真に立ち向かうべきは
自分自身の諦めの心だ。
わが誓いの成就を
決めて祈って動けば
必ず道は開かれる!
上野殿御返事 P1558
『相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならずむかいにまいり候べし』
【通解】
自他の生死はわからないけれども、あなたの御臨終のさいに、生死の中間には必ず日蓮が迎えに参るであろう。
〈寸鉄〉 2019年5月29日
青年の心を揺さぶるのは青年の叫び—恩師。壁を突き破る正義の師子吼を
奉仕は他者を幸福にし、自身も幸福にする—偉人自他共に輝く励まし運動
「求めて師とすべし」御書師弟の正道歩む誉れの人生。勝ってこそ真の弟子
特殊詐欺の被害、全国で1日当たり約1億円と。「私は大丈夫」の隙排して
気温上昇に伴う食中毒に注意。丁寧な手洗い、食品の十分な加熱等で予防
☆世界に魂を 心に翼を 第16回 「命どぅ宝」の響き(上)
◇沖縄の"大恩"を忘れるな
創立以来、民音は世界110カ国・地域と交流を結び、海外の一流の音楽芸術を日本に届けてきた。累計公演数は約8万回にも及ぶ。
海外初招聘となったのは、1965年12月に招いたイスラエルのピアニスト。その後、各国との文化交流は徐々に広がっていき、沖縄の地でも、72年5月15日の本土復帰を機に海外招聘の期待が高まる。
だが招聘は一筋縄ではいかなかった。本州から離れた沖縄では、アーティストの交通費や機材の輸送費など経費がかさむ。その分、入場料を高くせざるを得ないが、値上げすれば気軽に足を運んでもらえない。当時、沖縄は失業率が高く、県民所得は全国最下位だった。沖縄への海外招聘はできないとの声も上がった。
沖縄民音の上江洲勝雄さん(故人)は、助成を受けるために自治体や関係者のもとへ何度も足を運び、文化交流の意義を切々と訴えた。
やがて、その熱意が伝わり、自治体や企業の協力を得て、沖縄への海外招聘が次々に実っていく。フランスの名バイオリニストであるミッシェル・ベネデット氏ら(76年)をはじめ、これまで30を超える国・地域のアーティストを招いてきた。著名な音楽家の公演を聞き付け、台湾などから飛行機で来日する観客もいた。
上江洲さんの原点——それは91年2月7日、沖縄を訪れていた民音創立者の池田先生が、那覇市の親泊康晴市長と懇談した時のことである。
開口一番、先生は「民音が、大変にお世話になっています」。そして「私は沖縄を大切にします。それは日本のために一番の犠牲になった国土だからです」と。
断固とした口調に、上江洲さんは衝撃を受けた。
先生は、沖縄が持つ平和の使命、さらに芸術を通して心を結ぶ"民間外交"の重要性を強調している。
創立者自ら交流の道を開く姿を目の当たりにし、上江洲さんの行動は一段と熱を帯びていった。
世界各地の音楽文化、芸術交流の大切さを語る中で、当初は民音の存在を快く思っていなかった地域の実力者までもが、沖縄での公演を応援してくれるまでに。思想や信条を超えて一丸となって連携する姿は、関係者が不思議に思うほどだった。
◇ ◆ ◇
高台にある深紅の首里城に、爽やかな海風がそよぐ。
94年2月17日、沖縄訪問中の池田先生が首里城を視察。戦争で焼け落ちた城は、本土復帰20周年を機に、国営公園として復元されていた。
同行していた桃原正義さん(学会の総沖縄長)。「先生は"復元されたら、一緒に行こう"との約束を覚えていてくださいました。滞在できる時間は数十分。学芸員の方には最小限の解説でとお願いしていたのですが、先生は首里城や沖縄の歴史について矢継ぎ早に質問されました」
先生は、沖縄には中国と長い交流の歴史があることに触れ、"沖縄は世界に通じているね"。
桃原さんは語る。「琉球王国は中国や東南アジアと盛んに交流し、多種多様な文化をチャンプルー(混ぜる)して独自の文化を生み出してきました。先生は、文化立国としての沖縄に着目されたのだと思います」
首里城の正殿には「万国津梁(世界の懸け橋)の鐘」が掛けられていた。気宇壮大な志で海を渡り、大々的な交易で繁栄した琉球王国だが、1609年に薩摩藩から侵攻を受けて以来、文化的にも抑圧が続いた。太平洋戦争末期の沖縄戦では、方言を使用したために殺された人もいた。日本語でない言葉は、全て"暗号"とされたからだ。
明治から戦後にかけ、学校の黒板には「標準語励行」と書かれていた。方言を使えば「方言札」という札を首に掛けられ、罰せられた。桃原さんは1968年に就職し、パスポートを握り締めて上京したが、「自分は正しい日本語を話せているのか、いつも不安でした」と述懐する。
「私たちの上の世代は、方言を使うと、札を掛けられて廊下に立たされました。私も方言を使い、掃除当番をさせられたのを覚えています。自由に話せず、自信が持てない。いつも自分を卑下していました」
沖縄初訪問の折(60年)、池田先生は首里城ゆかりの万国津梁の鐘を通し、"沖縄には平和の魂がある。その平和の魂で世界の懸け橋を築くんだ"と望んだ。以来、一貫して、世界を結ぶ沖縄の使命、さらに沖縄の文化の偉大さを訴えてきた。
