地域の安全の基盤作りは
日頃の声掛けから!
たった一言でもいい。
近隣との挨拶を重ねて
安心のネットワークを!
四条金吾殿御返事 P1143
『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ』
【通解】
苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ、自受法楽ではないですか。ますます強盛な信心をしていきなさい。
〈寸鉄〉 2019年8月16日
青年部が戦没者法要。全ての犠牲者の冥福を祈念恒久平和建設の誓い新た
回向とは己の功徳善根を回らし向けること。広布の同志の題目が真の追善
良き友に守られた人生は負けない—恩師。学会は信心錬磨の善知識の連帯
創価班・牙城会・白蓮G新時代1期生が対話に先駆!壁破る挑戦で原点を
7月の暑さ過去最高、世界で緊急の環境対策を—国連総長。皆が意識革命
☆御書と歩む� 第84回 創価家族の黄金の夏に
『今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり』(開目抄、223ページ)
◇通解
今、法華経の時こそ女人成仏の時であり、悲母の成仏も顕れる。提婆達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕れる。この法華経は内典の孝経である。
◇同志への指針
妙法こそ、父母はじめ全ての眷属を成仏へ導ける究極の孝養の力だ。何があっても、題目が響く家庭は、必ず永遠の幸福と安穏に包まれる。
伝統の「未来部躍進月間」。親から子、祖父母から孫へ、先輩から後輩へ、信心の喜びと感動を深める黄金の夏に!
笑顔光る創価家族は、地域社会を照らす希望の灯台だ。「一家和楽」から「世界平和」も広がるのだ。
☆8月度座談会拝読御書 崇峻天皇御書(三種財宝御書)
◇「振る舞い」こそが仏法の真髄 自他共の仏性を薫発
◇拝読御文
『一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』御書全集 1174ページ14行目〜15行目
◇本抄について
本抄は、建治3年(1277年)9月11日、日蓮大聖人が56歳の時、身延で認められ、鎌倉の四条金吾に与えられたお手紙です。
別名を「三種財宝御書」といいます。
本抄が送られる直前、金吾は、桑ケ谷問答を巡る讒言を信じた主君の江間氏から、"法華経の信仰を捨てると約束する起請文(誓約書)を書かなければ、所領を没収する"と迫られますが、不退転の決意を固めます。
その覚悟を知った大聖人は、金吾に代わって自ら、江間氏への陳状(弁明書)を認められました(頼基陳状)。
金吾は、主君から疎まれ、周囲からも圧迫され、絶体絶命の窮地にありました。
ところが、主君が疫病に倒れ、医術の心得のある金吾が治療に当たることになり、信頼回復の好機を得ることができたのです。その報告に対する返信が本抄です。
短気で一時の感情に流されやすい金吾に対し、思慮深く、誠実に振る舞うよう教えられています。
最初に、金吾が信心に励むことができるのも、江間氏の恩によるものであり、金吾が積んだ功徳は主君にまで及んでいくとの道理を示されます。
さらに、「内薫外護」の法理を通し、強盛な信心に諸天の加護が必ず現れることを教え、正邪は必ず明確になると述べられます。
「竜の口の法難」で、生死を共にしようとした金吾の信心をたたえ、周囲に信頼を広げるとともに、信心に励み、「心の財」を積むことが、人生にとって最も大切であると強調されます。
そして、崇峻天皇の故事などを引き、人間としての賢明な「振る舞い」こそ、仏法が教えようとした結論であると諭されています。
◇不軽の実践
「不軽品」とは、「法華経常不軽菩薩品第20」のことで、不軽菩薩の修行の様子を描き、釈尊滅後の弘通の在り方が説かれています。
不軽菩薩は、どんなに迫害にあっても、礼拝行を続けました。決して人を軽んじることがなかったので、不軽菩薩といいます。釈尊の過去世での修行の姿であると説かれています。
不軽菩薩が礼拝の時、唱えていたのが、「二十四文字の法華経」といわれる「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」(我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり〈法華経557ページ〉)です。
仏になれることを信じられない人たちは、礼拝する不軽菩薩に暴言を吐き、杖で打ち、石などを投げて迫害しました。それでも不軽菩薩は礼拝を続け、六根清浄(生命の浄化)の功徳を得て成仏しました。
つまり、自他共の仏性を信じる振る舞いに徹することが、私たちにとっても六根清浄、人間革命の修行となるのです。
「仏性を信じる」と言っても、実際の行動に表れなければ、本当の意味での信じることにはつながりません。相手の仏性を礼拝するとは、粘り強く、誠実に、そして真剣に関わっていくことです。
不軽菩薩の実践は、自他共の幸福を開く菩薩の道なのです。
「絶対に分かってくれない」「反発するだろう」と相手を決め付けて、対話を諦めてしまうことは、相手の仏性を信じ切れないだけでなく、自分自身の仏性を閉ざすことにも通じます。
