「希望」とは
与えられるものではなく
自らつくり出すものだ。
妙法を信じ唱え抜く心に
太陽は赫々と昇りゆく!
法蓮抄 P1052
『野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ』
【通解】
野を行き、山を行くにも、かたわらの草木が風に吹かれてざわめくかすかな音も、敵が私を責めているのではないかと思われた。
〈寸鉄〉 2019年5月4日
「いつも・たいせず信ずるなり」御書。持続の人に栄冠は輝く。実践こそ第一
親をも愛せぬ者に他人を愛せようか—戸田先生。青年よ親孝行の人であれ
みどりの日。瑞々しい自然に親しみ豊かな心を育もう。清新な息吹で前進
気温上昇で熱中症に注意を。暑さに慣れない季節。水分・塩分補給等、早めに
GWが終盤。高速道路での事故も急増中。有意義な連休を断じて無事故で
☆御書と歩む� 第68回 妙音と共に平和の大行進を
『音の哀楽を以て国の盛衰を知る』(念仏者追放宣旨事、88ページ)
◇通解
音の哀楽で国の盛衰を知ることができる。
◇同志への指針
音にも十界の境涯があり、妙音には生命を蘇生させゆく力がある。
わが音楽隊・鼓笛隊が奏でる音律は、皆に勇気と希望を送り、心を豊かに鼓舞してくれる。法華経の世界さながらの演奏もパレードも、本当にありがとう!
誉れの青年と乙女が高らかに打ち鳴らす新時代の暁鐘とともに、平和と文化の大行進をいよいよ明るく賑やかに!
☆心大歓喜 紙上講義で学ぼう 2019年4月30日
◇永遠に先駆の大九州たれ
今回の「心大歓喜——紙上講義で学ぼう」には、田村九州教学部長が登場。「如説修行抄」の御文を拝し、「永遠に先駆の大九州たれ」との指針を胸に、広宣流布の旗を掲げ、拡大に先駆ける九州の心意気を、つづってもらいます。
◇御文
『権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗って権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ……』(如説修行抄、502ページ1行目〜3行目)
◇通解
権教と実教との戦いを起こし、どんな難にも耐える忍辱の鎧を着て、南無妙法蓮華経の利剣を提げ、法華経一部八巻の肝心たる妙法蓮華経の旗を掲げ、未顕真実の弓を張り、正直捨権の矢をつがえて、大白牛車に打ち乗って、権門をかっぱと破り、あちらへ押しかけ、こちらに押しよせ……。
◇池田先生の指針から
わが九州にみなぎる「先駆」の精神とは何か。
第一に「自発能動」の信心である。
第二に「大勇猛心」である。
第三に「疾風迅雷」の行動力である。
九州は、この精神で、戦って戦って戦い抜いて、三類の強敵の暴風を突き抜けてきた。(「随筆 新・人間革命」〈「火の国」九州の誇り〉、『池田大作全集』第131巻所収)
◇ ◇ ◇
「創価完勝の決定打は我等の手で!」。この気宇壮大な責任感こそ九州魂である。
「九州に続け!」。福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、大分、宮崎——大九州の皆様方の先駆けの、そして命がけの奮闘が、全国、全世界の同志をどんなに鼓舞してきたことか! 私の胸からは一生涯、離れることはない。
「先駆」とは、"人に先んじる"だけではない。
いざ新たな戦いを起こそうとした時、誰でも最初に突き当たるのは、自分自身の心の壁である。「難しい」「苦手だ」「できない」——そうした自身の壁に、勇気を奮ってぶつかることだ。(中略)
懐かしき九州のいつも元気な友よ、どうか日本一仲良く、「気取らない」「誠実である」「真剣である」「必ずやりきる」という伝統を、日本中の同志のために貫いていただきたいのだ。
(2004年2月28日付本紙、「随筆 人間世紀の光」〈大九州の誉れの使命〉)
◇九州教学部長 田村隆雄
●師弟の旗高く対話へ! 戦う信心に喜びがある
◇なぜ信心するのか?