民音が主体となって沖縄の民俗芸能を舞台化し、世界各地で脚光を浴びた「沖縄歌舞団」(69年)の公演から、今年で50年がたつ。その間、民音は、沖縄の心を伝える公演を次々と実現させてきた。
桃原さんは振り返る。「沖縄の誇りと使命に目覚めよ。池田先生は常に、そう励ましてくださいました」
◇ ◆ ◇
「沖縄芸能のリーダーを育てる場となってきた民音。世界の人々がともに平和を愛する同じ人間であることを、世界で交流を広げている民音が知らせてくれた」(「沖縄タイムス」2003年12月2日付)
そう民音の歩みを評するのは、沖縄芸能研究家の宜保栄治郎氏。
沖縄の芸能に批判的だった人々でさえ、民音の公演には「沖縄の心、魂が表現されている」と反響を呼んできたと語る一方で、ブロードウェーや雑技団といった多彩な芸術の招聘が大きな刺激となり、沖縄の新たなジャンル、演目の創造につながっていくと述べている(同)。
中でも本土復帰から20周年となる92年に全国公演を行ったミュージカル「大航海」は、沖縄の舞踊・音楽関係者が総力を挙げ、沖縄の新時代を広く伝えるものとなった。出演者は各分野の第一線で活躍している。
舞台は500年前の琉球王国。島を飛び出した若者たちがアジア諸国を巡り、さまざまな人や文化と出合い、手を取り合って進む——まさに"万国津梁"の再現である。
主役の一人を務めた当銘由亮氏。「『大航海』が僕らの世代に与えた影響は大きかった。芸能家の基本が全て詰まった舞台でした。そういった経験は、後にも先にもありません」
92年の全国ツアーは、11、12月の巡演。青森での公演は降雪に見舞われた。若手舞踊家の中には、初めて雪を目にした人も。「経験したことのない寒さでした。でも民音の舞台は寒さを吹き飛ばす熱気にあふれていました」と感慨を深める。
氏は「ウチナーグチ(沖縄方言)」を生かした舞台を貫いた。幼少時代、学校で「今日の目標」に「方言を使わない」と掲げられていたこともあった。「大航海」の公演を重ねる中で、方言の豊かな魅力をかみ締めた。
「ウチナーグチには、日本語だけでは伝えきれない心がこもっています」と話す当銘氏。沖縄芝居、歌三線、琉球舞踊などの伝統芸能を"現代エンターテインメント"として表現するなど、多彩な活躍を見せる傍ら、沖縄方言の継承にも力を尽くす。
◇ ◆ ◇
「大航海」の舞台を脚本・音楽監督として支えたのが、沖縄音楽界の中心的存在であった中村透氏である。
沖縄を舞台とする創作オペラや合唱曲、オーケストラ作品などを手掛け、多くの後進を育んだ。
本年2月7日、氏は72歳で世を去った。葬儀には1000人以上が参列。氏の思い出話に花を咲かせ、いつまでも家路に就くことはなかった。
北海道出身の中村氏は75年に沖縄へ。沖縄戦の歴史に触れ、"人間として、作曲家として、戦争とどう向き合うか"呻吟した。代表作となった「交響絵図 摩文仁野第2番」では、戦下の混乱と悲しみを打楽器の連打と不協和音で表現。終盤の「祈り」の場面を沖縄の音階で紡いだ。
中村氏の妻であり、オペラ歌手の玻名城律子氏が語った。
「"沖縄の若き人材を世に出したい。どう光を当てたらいいか"——中村は、その一心で駆け回っていました。『大航海』の音楽を任された時、最初は戸惑っていたのを思い出します。原作には、壮大な沖縄の世界観がありました。歴史を学び直しつつ、たくさんの音楽家に声を掛け、楽しそうに取り組んでいました」
玻名城氏は沖縄出身だが、東京の大学でクラシック音楽を学び、沖縄の音楽文化への関心は薄かったという。「大航海」では歌唱指導を担当したが、台本を見て驚いた。島を出て、異国で新たな文化と知識を得て故郷に持ち帰る——自身の体験と、どこか重なるところがあった。
「私の世代くらいまではコンプレックスがあります。『大航海』で自分たちの歴史を知り、日本中で喝采を受ける中で、"私たちはこれでいいんだ"と思えるようになった。中村も、そのことを知っていた。だからこそ、民音の舞台にここまで力を注いだのだと思います」
◇ ◆ ◇
91年2月、那覇市長と会見した直後に池田先生は語っている。
「日本の"本土"のために、命を捨てて戦い、筆舌に尽くせぬ悲惨な戦禍に苦しんだ。沖縄の犠牲があったからこそ、戦後の日本の繁栄があり、平和がある。日本全体が、沖縄に"大恩"がある。その根本の事実を忘れて、繁栄に傲り、『報恩』しないばかりか、見下すようなことは絶対に許すことはできない」
「一番苦しんだところが一番幸せになる権利がある。これが仏法の慈悲の精神である。ゆえに、沖縄にこそ、最高の『平和の楽土』を、『幸の都』を築かねばならない。築きたい。そして沖縄の人々こそが、誰よりも幸せになっていただきたい。そのためには何でもして差し上げたい」
まもなく、令和初となる47回目の本土復帰の日が巡り来る。
時代は変われど、文化交流に臨む民音の精神は一貫して変わらない。
心を震わせる感動の音楽を。
人の誇りを呼び覚ます芸術を。
その人間と人間の魂の共鳴から、新たな時代は開かれる。