他者に伝える「アウトプット」によって、読書という「インプット」が正しく完了する"と強調している▼全国で年200回ほど開かれる読書会では、参加者が感じたことを自由に発言していく。目の前に並ぶ聞き手は、理解できれば"なるほど"とうなずき、分からなければ難しい顔をする▼そうした相手の反応を見ながら言葉を発するうちに、「頭の中に無造作に転がっていた思考のかけらが、パズルのピースのように少しずつはまって、まとまっていく」。つまり読んだ本の内容が「自分の中により深く内在化されていく」という(『読書会入門』幻冬舎新書)▼対話にも通じよう。相手に分かってもらいたい一心で、表現を考え、工夫を重ねる。その努力の積み重ねによって、自分自身の思想が磨かれ、言論の力が鍛えられていく▼池田先生は「対話の中でこそ、理解と確信は深まり、思想は輝きを放っていく」と。友の幸福を祈る真心から生まれる言葉は、相手だけでなく、自分の心をも豊かにする。(誼)

寸鉄 2019年12月19日
一人一人が周囲に尽くす学会は素晴らしい—総長共生の世紀を我らの力で
色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり—御書。題目で苦境開け
各地で真剣に地区討議。一人一人の前進が創価の勝利。共々に決意を固め
防災対策、半数以上が未実施と。備蓄品の準備等、できる事から。教訓胸に
SNSで犯罪被害の子、88%がスマホの閲覧制限なし。保護者が意識高く

☆四季の励まし 「感謝の心」で人生は豊かに 2019年12月15日
感謝の心は美しい。
自らに縁した人を
大事にしていこうという
心の余裕が、
人生を豊かにする。
美しくする。

新渡戸稲造博士は
「恩」を知る大切さを
述べている。
「偉大なる心は
常に感恩の情に満つ」
感謝の人は成長できる。
恩を忘れた時から、
人間の堕落が始まる。
恩を知ることが
人間の道だ。

愚痴と文句は、
歓喜を奪い去り、
心をすさんだものにし、
自分で自分を
不幸にしていく。
反対に、
「ありがたいな」という
感謝の思いは、
歓喜を
燃え上がらせていく。
そして、歓喜は
自らの心を豊かにし、
幸福にする。

創価学会には、
誰も見ていないところで、
広布のため、同志のため、
また地域のために、
地道に真剣に
努力している人が
数多くいる。
その人たちのおかげで
学会は発展してきた。
そういう陰の立場の人を、
心から
大切にしていくことだ。
その功労をたたえ、
温かく励まし、
深く深く感謝できる人で
あっていただきたい。

私は毎日、
全学会員の方々に感謝し、
健康、長寿、無事故を
真剣に祈っている。
来る日も来る日も、
一生懸命に広布に走る
学会員の皆さまは、
地涌の菩薩であり、
御本仏の
お使いであられる。
この世で
最も尊い方々なのである。
この誇りに燃えて、
明年もそれぞれの立場で
「使命の人生」を
戦いましょう!

☆ロータスラウンジ——法華経への旅 第11回 五百弟子受記品第八
◇深心の本願——自分は仏と同じく「救う人」でありたい
法華経について、皆で学び、深めよう——「ロータスラウンジ——法華経への旅」の第11回は、「五百弟子受記品第八」です(前回は10月22日付。原則、月1回掲載)。

■大要
「化城喩品第七」で「宿世の因縁」を理解した、「説法第一」の「富楼那」と、1200人の阿羅漢(小乗の覚りを得た最高位の声聞)に授記(未来に仏になれるとの記別を授けること)がなされます。
特に500人の阿羅漢は、「普明如来」という同一の名をもつ仏になると記別が授けられます。
それを受けて、阿羅漢たちは「衣裏珠の譬え」を語り、釈尊に感謝の意を表します。それでは内容を追ってみましょう。

●シーン1
富楼那は説法を聞いて歓喜し、釈尊のもとへ行って、仰ぎ見ながら思います。
「釈尊だけが、私たちの心の深いところにある本来の願い(深心の本願)を、よく知っておられます」
その時、釈尊は比丘(男性の出家者)に、富楼那の素晴らしさを語ります。
"説法する者の中で第一である。法をよく理解し、法を人々に説き、喜ばせることができる"
"声聞の姿で、無数の人々を教化してきたのです。未来もまた、仏土を清めるために精進し、衆生を教化するであろう"……。
ここで、富楼那はその本地(本来の境地)が菩薩でありながら、方便によって声聞の姿を現じ、人々を導いてきたことが明かされます。
そして、釈尊は記別を授けます。
"富楼那は、菩薩の道を十分に満足して、「法明如来」という名前の仏になるであろう"

富楼那が授記されるのを見ていた1200人の阿羅漢たちは歓喜し、思います。
"私たちにも授記してくださればうれしいのだが……"
釈尊は阿羅漢たちの思いを知り、「頭陀第一」とたたえられる弟子の「摩訶迦葉」に告げます。
"今ここで、1200人の阿羅漢たちに、順々に記別を授けよう"
"この中の大弟子である橋陳如は、6万2千億の仏に供養し、「普明如来」という仏になる。500人の阿羅漢も、全員が同じ、「普明如来」という名の仏になるであろう"
授記された500人の阿羅漢は、歓喜し、自分たちの得たものを「衣裏珠の譬え」として語ります。