相手の幸福を願い、祈り、行動することは、そのまま自身の仏性を薫発することになるのです。
◇仏縁を結ぶ
不軽菩薩は、迫害を受けても、なぜ礼拝行を続けたのでしょうか。
それは、妙法を聞いたことで、相手は三毒の心を起こし、法を説く人を迫害しますが、同時に仏法を聞くことによって、仏縁が結ばれ、その人の生命に仏種が植えられるからです。
どんなに反対し、反発する人であっても、妙法を説くことによって必ず救っていくことができるのです。
「御義口伝」に不軽菩薩の礼拝について、「而強毒之するは慈悲より起れり」(御書769ページ)と記されています。
「而強毒之」は「而も強いて之を毒す」と読み下します。正法を聞くのを嫌う人に対しても、あえて法を説いて仏縁を結ぶことをいいます。
どんな相手であっても、真摯に、仏法を語っていく行動は、慈悲の表れにほかなりません。
嫌がるから対話しない。反対するから話をしない——それは無慈悲に通じてしまいます。
どこまでも慈悲の発露として、仏法を語っていくのであって、相手を打ち負かすためではありません。
もちろん、相手が話も聞かず、悪口までしてきたら、誰でも悪感情になるものです。
しかし不軽の実践は、こうした感情に左右される自身の小さな境涯を打ち破る修行なのです。
先ほどの「御義口伝」の続きに、「仏心とは大慈悲心是なり」(同ページ)とあります。どんな相手にも、分け隔て無く仏縁を結んでいくことです。
また、相手の反応に一喜一憂する必要などありません。どこまでも慈悲の心で、勇気をもって仏法を語り抜いていくことが大切なのです。
◇故事に込めた思い
今回の拝読箇所の直前に、軽率な言動で身を滅ぼしてしまった崇峻天皇の故事がつづられています。
四条金吾が、うかつな行動を取らないように戒める意味があったのでしょう。
御書では、大要、次のように記されています。
——崇峻天皇は、聖徳太子の伯父です。聖徳太子は、天皇に相を見るように命じられますが、三度にわたって辞退しました。それでも見るように言われるので、太子は天皇に、「人に殺される相をお持ちです」と申し上げました。
天皇は顔色を変え、「どんな証拠があるのか」と問います。太子は「眼に赤い筋があるのは、人に恨まれる相です」と答えました。
天皇は難を逃れる方法を教えよと命じます。
太子は、「仏法で獲得すべき六つの徳目の一つである忍辱(さまざまな侮辱を耐え忍ぶ)を実践すれば逃れられるでしょう」と進言します。
天皇は、しばらくは忍辱を貫きました。しかし、ある日、捕らえられたイノシシの子の眼に、髪をとめるための棒をズブズブと突き刺し、「いつの日か、憎いやつに、こうしてやる」と話してしまったのです。
側にいた太子は、"天皇は必ず人に恨まれる"と思い、失言が仇にならないよう、天皇の言葉を聞いた人たちに贈り物をしました。
しかし、蘇我馬子に伝わり、馬子は"自分が殺される"と思って、天皇を殺してしまいました——。
感情的になって、相手を憎むことは、そのまま自分の生命を害することになると教えられています。
★池田先生の指針から/「人を敬う」のは折伏と同じ
不軽菩薩の「人を敬う振る舞い」とは、「成仏の根本因」です。一個の人間が成仏していくために不可欠な実践なのです。この「人の振る舞い」を説かなければ、万人の成仏も画餅に帰します。ゆえに、「教主釈尊の出世の本懐」であると言われているのです。
日蓮大聖人御自身の実践もまた「人を敬う振る舞い」で貫かれていました。いかなる悪世にあっても、妙法への信を起こし、貫いていく人の心には、必ず仏性が薫発します。その人の人間としての振る舞いには、必ず「人を敬う」という根本的な実践哲学の智慧が脈打っているのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻「崇峻天皇御書」)
◇ ◆ ◇
不軽菩薩の「人を敬う」実践というのは、実は「折伏」と同じです。わが恩師・戸田城聖先生は、常々、私たち学会員に、「悩みがあるならば、折伏をするのだ!」「折伏の中で自身の宿命転換もできるのだ!」と教えられました。
折伏とは、相手を論破するとか、打ち負かすことではありません。誰もが仏性を具えた尊極の存在であり、その「自他共の」尊厳性に目覚めよという励ましであり、呼びかけです。不軽菩薩の振る舞いそのものです。それは、自身の「諦め」「無力感」などの無明の氷壁を破る戦いでもあります。他者の誰かを折伏しつつも、実は、自分自身の無明、煩悩を折伏しているのです。だから、悩みに負けない、強い自分になれる。自身の境涯の変革も宿命転換も、断固と成し遂げていけるのです。
その意味で、折伏の本義とは、自身の"臆病や怠惰、迷いの心を折り伏す"ことであり、それが、自他共の"無明を折り伏す"ことになるとも言えるでしょう。仏法対話とは、"自分が覚ってから他人に教えよう"というものではありません。自分はまだ修行の途上であっても、師匠の教える通りに、自分から他者に関わり、他者に呼びかけていくのです。(「大白蓮華」2018年9月号掲載の「世界を照らす 太陽の仏法」)
参考文献
○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第4巻(聖教新聞社)