座談会で突如、情熱みなぎる真剣な語らいが始まったことがあります。
「宿命転換のため」等、一人一人が自分の考える信仰観を話しました。その時、私は、「楽しいから」と答えたことを覚えています。
生命から噴き出してくるような朗らかさ、生きていること自体が楽しいという歓喜こそ、信心の醍醐味です。
歓喜——それは、決して受け身や惰性の信心では得られません。自らが、広宣流布の誓いを立て、使命に燃えて、勇敢に戦いを起こしてこそ、生命の本然の力が発揮されます。
そのことを池田先生は、「火の国の歌」で「先駆の九州 いざ楽し」と、九州の全同志に「先駆」の使命を教えてくださったのです。
今回拝する「如説修行抄」には、妙法流布に先駆する日蓮大聖人の折伏精神がみなぎっています。
大聖人は「権実二教のいくさを起し」(御書502ページ)と仰せです。
"苦難を受けている"のでなく、むしろ、"自ら折伏の戦を起こした"との闘争宣言です。
強盛な信心には、苦難の意味を大きく変えていく力があります。ゆえに、大聖人の御闘争には、悲哀や嘆きなど微塵もありません。むしろ、如説修行の行者として、身命をささげる覚悟と誇りにあふれています。
「一部八巻の肝心・妙法五字の旗」、つまり南無妙法蓮華経の題目の旗を掲げ、「かしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」と、縦横無尽に駆け、仏の軍勢を広げてきたと仰せです。
この御文を拝するたびに思い起こされるのは、1980年(昭和55年)5月1日、九州平和会館(当時)での福岡県本部長会で放たれた、池田先生の師子吼です。
「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」
第5次訪中の帰路、先生はあえて、九州に入られました。当時、師弟の絆を切り裂こうとする反逆者や悪侶たちの攻撃は熾烈を極めていました。それでも同志は、師を求めて押し寄せました。先生は、真心に応え、抱きかかえるように激励してくださったのです。
私たちの師匠は永遠に池田先生——そう腹を決めた九州の全同志は、師弟不二の旗を掲げ、反転攻勢に敢然と打って出ました。
私たちは"九州から、日本の、世界の、広宣流布の新しいパターンを"との期待に今こそ応えたいと、学会の真実を世間に伝える展示を企画。翌81年5月に「九州池田平和記念館」がオープンしました。その折、先生は「これからの広宣流布は、折伏と、平和・文化・教育の、二つの車輪で進んでいくんだよ」と教えてくださったのです。
"5万人で「第九」の合唱を行っては"との、先生の提案に真っ先に呼応した九州青年部は、25年前、福岡ドーム(当時)で「アジア青年平和音楽祭」を開催。代表5万人が、先生の前で「歓喜の歌」を歌い上げました。
「第九」に込められた"苦悩を突き抜け歓喜に至れ!"とのメッセージは、仏法の「煩悩即菩提」の法理にも通じる人間賛歌に思えてなりません。
先日、広布の主戦場に駆け付けた同志が、誇らしげに語っていました。
「自分の信心の戦いです。自身の使命、師匠との誓いを果たすためです!」
私は、爽やかな風が吹き抜けたような気持ちになりました。
先生は、教えてくださいました。
「楽しいところに、人々は集う。明るい集いに、歓喜がわく。喜びの信心に、福徳はいや増す。勢いの強いところに、勝利もある」「前進する人には『希望』がわく。『勇気』がみなぎる。『張り』がある。『充実感』がある。『結果』も出る。だから楽しい」
一人一人が"自分自身の信心の戦い"を起こし、祈り抜き、祈りきり、縦横無尽に仏法対話に先駆け、自他共に"使命の喜びの人生"を謳歌しようではありませんか!