●シーン2
——ある貧しい男が親友の家に行って、ごちそうになり、酒に酔いつぶれて寝てしまいました。
この時、親友は、公用で急ぎ、出掛けなければならなくなりました。
そこで親友は、酔いつぶれている友人の衣の裏に「無価の宝珠」、すなわち値段のつけられないほど高価な宝の玉を縫いつけて、出掛けていきました。
貧しい男は酔いつぶれて寝ていたために、そんなことはまったく知りません。目が覚めて起きてからも、さまざまな国を流浪します。
そのうちお金がなくなり、生活が苦しくなってきます。衣食のために働きますが、苦しさは変わりません。少しでもお金が入ると、それで満足していました。
やがて親友は、男に出会います。そのみすぼらしい姿を見て、男に語ります。
「君は何と愚かなんだ。どうして、そんなに衣食に窮しているのか。私はあの時、君が安楽な生活ができるよう、また、欲しいものは何でも手に入るようにと思って、『無価の宝珠』を君の衣の裏に縫いつけておいたのです。今も、そのままあるではないか。それなのに、君はそのことを知らないで、ひどく苦労し、悩んでいる。まったく愚かだ」
貧しい男は、親友が教えてくれた宝珠を見て、大歓喜しました——。

●シーン3
阿羅漢たちは語ります。
"釈尊は、私たちを教化し、「一切智の心」(仏の智慧を求める心)を起こしてくださったが、忘れてしまっていました"
"すでに覚りを得たと思って、その小さい覚りで満足していました"
"「一切智の願」(成仏を願う心)を失っていなかったので、釈尊は私たちを目覚めさせてくださった"
"釈尊よ。私たちは今、実は菩薩であることを知り、大いに歓喜しているのです"……。

■菩薩の目覚め
"自分たちは、はるかな昔から成仏を願い、師である釈尊とともに菩薩の実践をしてきた"——声聞たちは、「宿世の因縁」を理解します。
つまり、菩薩の道を実践することこそ、本来の自分が求めていた「深心の本願」であることを思い出したのです。
池田先生は語っています。
「『深心の本願』と表現されているが、要するに全人類を救っていこうという『大願』です」
「声聞たちの目覚めとは何か。それは、結論的に言えば、『救われる人』から『救う人』に変わったということです。人々を断じて救いきるという『大願』に目覚めたのです。声聞たちは、悪世の苦しみから逃れたい、救われたいという思いで仏の教えを求めた。仏は、その心を知って、苦しみから脱却する道として、声聞たちに、まず小乗の教えを説いた」
「しかし、仏の本意は小乗にはなかった。弟子たちをたんに『救いを求める人』で終わらせたくはなかった。そこで、仏の本意を明かす法華経を説くのです。
——求めるべきは、小乗の悟りではなく、仏の智慧である。すべての人に、仏の智慧を得させて、仏と同じように、自在に人を救っていける境涯へと仕上げたい。それが仏の本意である、と」
「法華経を聞いて、"自分は、仏と同じく『救う人』でありたい"という『師弟不二の願い』に立った人が、法華経の『菩薩』です。その誓願は同時に『仏子の自覚』でもある。"自分は、仏の子である。だから智慧という仏の財産を全部受け継いでいけるのだ"という自覚です」(『法華経の智慧』普及版<上>)。
私たちにとっては、広宣流布という師弟不二の道を歩めることこそ、本当に自身が求めていた人生であると確信することです。その時、無上の歓喜があふれてくるのです。

【『法華経の智慧』から】 民衆とともに幸福に
久遠以来の「大願」を果たすために、今世に生まれてきた。そう確信すれば、今世の苦悩の姿も、迷いの姿も、全部、人を救うための方便だと分かるのです。
すなわち、初めから何の悩みもない恵まれた姿で人々の前に現れたのでは、だれも妙法の偉大さが分からない。また、そういう人には、民衆の心も分からないでしょう。
どんな宿業の苦しみも、それを克服して勝利の実証を示すために「あえて自分が選んだ苦しみ」なのです。そう確信することです。
勝つために自分があえてつくった苦悩なのだから、勝てないわけがない。負けるはずがないのです。「大願」を自覚すれば、つまり「我、本来仏なり」と自覚すれば、自身の宿命すら使命に変わるのです。
多くの人々と同じように「悩める民衆」の姿で生まれ、どこまでも「民衆とともに」幸福になっていく——それが私どもの使命のドラマなのです。(普及版<上>「五百弟子受記品 授学無学人記品」)

【コラム】 富楼那——話術よりも情熱と確信
釈尊の十大弟子の一人である富楼那は、聡明で弁舌に長じ、説法第一といわれています。
こう書くと、話術やテクニックにたけた"話がうまい人"をイメージしますが、それだけではありません。
法華経には「能く四衆に於いて示教利喜し」(325ページ)と記されています。池田先生は、「法を説くことによって、衆生を歓喜させる——そこに力点を置いた」と述べ、その弁舌の力の源泉について、「情熱」「確信」「真心」を挙げられています。
私たちにとって「情熱」は、広宣流布を成し遂げんとの熱願であり、目の前の一人を救いたいとの熱き思いといえるでしょう。また、「確信」が納得を生み出します。さらに、相手の幸福を祈り、どこまでも誠実に励ます「真心」の姿が相手の心を打つのです。
どこまでも広宣流布を願い、相手の幸せを祈る、情熱と確信と真心の対話を広げていきましょう。